セレンディピティーとは、まさにこのことを言うのではなかろうか。
昨日の各紙とテレビニュースで大きく発表され、同日付のイギリスの科学誌『ネイチャー』(1月30日号=写真)でも報告された、刺激されて初期化された万能細胞STAP(Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotency:刺激惹起性多能性獲)細胞の発見である。これまでありえないとされた哺乳類のマウスのリンパ球を紅茶程度の弱酸性溶液に25分程度浸して、iPS細胞のような初期化を起こさせた。
驚くべき簡単さ
それを、博士号を取ってまだ3年という、30歳の若き女性研究者(リケ女)が発見し、成果の投稿論文が世界的に権威のある『ネイチャー』誌トップに掲載されたのだ。テレビで大発見の発表光景を映し出す理化学研究所ユニットリーダーの小保方晴子氏の若々しい笑顔が印象的だった(写真)。
細胞の初期化で何にでも分化可能の幹細胞を作り出すことは、ES細胞で最初に成功し、これが受精卵を壊して作ることの倫理上の問題が障害となって、京大の山中伸弥教授が苦心の末に作り出したのがiPS細胞だった。これは特殊なテクニックが必要で、しかも作り出せる効率は1%未満、作成期間も2~3週間と長い。
ところが小保方氏の発表したSTAP細胞は、効率が7~9%もあり、作成期間も最短2日間である(写真下=STAP細胞が集合した塊)。そして命名の由来のように、ただ刺激を加えるだけだ。おそらく手順を知った上でちょっと慣れれば、理系の学部生でもSTAP細胞を作れるだろう。
そして出来たSTAP細胞をマウスの皮下に移植すると、神経や筋肉、腸の細胞になった。
世界で号砲が放たれた
この発表を、iPS細胞の山中氏は複雑な思いで受けとめたに違いない。
あれほどの苦労を、生物学とは縁遠い化学出身の若い大学院生上がりがいとも簡単に乗り越えたように思えるからだ。そしてもしこれが幹細胞研究の主流になれば、iPS細胞はいっぺんに陳腐化する可能性もある。
ただ、可能性は無限に大きいが、実際はSTAP細胞は謎もまた大きい。例えば小保方氏は、生後1週間の赤ちゃんマウスのリンパ球細胞で成功したが、成体のマウスでは作れていない。それは、なぜなのか? そこに、本質的な問題が潜んでいるのではないか? それが明らかになるまで、STAP細胞はまだ海のものとも山のものと
昨日から、世界中で研究者たちが一斉にSTAP細胞作成とそのメカニズム研究のスタートを切っただろうが、果たして再生医療などに実用化のゴールまで漕ぎつけられるかまだ分からないというのが、本当のところだろう。
願わくは、「常温核融合」のような空騒ぎで終わらないことを祈る。
哺乳類ではあり得ない刺激で励起させる細胞初期化
冒頭にセレンディピティーと述べたが、まさにこれは思いがけない、そして数百年の生物学研究の常識を超えた発見であった。
例えば1度分化した細胞が初期化されることのあることは、我々は経験的に知っている。鹿沼土に小枝を差して根を生やせること、「トカゲの尻尾切り」という喩えがあるようにトカゲは切れた尻尾をいつでも再生できること、などだ。
しかし哺乳類では、あり得ない――これが常識だった。それを小保方氏は、マウスの細胞で成し遂げた。
大発見のきっかけは、まさに生物学の門外漢らしい思いつきから、である。幹細胞は普通の細胞より小さい。だからマウスの細胞の小さいものだけ集めれば、それで幹細胞を見つけられるのではないか、と考え、極細のガラス・ピペットで選別していた時、選別した細胞の中に幹細胞を見つけた。しかし選別前の細胞には、幹細胞はなかった。
生物学の常識に曇らされなかった「眼」
この時、普通の生物学研究者であれば、選別前の細胞にあるが見つけられないだけだ、と考えるだろう。そして懸命の努力で探しても見つからなければ、それで研究は行き詰まり、放棄する。
