爲無爲、事無事、味無味。
大小多少、報怨以徳。
圖難於其易、爲大於其細。
天下難事必作於易、天下大事必作於細。
是以聖人終不爲大、故能成其大。
夫輕諾必寡信、多易必多難。
是以聖人猶難之、故終無難。
無為を為(な)し、無事を事(こと)とし、無味(むみ)を味わう。
小を大とし少を多とし、怨みに報ゆるに徳を以(も)ってす。
難(かた)きをその易(やす)きに図(はか)り、大をその細(さい)に為す。
天下の難事(なんじ)は必ず易きより作(おこ)り、天下の大事は必ず細より作(おこ)る。
ここを以って聖人は終(つい)に大を為さず、故に能(よ)くその大を成す。
それ軽諾(けいだく)は必ず信寡(すくな)く、易きこと多ければ必ず難きこと多し。
ここを以って聖人すら猶(な)おこれを難しとす、故に終に難きこと無し。
≪解釈≫
「特に何もしない」という事をして、
何でも無い事を仕事として、味気の無い生活を味わう。
小さなものを大きく捉え、少ないものを多く感じて、
人から受けた怨みには徳をもって報いる。
難しい事はそれがまだ簡単なうちに良く考え、
大きな問題はそれがまだ小さいうちに処理する。
この世の難しい事は必ず簡単なことから始まり、
大きな問題は必ず小さなことから始まるのだ。
だから道を知った聖人はわざわざ大事を成そうとはしない。
小さな事を積み重ねて大事を成すのだ。
安請け合いをしていては信頼など得られないし、
安易に考えていると必ず困難な目に合う。
しかし聖人は些細な事でも難しい問題として対処するので、
結果的に特に難しい事もなく問題を解決出来るのだ。
≪後述≫
「無為を為す」と言葉だけで聞くと
何だか小難しい理屈を聞いているような気がするのだが、
このように噛み砕いて説明されると解りやすい。
無為とは、
まったく何もしない。ということではない。
得てして人は何かをしたがり、
特に出来ることは無くとも、
何かをしているという雰囲気を見せることが
誠意や何かをしてると勘違いや思い込んでいる。
それは評価をして貰いたい。
何かをしている。
ということを相手に分かって貰いたい。
と思っているからである。
難問や大問題を自力でが解決出来るような人は、
キチンと評価されて然るべきだと思う。
しかし、
種々の出来事が問題になる前に
小さな出来事をひとつひとつ、
謙虚に、真摯に、誠実に向き合い、
解決、対処出来る人は結果としてそれに勝る。
人が生きるうえで、
大げさなことやスゴイことを
敢えて狙う必要はない。
スゴイことは生きていること。
生きていられることだけで十分スゴイことなのだから。
今日という日が
あなたにとって最善、最良の日となりますように!
祈
≪老子とは?!≫
老子とは春秋時代(B.C.770~B.C.403)の思想家で、道教の始祖です。
「老子」と書いた場合、
人物としての老子を意味することもあれば、
その学説を記した書である『老子』を意味することもあります。
人物としての老子に関しては、
確かな記録に乏しく、実在を疑う人もいます。
また、書物としての『老子』は老子単独で書いたものではなく、
複数の著者がいるのではな
いかという説もあります。
道家(どうか)の思想の原点は、
いうまでもなく老子が著したといわれる『老子道徳経』(一般には『老子』といわれている)である。
それでは、
老子とはどんな人物であり、老子道徳経とはどんなものなのだろうか。
老子は、
司馬遷の『史記』によると
「楚(そ)の苦県(こけん)の厲郷(らいきょう)、曲仁里(きょくじんり)の人であり、
姓は李(り)氏、名は耳(じ)、字(あざな)は伯陽(はくよう)、おくりなして聃(たん)という」
となっています。
また『史記』には、
老子に教えを請うた孔子が、
「鳥は飛ぶもの、魚は泳ぐもの、獣は走るものくらいは私も知っている。
走るものは網でとらえ、泳ぐものは糸でつり、飛ぶものは矢で射ることも知っている。
であるが、
風雲に乗じて天に昇るといわれる竜だけは、私もまだ見たことはない。
今日、会見した老子はまさしく竜のような人物だ」といったと記されている。
だから、
もし老子が実在する人物であったなら、孔子と同じ時代、
紀元前五世紀頃の人だということが云える。
実在する人物であったならというのは、
老子は生没年代も明確ではなく、
また、老子道徳経の内容や文体を考察するならば、
一人の人物の頭脳から生まれたものとは考えにくく、
その頃の道家の思想を集大成したものと考えられるからである。
しかし、老子が実在の人物でないとしても、
それによって老子の思想的価値が下がるわけではない。
逆に、儒教が孔子、仏教が釈迦、キリスト教がイエスの主観から生まれたのに対し、
老子道徳経は、
多くの頭脳の集積から生まれただけに、より普遍性を持ち、
真理をついた思想ということができる。
この老子の思想の中核を成すものが「無為自然」の思想である。
これは
「宇宙の現象には、人の生死も含めて、必然の法則が貫徹していて、
小さな人為や私意は入り込む余地はないのだ」という考え方が基本になっている。
つまり、人間などというものは、
宇宙から見ればゴミのような小さい存在であり、
人生は人の力ではどうにもならない自然の一コマに過ぎない。
しかし、人間はそういうことも分からずに、
さまざまな我執(がしゅう)に振り回されてあくせくしている。
人は生まれる前は“無”、そして死んでしまえばまた“無”に帰るわけで、
自分のものなど何もない。
このことに気づき、くだらない見栄や欲を捨てれば、
人生はもっともっと楽しくなる。
これこそが人間として最高の生き方であるという考え方だ。
これまで日本では、
この老子の思想というものはあまり重要視されて来ませんでした。
孔子の儒教に比べて冷遇されてきたとでもいうべきだろうか。
それは、時の権力者にとって、すべてにおいて儒教のほうが都合がよかったからである。
封建時代という階級社会では、
修身や治国を「……してはいけない」調で説く儒教の教えは歓迎されても、
「我執を放(ほ)かして楽しく生きましょう」という思想が
受け入れられるはずがなかったのである。
しかし、現在道家の思想が静かなブームを呼んでいる。
それはなぜだろうか。
それは、
今日あふれるほどの物質文明の恩恵をこうむるあまり、
精神的な拠り所を失っている人々が非常に多いからである。
人生とは何なのか、幸福とは何なのかを考えた時、
はたして明確な答を示してくれるものがあるだろうか。
富、名誉、そんなものは死んでしまえば何にもならない。
その答えはただ一つ。
「健康で楽しく生きること」ではないのか。
それが人間としての生き方の原点ではないのか。
それを前面に打ち出してうたってきたのが道家であり、老子なのだ。
まさしく老子は生きているのである。
今日ほど老子の思想が注目されている時代はない。
なお、老子道徳経の“道徳”とは、
宇宙には人為の及ばない法則(道)があり、
万物はその道から本性(徳)が与えられる。
というところから出たものである。
モラルの意味ではない。