「狛南蛮」の系譜 1.孔子廟石柱に彫られた「朱儒」としての西欧人
(広東省佛山市禅城区祖廟博物館)
19世紀中葉のアヘン戦争(1840-1842)は、中国人にとっては大いに屈辱でありました。その後もアロー戦争(1856-1860)・清仏戦争(1884-1885)などの戦争も続き、西欧列強が中国で蚕食(さんしょく)や、朝貢国への宗主国の権限の喪失が続くと、中国でも西欧人を描いた石彫が出てきます。
図1.台座を持ち上げる朱儒洋兵像─持ち上げ力士像の系統の1つといえるでしょう この種の外国人像は、じつは、中国北方の石獅では、獅子の上に西域系の胡人(こじん)が騎る「胡人騎獅」(こじんきし)タイプの石獅があります。
明代以降に中国北方で流行し、陝西省では家門の左右に立てる馬を繋ぎ止める拴馬桩(せんばしょう)に、胡人騎獅像タイプがよくみられます。 また、皇帝陵の外国人使節団の彫像も、中国での外国人彫像の1つの系譜といえます。 そして、今回の台座を支える朱儒力士像は、インドから中国を経由して、日本にまでつながる彫像です。 FB『狛犬さがし隊』で、増田隆さんから、奈良の薬師寺の国宝薬師三尊の台座(白鳳文化期)の浮彫の力神は蕃人と呼ばれているとの御教示があり(2014年11月5日藤田智久さん投稿記事のコメント)、また、奈良県は桜井市の高龗神社の狛は力士支えであるとの御教示がありました。 また、この種の朱儒力士は、現在スリランカにも多数遺ることが藤田智久の投稿で示されています(2014年11月5日投稿)。
ですから、朱儒力士は、インド経由で、中国に来ています中国では、南宋乾道元年(元年1165年)以前建造とされる福建省北部莆田市城厢区広化寺の釈迦文仏塔や、福建省東部の閩侯県青口鎮蓮峰村の宋代建立の蓮峰石塔にも、台座を支える朱儒力士がいます。山西省南部の陽城県潤城鎮の屯城村東嶽廟の基部は、7位もの朱儒力士の支えがあります。これも南宋と対峙した金代(1115-1234)の泰和戊辰年(1208年)ものです。
図2.このように3座の柱石があります
胡人像は漢代にはあり、彩色陶器の唐三彩(とうさんざい)の胡人騎馬像などもあり、とくにシルクロードの往来が盛んだった唐代に流行する胡人像の流れを汲むものといえそうです。
図3.コウモリとともに踊る洋兵
図4.朱儒的南蛮力士です。 そのような流れを踏まえた上で、アヘン戦争以降の中国近代の幕開けとともに出現した西洋人像と、西欧植民地下の華人以外の人物(インド人など)を、以下見ていきたいと思います。これが魔除けの番兵として、門の左右にあるものを、「狛南蛮」(こまなんばん)と呼ぶことにいたしましょう。
図5.コウモリとともに踊る洋兵
広東省佛山市の古廟である祖廟(漢語:ズーミャオ・そびょう)は、玄天上帝(げんてんじょうてい)を祭祀するとともに、博物館施設として、様々な文物を廟堂の境内に展示しています。
図6.サーベル抜いている将校さん
ここには19世紀後半の文廟(ぶんびょう・孔子廟)の大成殿(たいせいでん・孔聖殿)の柱石が展示されていますが、西欧人を描いています。
図7.こちらも洋兵さん
これは、孔子廟の伝える「偉大」な中国の歴史伝統の中で、西欧人を矮小化し、「朱儒」(しゅじゅ・背がたいへん低い人)として描いたのであるかも知れません。展示された3つの柱石のうち、中央の柱石に彫られた、台座を踏ん張って両手で支える西洋人の姿は、朱儒そのものという印象を与えます。つまり、創作の世界での、一種の「精神勝利法」(魯迅『阿Q正伝』の言葉)であるような感覚を感じます。
図8.ご婦人、可愛いです。
異人像は、台座を持ち上げるカタチで両手を挙げ、両足を踏ん張っています。ですから、力士のイメージです。この持ち上げる小さな力士像、スリランカの上座部仏教寺院で、たくさん寺院建築の基部や柱台にも、見られます(FB「狛犬さがし隊」藤田智久しさん2014年11月5日投稿記事)。仏教圏でも見られるカタチのようです。
小さな力士の異人さんです。じつはこの台座もちあげの力士としての異人像、現代台湾でのインド人のシク教徒像にまで続きます。おとろくべき持続力です。
異人さんたちの間に、龍を浮き彫りにし、異人さんを押さえているかに見ます。