ところが小保方氏は、極細ガラス・ピペットを通させるというストレスのために幹細胞らしいものが作られたのではないか、と考えたのだという。とうてい思いつかない破天荒な発想だ。
学生時代、実験実習でガラス・ピペットを扱い、実験動物を相手にしたリブパブリも、同じ状況にあったらおそらくそんなことは思いつきもしなかっただろう。
あり得ない発見だけに周囲から理解されず
だが小保方氏の呟くように、細胞はストレスを受けると、何とか耐えようとするものらしい。挿し木やトカゲの尻尾の再生も、それだろう。
極端な乾燥状態に置かれると、乾眠して極低温や宇宙環境でも耐えられるクマムシのような例もある(10年7月31日付日記:「地球最強のスーパー生物『クマムシ』の謎とその魅力:『たる』、乾眠、宇宙、放射線」を参照)。刺激を受けたことで、若いマウス細胞が何とか生き延びようとした、STAP細胞はその反応なのだろう。
このトンでもない発見は、むろん最初は周囲から一笑にふされた。信じてもらえず、悔し涙で一晩泣き明かしたことも何度もあるという。しかし何度も再実験し、他の研究者の目の前で再現させ、ついに同僚・指導研究者を納得させる(写真=研究室では白衣ではなく、かっぽう着姿で実験する)。
「数百年もの歴史を愚弄」と『ネイチャー』査読者から突き返される
それは、勇んで投稿した『ネイチャー』誌の反応も同じだった。同誌の査読者たちは、「細胞生物学の数百年もの歴史を愚弄している」という厳しい意見を付けて、STAP細胞発見の論文を突き返した。
そこでめげずに、彼女は反論できないまでの証拠を固めて再度投稿し、めでたくアクセプトされたのである。
論文のオリジナリティーを最重視する『ネイチャー』誌は、この歴史的大発見が雑誌刊行前に漏れないように異例の厳重な情報管理を行った。同誌の編集方針では、たとえ数行でも事前に新聞記事でも報じられたら、その研究成果はもはやオリジナルではなくなるからだ。
成体で、ヒトで可能なのか?
ただSTAP細胞は、今のところ生後1週間の若いマウスの細胞からしか作れていない。分化と細胞分裂が進み、細胞年齢が進んだ成体細胞では成功していない。
さらに、これがヒトでも作れるか、全く未知だ。
例えばクローン細胞から生まれた羊の「ドリー」が17年前に発表された時、ドリーの名とクローンという単語は、世界中のメディアのヘッドラインを独占し、先走った心配症は、いずれ人間でも、例えば金正日やイラクのサダム・フセインなどの独裁者が自らのクローンを作って「王朝」を作るのでは、と懸念した。
しかしヒトどころかサルなどの霊長類でも、今もクローンは成功していない。
一方で山中教授のiPS細胞は、今年、やっと一部で臨床実験が始まるまで進んだ。
この差は、極端に大きい。
だがSTAP細胞のアイデアは単純なだけに、巨額の研究費と大量のマンパワーを投じれば、追いつけないことはないだろう。
山中教授の偉大なiPS細胞作成の成果の肩に乗って
そこで、あらためて山中教授のiPS細胞作成の功績の偉大さを認識するのだ。もし山中教授という先人がいなければ、彼が細胞を初期化できることを実証していなければ、STAP細胞の発見はなかっただろう。
小保方氏の歴史的発見は、アイザック・ニュートンが「私がさらに遠くを見ることができたとしたら、それは私が巨人の肩に乗っていたからに過ぎません」という科学史に残る名言を発したことの意味を今さらながらに思い起こさせる。
そしてひょっとすれば、今まで無数の研究者たちが実験室でそれと気づかないままにSTAP細胞を作り出し、それを見出せないまま廃棄していたのではないか、という思いも浮かんだのである。
昨年の今日の日記:「フォークソング『フランシーヌの場合』を愛していた人がいた、ルコントさんの自死とパリ和平協定40周年に寄せて(後)」