瀬々敬久
『菊とギロチン』
テロリズムと女相撲、およそ交わりの無さそうな両者が、大正末期の次第に戦争が忍び寄る社会で、秩序紊乱という共通点において権力に抵抗する手段として結託する。
一見して馬鹿馬鹿しそうな取り合わせではあるが、生きにくさを抱えた者たちの避難場所として女相撲が機能していた。
両者は必ずしもイデオロギーで結び付いていたのでなく、あくまでも社会から疎外された者たちの共感によって束の間の連帯が実現していた。
実在したアナーキスト集団であるギロチン社は、大阪で実行したテロリズムの為に、官憲から追われる身となり関東へと逃れた。
大正12年の関東大震災から始まる物語は、女相撲の開催されていた場所が大震災の余波が帝都から50キロと示されており、日本の首都である東京から離れた郊外に舞台が設定されていた。
山形が発祥だという女相撲は、当時は20もの団体が全国を巡業していたらしく、そこには女の裸を期待する見世物的な要素も含まれていた。
逃亡中のギロチン社の中濱鐵(東出昌大)と古川大次郎(寛一郎)は、潜伏先の漁村で女相撲の興業が行われているのを知り、特に鐵は女の裸を目当てに見に行った。
しかし、そこでは官憲や自警団による監視の目もあっただろうが、女の裸とは無縁の女同士による真剣勝負が繰り広げられており、この作品における前半のクライマックスとも呼ぶべき迫真の取り組みが展開された。
女力士を演じた女優たちの取り組みは、予めカット割りに頼らない真剣さと練習の成果が発揮されており、鐵のように女の裸を期待して見に来た観客さえも熱狂させてしまうほどの迫力があった。
女力士とは、親方である岩木玉三郎(渋川清彦)に言わせれば、「生きにくい道を生きている」女たちに他ならず、その中には夫の元から家出してきた者や琉球や朝鮮から来た者たちも含まれていた。
まさに彼女たちは社会の周縁へと追いやれた者たちと言ってよく、特に関東大震災直後に自警団による朝鮮人虐殺が起きた時勢ということもあり、当地の自警団を組織する在郷軍人会の飯岡大五郎(大西信満)は、宴席の際に身許をバラされた十勝川たまえ(韓英恵)に目を付けた。
ここにも縮小再生産された国家と個人の関係が反映されており、特に自警団の飯岡などはシベリア帰還兵として無意味な戦争に駆り出された体験に意味を持たせるかのように、過剰なまでに国家と自らの存在を重ね合わせ、その定義からはみ出した者たちに対して迫害を加えようとしていた。
彼の存在が関東大震災直後の朝鮮人虐殺を観客に連想させ、新たな対象として十勝川(韓英恵)を発見させた。
風紀を乱す可能性がある女相撲をしていること以前に、夫の元から家出してきた者や琉球や朝鮮から来た者たちが既に風紀を乱していると判断され、そのような存在は健全な社会を建設する為には排除しなくてはならないとされた。
それはアナーキストである「主義者」たちも同様だった。
ギロチン社のテロリズムは、いくら当人たちが革命と定義付けようとも、その活動資金を得る為に資本家に対して何かと因縁を付けては「略(略奪)」していたことからも分かるように、それがインテリの暇潰しと思われても仕方ない面もあった。
末端としてテロリズムを実行した大次郎などは、命令ばかりで自らは実行しない鐵に不信感を抱き始めた。
鐵は「やるなら摂政」などと大言壮語するものの、口ばかりで一向に動き出さない彼への疑問が大次郎の中で次第に増していった。
大義に自らの命を捧げる行為の崇高さに疑問を抱き始めた大次郎が、潜伏先で出会ったのが女力士の花菊ともよ(木竜麻生)だった。
彼女もまた夫の元から家出してきた者たちの一人であり、その女相撲が社会のあらゆる秩序を転倒させる場所だと信じていた。
貧乏人が金持ちに、弱い者が強い者になれる女相撲が、それまで女たちを縛り付けてきた社会の因習から解き放ち、自由を手にできる場所として夢想されていた。
その理想とはまさに、アナーキズムに他ならない。
