是枝裕和
『海街diary』
鎌倉の古い日本家屋に住む三姉妹は、毎年春になると庭で獲れた梅を使って梅酒を作っていたが、今年は新たに加わった妹も梅酒作りに参加した。
この梅酒は年を重ねるごとに次第に色味を帯び始め、香りや味も変化してゆくように、それ自体が姉妹だけでなく家族全体の歴史を物語る手段になっている。
つまり、瓶に入った梅酒の色を見るだけで、この家で過ごした姉妹の時間が封じ込められている事が分かるのだ。
それまでは三姉妹によって行われていた梅酒作りに、新たに妹のすず(広瀬すず)が加わる事によって彼女もまた家族の歴史に自らの存在を刻み込む。
刻み込むという言葉は単なる比喩ではなく、15歳になったすずが柱に身長を文字通り刻み込んでいたように、この古い日本家屋に新たに家族の一員として加わった彼女は、ここで自らの痕跡を刻み込む作業を行うのだ。
その一つに梅酒作りがあるのだが、それは三姉妹から四姉妹へと増えた家族の歴史だけではなく、それ以前の家族の歴史も含まれている。
それが今は亡き祖母の作った梅酒であり、その梅酒は深い色味を帯びていたように、そこには間違いなく家族の歴史が遺言のように刻み込まれている。
しかし、その梅酒も全て飲み切ってしまえば、その歴史を具体的なモノとして記録する事は不可能になるように、そこにはいつか消えて無くなってしまうモノへの哀切が含まれており、何かを永遠に残しておくのではなく、やがて消滅してしまう何かについて記憶しようとする事が重要になる。
長女の幸(綾瀬はるか)は母親の都(大竹しのぶ)との確執を抱えており、祖母の法事で久しぶりに再会したにもかかわらず、母親から家を売らないかと言われた事をきっかけに口論になってしまった。
この古い日本家屋は、三姉妹のみならず新たに家族に加わった妹のすずにとっても拠り所となるべき場所であり、それほど大切な家を軽々しく売らないかと言う母親に対して、幸は自らの怒りを抑える事ができなかった。
しかし、母親は「お父さんが悪いのよ。女の人作るから」と、その女の人の間に生まれたすずの前で平然と言ってのけてしまった。
まさに母親が、この家を出るきっかけとなった原因に父親と再婚した女の存在があり、その娘であるすずと同じ空間を共有している事に耐えられなかったのだろう。
その翌日、母親は再び家を訪れて、昨日渡しそびれた四姉妹へのお土産を手渡し、祖母の墓参りに行くと言うので、幸も一緒について行った。
その道すがら、母親は自分にとっては息苦しいだけの家も、娘たちにとっては大切な家だという事に気付いたと告白する事によって、親子の間で長年に渡って存在した確執が束の間解きほぐされたような瞬間が到来した。
そして、札幌へと帰る母親に対して、幸は祖母の作った梅酒の残り全てを瓶に入れ換えて手渡した。
この梅酒を見て、母親は「いい色」と言ったように、そこに今は亡き祖母の記憶を蘇らせていたはずであり、それが娘から母親へと手渡される行為を通じて、家族の歴史や時間が鎌倉から札幌へと空間的に移動する事にもなるのだ。
つまり、この梅酒とはタイムカプセルの機能を持っているのであり、その色や香り、味を通して過去の記憶を蘇らせ、今は亡き祖母の存在や離れて暮らす家族の存在を思い出させる役割を果たす。
その梅酒をブレンドする事によって複雑な香りや味を作り出す事もできるように、過去は複雑に絡み合いながら現在へと回帰し、それぞれの好みに応じて味わう事も可能にする。
それと同時に、この梅酒は家族が家族である事を確認する為にも使用されている。
例えばすずが梅酒を飲んで酔っ払ってしまった時、その姿が次女の佳乃(長澤まさみ)の酔っ払った姿とそっくりだったように、母親は異なれど同じ父親から受け継いだ血が確実に姉妹に流れていると確認できる。
そうした血の繋がりは梅酒だけではなく、三女の千佳(夏帆)の趣味である釣りが、すずの口からお父さんも釣りが好きだったという言葉によって、父親の記憶がほとんどない千佳に父親との共通点に気付かせるきっかけになった。