両脇の柱石の異人像は、間に大きなコウモリも描かれて蝙蝠=福の縁起を担いでおりますね。
しかし、それはそれで、これらの柱石は、製作そのものを楽しんで彫っているようにもみえ、楽しそうです。広州の「出島」みたいな島、外国人居留地、沙面(漢語:シャーミィエン・さめん・ただし外国人の出入りに制約はありません)の西欧人軍人・淑女を描いていて、それはそれで、物珍しさから彫ったともいえます。明治の錦絵での外国人などの描き方とも通じるのでしょう。
堅苦しく考えずに、楽しんで見るのも、一興です。
こうもりとともにいる南蛮さん、なんかみんなジェンカ踊っているようにみえるんですよね。
2.タイ・マレーシアの狛洋兵と狛シーク
(タイ王国ワット・アルン・マレーシアペナン島華人博物館)
FB「狛犬さがし隊」に最初に投稿したのが、マレーシアのペナン島の邱公司(クーコンシー)の本殿上にいるシーク教徒の形象でした。この本殿は20世紀初頭に再建されたものです。福建系の邱一族の祖霊を祭祀します。
図版9.ペナン邱公司の「狛シーク」(向かって右)
現代にみる門を守る外国人兵士像は、ペナンの邱公司のインド人衛兵(シク教徒)とか、タイのバンコクはトンブリー地区ワット・アルンの狛洋兵とがありますが、アジアで門番としてときどき彫られる異人兵士像も、門を守る「狛胡人」(こまえびす)の系譜に連なるエトランゼとしてみることもできると思います。
図版10.ペナン邱公司の「狛シーク」(向かって左)
イギリス植民地で、兵士となったインド人兵士、祠堂の台上左右を守るのは、インド人で、「狛天竺」(こまてんじく)の衛兵です。
図版11.ペナン、プラナカン・マンションの狛鉄騎兵(向かって右)
ターバンを巻いているのは、シク教徒で、「狛錫克」(こまシーク)ともいうべきです。シク教徒は、ムガール帝国以来勇猛果敢で知られます。
英国植民地でも兵隊となっているので、実績を買われて邱公司の私兵に採用されました。
お二人ともパンジャーブ地方がご先祖さまの出身地ですが、現地で誕生しているので、二世と三世です。左手の衛兵はひげを生やしてサーベルを持ち、ほくろまであります。右手の衛兵はひげがない若い兵士で、左右違う像です。
シク教は他宗派を改宗させて布教するので、じつは邱一族を儒教から改宗させようと心の中ではいつも考えているのです。
ペナンでは,もう1ヶ所、ペナン・プラナカン・マンションという代表的な(マラッカ)海峡華人の19世紀末豪邸の豪邸があり、こちらの正門には、左右に鉄騎兵のような西欧装甲兵が門番となっています(ただし現在では正門の裏に一対で置き、表ではないです)。これなど、西欧から輸入していますが、富豪が高笑いで、「どんなもんだい、ヘヘン」という感じで狛南蛮を設置しているかのような余裕を感じます。
図版12.ペナン、プラナカン・マンションの狛鉄騎兵(向かって左)
図版13.ペナン、プラナカン・マンションの狛鉄騎兵の全景
マレーシアから、タイ王国に目先を転じて見ましょう。ワット・アルンは、三島由紀夫の小説でも有名な「曉の寺」です(意味が「曉の寺」)。現在も続くチャクリー朝(ラッタナーコーシン朝・1782-現在に至る)の前の、一代限りのトンブリー朝(1767-1782)の国王タクシン(1734-1782)を祭祀しており、ワット・アルンは、じつはタクシン王の創建になります。
図版14.タイ、バンコク、ワット・アルンの狛南蛮(向かって右)
チャオブラヤ川対岸のトンブリー地区にあります。目印は日本で建造された海防戦艦トンブリー(1938年に川崎重工神戸造船所にて竣工。1941年、フランス海軍との海戦で擱座する主砲と砲塔は、空母赤城か加賀の撤去砲塔を流用)の大砲とマストの隣です。
図版15.タイ、バンコク、ワット・アルンの狛南蛮(向かって左)
バンコクでいちばん仏塔が美しいお寺だと思います。
図版16.タイ、バンコク、ワット・アルンの土地祠脇の洋兵像
タクシン国王は、中国名を鄭昭(漢語:チョンチャオ・ていしょう)といい、潮人系華人です。アユタヤ王朝(1351-1767)滅亡後のタイの失地回復に努め、ビルマのコンバウン朝(1752-1886)の侵攻からタイを守った王です。タクシン王の祭壇前では、タクシン王の太刀を持ち上げて、タクシン王に祈る人々が見られ、また華人の奉納した大提灯も掛けられています。
