旧オランダ貿易協会ビルディング(蘭語:Nederlandsche Handel-Maatschappij)(Jalan Bank)

ジャカルタコタ駅前にあり、敷地四周の道路は、その名も銀行通り(Jalan Bank)である。オランダ貿易協会は略称で、NHMで、1928年オランダ国王によって創設された。現在はマンディリ銀行博物館である。設計者はJ.J.J de Bruyn,・A.P. Smits ・ C. van de Lindeである。正面棟と側棟でコの字となっており、正面中央を五重角塔、側棟末端上部を二重角塔としている。銀行らしい威厳を保ちつつ、基本的にはモダニズム建築である。内部のカウンター・金庫などが見学できる。



インドネシア保険サービス社屋(尼語:Asuransi Jasa Indonesia)(Jl Pintu Besar Utara)

1912年の竣工の大屋根付オフィス・ビルディング。屋根部には左右4コの通風用出窓と、頂部両端に鎧窓の尖塔2つをもつが、すでに屋根は崩壊し、廃墟化が相当進む。



ダサート ・ムシン財閥社屋(Dasaad Musin Concern)(Jl Pintu Besar Utara)
建物はオランダの西方=ジャワ商社(West-Java Handels Maatschappij)所有で、 1920年竣工のオフィス・ビルディング。ダサート・ムシンはインドネシア独立後の繊維産業を中心とした財閥で、スカルノ失脚とともに軍とコネを持たない民族資本家が不利となり、歴史の舞台から退場した。今日では廃墟である。頂部は二重にお椀を被せたようなドーム状である。
(この項目はHP「ジャカルタ新旧あれこれ」を参考にしました)


ワヤン博物館(尼語:Museum Wayang)
 もと1640年創建の由緒ある旧オランダ教会があり、オランダ様式の巨大な三角ペディメントを二重に構成した上に両端をカールさせた教堂があった場所だが、1732年に新オランダ教会ができるものの、1808年の地震で倒壊してしまい、再建された建物はオランダ商社のGeo Wehry&Coが使用してから植民地政府所有となった。
 切妻屋根裁ち落としの壁面に造成された大ペディメントは(マレーシアではムラカのオランダ教会が典型)、やはりオランダ建築ならではの特徴である。聖俗共通する様式としてオランダ建築に用いられる手法であるが、バタヴィアに同様式の適用例は意外に少ない。屋根頂部に短柱を頂点に立てるが、この短柱は華人ショップハウス様式にも取り入れてられ現地様式のショップハウスが生まれている。


旧バタヴィア裁判所(蘭語:Raad van Justitie)
 1870年竣工。ネオ・クラシックはこの種の裁判所に多い様式である。大柄オーダーに三角ペディメントの構成は、どうしてもマンネリ化してしまう。1944年には日本軍に接収されて1968年に博物館になるまで、インドネシア国軍の管轄であった。現在はファインアート・陶器博物館になっている。


ジャカルタコタ駅(尼語:Stasiun Jakarta Kota)
 駅舎は1870年代に構築されたもので、1926年に改装され、1926年8月19日に再オープンした。Frans Johan Louwrens Ghijsels(1882-?)の設計で、当時のアール・デコ様式を取り入れて巨大ドームを生かした典型的な大都市中央駅舎の手法である。バンドン都市計画にも関わり、蘭領東インド植民地の多くの建物を手掛けているが、やはりアール・デコの運用に長けており、家具の設計もある。

ジャカルタコタ旧市街(3) 

歴史建築 ジャワ式街屋など

以下、写真は記述順

ジャワ式街屋 
 華人ショップハウスの様式がジャカルタでもスラバヤでも、コロニアル風にアレンジされて現地の街屋となっている。その特徴はジャワ式桟瓦の屋根両端を、華人の拘る五行説を排除して、欧風の短玉柱で飾ることである。こうした華人由来のショップハウスは、現地で相当の様式化を遂げていたが。、シンガポールの都市計画に騎楼のアイデアを付加して植民地様式として定番化したのが、イギリスの巧妙さだ。オランダ植民地にも定番化の流れがあったのは、都市住宅としての合理性があったためだろう。


旧バタヴィア市庁舎
 現ジャカルタ歴史博物館である。1707年にオランダ東インド会社の拠点として立てられた。控えめな円形ドームをもつオランダ建築で、コロニアル的な雰囲気も威厳も感じさせず、本国そのままの様式で、年間を通じて27度の高温の現地では、内部は蒸し暑くてかなわない。しかし市長が居住し、館内には牢獄すらあり、目の前の広場では公開処刑が行われており、その質素さとは相反した統治の在り方であった。

インドネシア中央銀行
1909年に本国で活躍していたエドゥアルド・コイペルス(Eduard Cuypers・1859-1927)らが設計したもので、角塔を掲揚塔の役割でエントランス左右に設けている。ネオ・ゴチック様式といえるが、中央ファザードはオランダらしく立面を明確に切り落とし、上面に一貫して通風口を上面に一貫して通風口を多数開口し、現地の気候に配慮した構成だ。マンサード屋根を組み合わせている。








