想田和弘
『ザ・ビッグハウス』
ミシガン大学映画学科の教員3人と学生16人が共同監督したドキュメンタリー映画『ザ・ビッグハウス』は、「観察映画第8弾」と銘打たれていることもあり、その中心に想田和弘が存在することは間違いない。
この作品は、ミシガン大学のアメリカンフットボールチームであるウルヴァリンズの試合を10万人を収容する「ビッグハウス」と呼ばれるミシガン・スタジアムを中心に記録したドキュメンタリーだ。
学生たちは映画学科の実習としてドキュメンタリー映画の製作に参加しており、想田は指導教官の役割を果たしていた。
しかし、学生たちは単にドキュメンタリー映画の製作を教えてもらう立場に留まらず、積極的に創作に参加する行為を通じて、それぞれが「映画作家」として扱われていた。
去年の3月にフジテレビで放送された「NONFIX 映画作家 想田和弘 アメリカを『観察』する」では、撮影を終えて編集段階に入っていた『ザ・ビッグハウス』の製作過程が紹介されていた。
当時は2016年の大統領選挙の期間にあたり、トランプとヒラリーの間で激しい選挙戦が繰り広げられていた。
既に『ザ・ビッグハウス』の撮影は終了していたが、その編集段階で大統領選の過程や結果によって、編集にまつわる方針が監督たちによる会議で議論になった。
想田和弘が編集においても恐らく中心的な役割を果たしていたのだろうが、学生を含めた監督たちは公平に自らの意見を主張していたように、そこでは「民主主義」的な議論が展開されていた。
それが、これまでの想田和弘による作品と大きく異なる点であり、彼が提案した編集を学生たちに批判されることもあった。
それは編集方針ばかりでなく、撮影段階でも発揮されており、想田と学生たちはそれぞれ手にしたカメラを用いて、ビッグハウスを中心にそれぞれの視点で撮影を行った。
そこには単一の視点ではなく複数の視点が存在した。
ここにも視点の複数性による「民主主義」的な製作態度が存在しており、この複数性を通じて共同監督であることの利点を活かそうとしていた。
ドナルド・トランプが大統領に当選した後、想田はスタジアムの外でトランプ支持者とヒラリー支持者が互いに激しく罵り合っているシーンを作品のラストに配置することを提案した。
この提案には監督たちの間で賛否両論があった。
アメリカ人にとってフットボールが大切であるように、ミシガンの人々にとってもウルヴァリンズが大切なのであり、それが政治的なメッセージによって汚されてしまうと批判する者もいた。
その一方で、白人以外の学生たちは、トランプ大統領の誕生によって自らの存在が否定されたかのような感情を抱き、アメリカ国内にもたらされた分断を示す為にも、そのシーンが必要だと主張する者もいた。
学内での試写では、トランプ支持者とヒラリー支持者がスタジアムの外で互いに激しく罵り合うシーンをラストに配置したバージョンが上映された。
結論から言えば、このシーンは完成版では丸々カットされていた。
恐らく編集会議で議論した結果、このシーンはカットされたのだろうが、それがなかった為に政治的なメッセージが弱まったことは確かだ。
この作品が政治的なメッセージを伝えることを目的にしていない以上、それをカットすることに必然性はあるが、だからと言ってこの作品がミシガン大学のPRの為に製作された訳でもない以上、政治的なメッセージを排除する必要もなかったはずだ。
当初存在したラストをカットしたことで、穏当な作品となった点は否めないが、だからと言ってこの作品が政治的でなくなったということでは一切なく、徹底して政治的だった。
単にミシガン・スタジアムで開催されるウルヴァリンズの試合を記録したということに留まらず、この試合がどのようなシステムによって、どのようなような人々によって運営されているかを記録することが重要だ。
それがフットボールの試合である以上、たいていのドキュメンタリーであれば選手や監督が被写体の中心を占めるものだが、あくまでも彼らは全体における一部に過ぎず、その運営に関わる者たちや観客、記者、中継スタッフ、ボランティア、地域住民たちと同列に扱われていた。
それは一個の巨大なシステムであり、それを総体として理解することが、大学の組織のみならず地域社会や地域経済、ひいてはアメリカという国家それ自体を理解することになる。