図版17.ワット・アルンの仏塔
独立は守ったけれど、フランスからラオスの宗主国の地位を奪われたり、英領ビルマも警戒しないといけなかった、チャクリー朝の立場もありますが、エトランゼとして、洋兵を立てるワット・アルン、これは興味深いです。
図版18.タクシン王の祭壇で、太刀を捧げもち祈願する人 これは脇の庭園のゲートを守る洋兵さんです。イギリス兵にみえます。このほかに、華人系の土地祠を守る洋兵さんがいます。タイの狛南蛮さんは、表情が明るいですね。向かって左のウイルソン(仮名)は男前だし、向かって右のジョン(仮名)なぜだかどうして、楽しそうにじつに朗らかな青年です。
3.僑郷金門島の洋館の上の「狛シーク」・「狛印警」・「狛用人」
(台湾金門県金沙鎮后宅村王金城邸・碧山村睿友学校)
東南アジアの華人社会でも、日本の神戸や横浜などの華人社会でも、金門島出身の華人は、数は多くはなく、金門島出身者だけの会館もあまり知りません。
しかし金門島出身者は、華人社会の有力者には比較的多く、神戸華人社会でも金門島出身者の活躍は目立ちます。金沙鎮山后村下堡の王氏の伝統民家群を造り上げた王国珍と、息子の王敬祥親子は、代表的な神戸在留華人です。王敬祥は、孫文の日本行でも接待しています。
図19.モダンな自転車レリーフ
金沙鎮后宅村の王金城邸(浦山里后宅2号)は、帰郷華人の建てた典型的な洋館です。王金城はインドネシアで財を築き、帰郷して1932年この洋館を建てました。中華民国暦で、民国二十一年です。
図20.狛シーク(向かって右)
突出した凸型平面のこの邸宅は、最頂部を円窓でくりぬいたペディメントの基部には「中華民国」と、その下に「廿一年」(21年)と建造年代を誇らしげに大書しています。もちろん同時期の建築では、日本の統治下にあった台湾島では見られないものです。
図21.狛シーク(向かって左)
そして、自転車を颯爽と漕ぐ人物を描くレリーフは、海外のモダンな流行を示して、王金城さんのハイカラぶりを、自慢しているのです。
図22.狛用人(向かって右)
左右人物像は、ターバンを巻いた「狛シーク」が銃を担ぎ、シク教徒のインド人を番兵にしているのも、ハイカラぶりの優越感に見えます。そして召使いたる「狛用人」たちも、インド人、頭にフルーツを載せています。富豪の王金城さん、インド人、「雇っちゃってんだぞ」とやはり自慢げです。
他の洋館でもこのようなインド人用人は見られるらしく、金城鎮水頭村の得月楼僑郷文化展示館の展示レプリカにも、頭に桃らしき果物を載せたインド人少年の像がありました。インド人が、中国式の寿桃を載せてくるとしたら、やはり奇抜です。
図24.王金城邸
図25.水頭村得月楼僑郷文化展示館のインド人用人レプリカ像
金沙鎮碧山村の睿友学校(えいゆうがっこう)(金沙鎮三山里碧山1号)は、1936年(民国二十五)の竣工で、南洋で冨を得た陳睿友の名を冠して後人が出資した学校です。
図26.楽しそうな狛「体育小僧」たち
典型的な倣バロック式洋館です。しかし学校建築らしく、2階壁面と大小3個の窓を組みこんでせり上がるオランダ式のような大型三角ペディメント最上部には、小学生の狛「体育小僧」が、地球儀を中心に、「ハーイ!」とポーズをとっています。明るいひょろなが生徒さん、組で手を振っています。
図27.狛印警(インド人警官)(向かって右)
生徒さんの直下には、巨大な国民党国旗である「青天白日」旗が交差します。華人が資金から兵士まで高い代価を払って苦難の道のりで成功させた革命は、中華民国への愛と思い入れで染め上げられていたのでしょう。
図28.狛印警(インド人警官)(向かって左)
図29.睿友学校正面立面
ペディメント両端は、なんと左右に英国植民地統治の治安維持に雇われたインド人警察官が笛とラッパを「ピーヒョロ」「プップク」吹いておりまして、音が対になっているという、とても楽しい学校です。海を越えた世界を知っている、開放的な帰郷華人の精神の息吹を感じるのです。こんな学校で学びたいと、教員の私ですら、ついつい思ってしまうのでした。
図30.睿友学校ペディメント
4.台湾の狛南蛮─スペイン人・オランダ人・シーク力士
(台湾台南市安平区文朱殿・苗栗県竹南鎮中港城慈裕宮)