ジャカルタ・コタ旧市街(2)─「嗚呼!! 東洋の墓場」

街並構成

 コタ(Tota)は単なる「街」の意味であるが、実質蘭領東印度会社(以下VOCで統一)御城内である。1840年の華人虐殺事件以前は、オランダ人専用居住地ではなく、華人とともに、ジャワ人やアンボン人、スンダ人などオランダ領東インド各地からバタヴィア来て住んでいた。後に混血が進み、バタヴィア人とも呼ばれて、ジャカルタは固有民族色の薄い都市となっている。これはスマトラ島のメダンと同様、VOC主導の植民地都市がなりたちであるバタヴィアの性格を表している。

 海港のスンダ・クラパから運河が一直線に南下し、跳橋さえある。本国そのものの都市計画で、南洋の風土も気候も考慮されず驚きだ。、運河は汚く、ゴミが山を為し、猫の死骸さえ浮き、腐臭が漂う。しかし大槻重之氏によればオランダ植民地時代も雨は水害、乾季は淀んだ水が悪臭を放った。衛生上も良くなく、蒸し暑くて、風通しも悪かったので、これが後のコタ放棄の原因ともなった。別名「東洋の墓場」と呼ばれるほど、病死者が多かった[大槻 2007]。

 本国そのままの様式を持ち込み、現地の環境を配慮していないオランダ方式は、現地のコロニアル様式を生み出したイギリス方式と、それに準ずるフランスとも大部かけ離れている。オランダ人は現地民への都市計画の配慮も。オランダ語教育も施していない。植民地はある意味でコストの問題もあるが、この無関心さは尋常ではない。

 コタ中心部はオランダ東インド会社の拠点として堀割りと城塞を設けて区画化され、防禦が図られた。これらは1809年の政庁移転に際して大方埋め立て、取り壊された。

 大槻重之氏は堀に囲まれて長崎の出島を彷彿させるとし、、日本人が堀を築いて隔離したと思った出島も、オランダ人からすれば満足する拠点ではなかったかと指摘している。なかなか面白い見解である[大槻 2007]。

コタからクラパ港に行く際、跳橋近くに近郊鉄道線があり、「錦糸町行き」の行き先表示を付けた東急8500系が走り抜けていく。でも恐らく錦糸町には着かない。

参考資料:大槻重之(著) 2007年『インドネシア専科』「第4巻 B.地誌編上」(私家版)
インドネシア

ジャカルタ・コタ旧市街
 
沿革

インドネシアの首都ジャカルタは、港湾地区のコタ地区にオランダ東インド会社の遺構がたくさん遺っています。オランダ跳橋や物見櫓も遺っているのです。東南アジア全体を睨むようなフライング・ダッチマンの威厳を見せつけているようです。
 交易港スンダ・クラパ(Sunda Kulapa)の港湾都市で、西部ジャワのパジャジャラン王国(ヒンドゥー系)に属します。現地語ジャヤカルタは「偉大なる街」という意味で、それが訛ってジャガトラ (Jacatra)で、日本ではジャガタラと呼ばれます。1600年の関ヶ原の戦い以降、失業した浪人の移住が東南アジアでは進み、アユタヤ・プノンペン・ホイアン・ソンクラーなどでも日本人町が形成されますが、東インドにも日本人が移住し、アンボン(アンボイナ)事件(1623年)の原因とされる人物(オランダ傭兵の七蔵)も現れています。じゃかたらお春(1625?-1697)は、日本人と西洋人ハーフの人で、西洋人追放の際、ジャガトラに家族とともに追放された長崎の人です。

 スンダクラパ南側にジャカルタの街があります。オランダ東インド会社時代はバタヴィアと呼ばれます。

 以下、大槻重之(著) 2007年『インドネシア専科』「第4巻 B.地誌編上」(私家版)
を参考に、沿革を述べます。インドネシア全般を詳細に分かりやすく記述した好著です。

 1522年にスンダ・クラパではポルトガルと協定を結びます。オランダ東インド会社(VOC・1602年設立・イギリスも東インド会社がある・以下VOCに統一)はバンテン王国(イスラム系)の干渉を避けて、現地の領主をうまく籠絡してジャガトラを1610年根拠地とします。当時ジャワ島では、バンテン王国は中国とも西洋とも交易を独占していました。1618年にいずれもVOCと敵対していたバンテン王国と英国インド会社がバタヴィアを攻め、これが切っ掛けで要塞化されると、1621年にバタヴィア城とと命名されます。オランダ先住民のラテン語読みバタウィ(Batavi)に由来します。

 1629年頃中部ジャワのマタラム王国のスルタン・アグン王(Sultan Agung 在位1613-1646)は、バタヴィアを猛攻し、あと一歩のところでVOC側が防衛に成功します。 東インド総督ヘルマン・ウィレム・ダーンデルスが1807年に就任すると、衛生劣悪なコタを避け、マラリアを防ぐため、より高地のウェルトフレーデン地区を行政の中心とします。コタの街は居心地が良くなかったのは当時から有名な話です。

 1811年から1817年には一時期に英国に占領されています[大槻 2007]。

 第2次世界大戦で大日本帝国が東インド地域を占領して、1942年バタヴィアはジャカルタに改名されています。インドネシア独立後もこの名を継承しています。