このように一つの施設における人々の行動を記録することが、国家というシステムを理解する為の手段になるという点で、フレデリック・ワイズマンの存在を想起させる。
これまでにも自ら命名した「観察映画」という誤解を受けやすい言葉の為に、フレデリック・ワイズマンと比較されてきた想田和弘ではあるが、必ずしも同一の手法が採用されている訳ではなく、そこには常に対象との関わりが記録されていた。
しかも、今回は学生たちを含めた17人ものカメラマンが存在する為に、一人の映画作家が切り取ったフレームだけではなく、複数の映画作家が切り取ったフレームが同時に存在していた。
17人もカメラマンがいれば、その撮り方も千差万別であり、決してプロの技術とは呼べない不安定なカメラワークでさえ、そこに複数の視点を感じさせることに役立っていた。
それぞれの監督がカメラを持ち、自らが発見した対象にカメラを向けることによって、決して他の監督が発見できなかっただろう対象も含まれていたはずだ。
毎試合10万人もの観客がスタジアムに訪れることから、そこには観客のみならず運営スタッフにも膨大な数の人々が関わっており、そのような巨大な人数の中から17の視点は個別の人間を発見する。
白人ばかりが集まった記者席の片隅では、ベールを被ったイスラム教徒と思われる女性が、ゴミ箱のビニール袋を交換していた。
フットボールが国旗や国歌のようにアメリカ人を統合する手段になっていることは事実だとしても、試合終了後にキッチンで洗い物をする人たちが黒人ばかりという点にも人種における格差が、言葉によるメッセージとしてではなく、そのフレームに表れていた。
それぞれが撮影した個別の状況を断片的に編集することによって、個別の状況だけでは決して見えなかった全体が想像される。
スタジアムという空間において、観客たちが試合の熱狂を通じて一つに統合される一方で、その背後には人種や宗教、経済格差によって分断された状況が潜んでいた。
トランプ支持者とヒラリー支持者が互いに激しく罵り合うラストシーンはカットされたが、試合中にスタジアムの外ではトランプを支持する派手な宣伝カーが走っていたように、当時はまだ理解されていなかったが、現在へと通じる変化が画面の端々に不気味に予告されていた。
それは多様性を認めず、それぞれが自らの利益のみを主張する利己的な態度であり、まるでタガが外れたかのように元も子もない本音をぶちまけることが正直な人間だと評価される世界のことだ。
これは民主主義の否定であり、手続きに時間を浪費するよりも強力なリーダーが全てを決定してくれた方が手っ取り早いという考え方を反映している。
それに対して、『ザ・ビッグハウス』はあくまでも「民主主義」的に映画を製作しようとしていた。
それが大学における映画製作の実習だという前提はあるが、19人もの監督が名を連ねている以上、誰かが独断的に製作をリードすることはできず、その度に会議を召集して方針を決定しなくてはならない。
それはとても面倒くさいし、強力なリーダーにやってもらった方がずっと手っ取り早い。
しかし、それをやってしまうと「民主主義」ではなくなってしまうので、面倒くさくても議論によって方針は決定される。
その議論の過程で、幻のラストシーンはカットされたのだろう。
そのシーンに政治的なメッセージがあったからということ以前に、この作品を製作する過程が既に政治的なメッセージだった。
それこそがまさにトランプ的な独断に対する「民主主義」的な抵抗だったんじゃないだろうか?
その一方で、「民主主義」的に製作された作品が、果たして面白いのかという疑問は残される。
この作品が面白かったのは、複数性が複数性として提示されていたからであり、対象の複数性と視点の複数性が、バラバラのまま一つの作品に統合されていた。
アメリカもまた多様だからこそ国旗や国歌を必要とするのだろうが、それは何も複数のものを単一にすることではなく、多様な人々がゆるやかにまとまることを寛容に許す為の発明なのだろう。
『ザ・ビッグハウス』は、そうしたアメリカの理想が失われようとしている最中にあって、その理想を映画で実現しようとした作品なのではないかと思う。