それはまた湘南の海で獲れたシラスから、すずが父親の作ってくれたシラストーストの記憶を蘇らせるように、父親の記憶の痕跡は至るところに配置されている事が分かる。
しかし、その父親は既に死者であり、写真すらなく、一度として画面には登場しない。
それは家族にとって重要な存在だったと窺われる祖母も同様であり、仏壇の上に祖父母の写真が掛けられているものの、その写真が画面に映し出される事は一度もなく、祖母が長女の幸に似ていると言われるものの、もっぱら祖母の作った梅酒が彼女の存在を代表する痕跡として登場している。
つまり、この作品は今を生きている者だけでなく、今は亡き者の物語でもあり、それが目に見えているかどうかは関係なく、彼女たちや彼たちは等しく登場人物の地位を与えられている。
それは今まさに死にゆく者の物語でもあり、その痕跡を刻み込む作業を同時に行う事が、現在を形作っている事に気付かされる。
しかし、その痕跡もまた永遠ではなく、梅酒を飲み切っててしまえば、具体的なモノも消えて無くなってしまうように、四姉妹の家もまた決して永遠ではなく、いつか消えて無くなってしまうモノかもしれない。
それこそがまさに決して所有する事のできない「時間」であり、映画もまた移ろい行く「時間」である事から、それは常に観る者の記憶に委ねられている。
どこかで永遠を志向しながら、決して永遠を得られる事がなく、束の間の時間を過ごす事しかできない。
それを四姉妹は無意識の内に掴み取っているのではないかと思うのは、父親という四姉妹にとっての不在の中心に対して、対話を通して具体的な姿を結び始めているからであり、それぞれがバラバラに抱いていた父親像が、すずの存在によって次第に統合されてゆくからでもある。
しかし、父親の存在に限らず、誰しもが多様な側面を持つように、そのイメージが一つに統合される事は決してなく、相変わらず四姉妹の間には、それぞれの父親像が 存在し続けるだろう。
そのおぼろげなイメージを想像し続ける事が、具体的なモノではない曖昧な記憶となり、それが彼女たちに永遠を志向させるのかもしれない。
それまで不在の中心を占めてきた父親について物語が進行してきたが、そこで忘却されていた新たな不在に気付かされる。
この都合のよい忘却とは、登場人物に寄り添うように物語を見てきた自分自身の傲慢さでもあり、それが誰かを傷付けていた暴力でもあった。
すずは自分の存在が人を傷付けている事に悩んでいたが、実は彼女だけでなく、誰しもが自覚のないままに人を傷付けていた事に気付かされる。
それを自覚できた者が、「優しさ」を発揮できるのであり、当初は否定的な意味として登場していた「優しさ」が、最終的には肯定的な意味へと変化する。
それもまた「時間」のなせる業かもしれず、梅酒が「時間」と共に色や香り、味が変化するように、人も同様に変化する。
その画面には、鎌倉という場所もあって、自然と小津の名をつぶやきたくなる誘惑に駆られるが、だからと言ってこの作品が小津の作品に似ているという事は決してなく、むしろ全く無関係だとさえ言いたくなる。
それでもなお小津の痕跡を発見してしまうのは、日本家屋における階段にあり、それが画面に登場するだけで何やら不穏な空気が醸し出される。
それだけでなく、浜辺で腰を下ろす綾瀬はるかに思わず原節子の存在を重ね合わせてしまったり、彼女の強い意志にも共通点を発見してしまう。
これまで是枝裕和の作品には、主に海外から日本的という理由のみで小津という言葉が不用意にも用いられてきたが、今回ばかりは鎌倉という場所柄もあり、日本家屋と階段、浜辺や小路、銀行の屋上の風景、喪服の女性たちから、もはや言い訳できないほどの環境が整えられており、その方法として全く小津とは似ても似つかないが、それでもなおやはり小津である事を強く意識した作品である事は間違いない。
時おり常套句に陥っているシーンはあるものの、四季の風景の中に四姉妹を配置する事で、その期間は梅酒に比べて短いかもしれないが、その移ろいは確実に記録されており、それこそが「時間」を記録する映画に相応しい態度に思えた。