アナーキストである鐵や大次郎もまた階級のない自由で平等な「調和の取れた世界」の実現を目指して戦ってきたはずであり、その理想を彼らの行動が裏切る過程を皮肉まじりに描写していた一方で、インテリのテロリストと無学な女力士が共通の目標に向かって軌を一にする光景が出現していた。
それこそがまさにフィクションの為せる馬鹿馬鹿しさに他ならず、アナーキストと女力士が反権力の旗印の元に連帯を果たす構図が実に映画的だった。
少なくとも土俵の上と、その周囲だけは、あらゆる階級や出身地、民族やイデオロギーを越えた自由で平等な世界が実現していた。
その空間が束の間アナーキズムの理想を実現していたということは、そもそも革命を経ずとも、日本の土着的な習俗の内部に、その可能性が潜んでいたことになる。
女力士たちは、その出自を問われることなく、相撲が強ければ、その一座に留まることを許された。
権力がアナーキズムを恐れるように、女相撲には秩序を乱す卑猥で禍々しく、前近代的な反権力の萌芽が予め含まれていたのだ。
恐らく瀬々敬久の女相撲に対する解釈とは、イデオロギーとしてのアナーキズムが欧米から輸入される遥か以前から、既に反権力的な庶民の思想として土着的な習俗が存在していたということなのだろう。
近代の産物であるアナーキズムと前近代の産物である女相撲が、反権力という共通する旗印の元に結託する構図が、馬鹿馬鹿しくもありながら感動的でさえあった。
しかし、アナーキズムが革命の為に暴力を容認するどころか、テロリズムを実行することによって人を殺すのに対して、女相撲は秩序を乱すことで日常を反転させ、民衆に生きる希望を与える。
ここには死と生が対置されているようにも見えるが、両者は結託することによって、むしろテロリズムの方が死を断念していた。
それは大次郎と鐵による正力松太郎(大森立嗣)の暗殺が失敗に終わっていたことからも明らかにように、花菊の放つ生のオーラが二人に浸食したことによって、生が死を凌駕したのではないだろうか?
男たちがヒロイズムの名の元に自ら死を選択しようとしていたのに対して、あくまでも女たちは生を選択していた。
十勝川のように自らの身を売ったとしても生き残ることを選択する彼女の存在は、男たちのヒロイズムともイデオロギーとも無縁に生き残ることが朝鮮人を虐殺した日本人への復讐になると無意識の内に信じていたように思えてならない。
朝鮮人を虐殺した日本人もまた、シベリア帰還兵だったように、無意味な戦争に駆り出され、体だけでなく心にも傷を負った者たちが、その無意味な生に意味を与える為に過剰に国家との一体化を図った結果、それが「他者」に対する暴力として顕在化したことを飯岡の存在は物語っていた。
朝鮮人である十勝川を拷問した飯岡が、無意味な生に意味を与える無意味な記号に過ぎない「天皇陛下万歳」と叫ぶ時、彼が朝鮮人に対する加害者であることに間違いはないとしても無意味な戦争へと駆り立てた国家の空虚さを強調する結果となった。
記号と化した国家や天皇が空虚であることに飯岡もまた気付いていたのだろうが、現在の無意味な生に耐えられない彼は、無意味な記号にすがるしかなく、それもまた近代国家として歩んだ日本の悲劇として彼の身体に体現されていた。
それが国家にしろアナーキズムにしろイデオロギーに忠実な男たちに比べて、あくまでも女たちは自由を手に入れる為に生きようとしていた。
その圧倒的な生の輝きを獲得することが、花菊のみならず瀬々敬久の目論見だったのだろう。
女相撲の衰退が、そのまま大正デモクラシーの終焉へと結び付き、やがて訪れる国家主義の亡霊に覆われることをラストは予感させた。
しかし、それは過去の出来事ではなく、個人よりも国家を優先させることが正しいことになりかねない現在への視点に接続されている。
そうした目論見が全て成功しているとは思わないが、女力士たちの抵抗の精神が、現代の女優たちによって演じられることのアナクロニスム的な転倒に映画の馬鹿馬鹿しいフィクションが発揮されていた。