竹南鎮の古い城壁都市「中港城」の面影を街路構成に遺す民生路・迎薫路界隈は、モルタル商店街の昭和の香りとともに、古刹の媽祖廟である慈裕宮(民生路7号)があります。初建は南明永暦十五・1661〈鄭氏政権の元号に合わせる)、清末の道光十八年(1838)に現地に再建しています。廟前広場(「廟埕」・漢語:ミャオチョン)左右に和灯籠・石橋も和風です。廟の門殿左右の柱頭上には、西洋人の彫像があります。
図31.竹南鎮慈裕宮のスペイン人像(向かって左)
これはスペイン人とオランダ人で、台湾島を北部を占領したスペイン人(1626-1642・台湾北部淡水のサン・ドミンゴ要塞を本拠地とする)と、台湾南部を占拠したオランダ人(1624-1662・安平のゼーランジャ城と台南のプロビンシャ城を本拠とする)を描いています。台湾の歴史的回顧を意図した洋人の形象です。なお、日本統治期の日本の名残りは、殿内石柱の菊花紋様の彫刻にみられます。
図32. 竹南鎮慈裕宮のオランダ人像(向かって右)
この彫刻は、西洋人を前に出し、内部を家塾での礼や、堂内での礼を描いた中国な礼の世界を描いています。そして、とってつけたような鼻の西洋人は、そっぽを向いています。 この構図について、FB「狛犬さがし隊」での投稿で、Yukiko Takeharaさんがいうには、「西洋人にはわからないYO!」と、後ろの中国人が歌っているんだ、と解釈されていました。 礼の世界と、礼とは無縁の西洋世界を書いていると考えると、これは風刺しているのでしょう。 たしかにそういう趣きで、礼の世界と無縁の西洋人を、風刺を込めて描いていて、けっして西洋人に対して、リスペクトして彫られた彫像ではないという気がします。
やはり西洋人に
心底敬意をもったりしないというプライドを、中国系の人たちはもっているのだと思いました。 また、「当時お会いしてたらどんな感じだったでしょう」(Yukiko Takeharaさん)ということですが、これは、オランダ占領時代だったら、東インド会社だから、こんな麗しい女性は、そうとう上級の人のおくさんしかいませんから、明らかに時代には合わない表現じゃあないかなとおもいます。紳士の恰好も同様です。スペイン人も、そういう事情は同様で、こんな紳士の恰好はしていないと思います。
漢人の移住民を酷使するだけ酷使するのは、バタビアと同じで、どうもオランダ人の統治は、地元に無関心で優しくない感じがします。1652年には、漢人郭懐一らの反乱、というのもありました。
なお、松本邦裕さんの、同投稿のコメントで、台北龍山寺の大香炉も、西洋人が力士として支える場面ということで、この種の南蛮力士像は台湾にもいろいあります。
鄭成功の根拠地であった台南市の安平区の安平老街では、媽祖さまを祀る天后宮近くの文朱殿(ぶんしゅでん)は、李大王・朱千歳(りせんざい)・孔大帝が主神です。近隣のコミュニティー海頭社(社=伝統的コミュニティー)の廟です。清代初期、この地の信者が神のお告げを受け、海から流れてきた香木をまつり、李大王を祀ったという縁起があります。
図34.台南市安平区文朱殿狛シーク(向かって左)
近年新しく再建されているのですが、不思議なことに、左右側壁柱上部に、シク教徒像があります。台湾は華人社会でもなく、しかも現代のことですから、何故にシク教徒像があるのか、本当に不思議です。台座を軽々と持ち上げるインド人、どうも台座を手で支える中国のヘラクレスである力士をインド人に置き換えたという意図のようです。余裕の彫刻といった感じです。
図35. 台南市安平区 文朱殿狛シーク(向かって右)
かくて狛南蛮の系譜は、最初にご紹介した広東省佛山市祖廟で展示される孔子廟の西洋人の朱儒力士像とも通じるカタチに戻って、ひとまず終わるのです。
図36.台南市安平区 文朱殿狛シーク(向かって左)
しかし洋物の狛人の系譜は、これのみには止まりません。なぜならば、柔よく剛を制するからであります。そこで出てくるのが狛天使です。平安をもたらすこのバタ-の柔肌をもつ天使たち、金門島に多数降臨しておりますが、台湾島では、中華様式に変貌してしまうのであります。これについては追々またご紹介したいところです。
図37. 台南市安平区 文朱殿狛シーク(向かって右)
図38.安平文朱殿前殿