雷州城内の魔除け石狗たち
─石狗さがし記(3)
(広東省雷州市雷城鎮)

 

図1.北門大石狗

    雷州市の市政府所在地である雷城鎮は、いまでも旧城の構成を残す古い地方都市です。



図2.北門大石狗と大新街



    たとえば、北から南に広朝北路・広朝南路・南亭街と、さらに西へ二橋街と、延々と数㎞に渉って続く騎楼街は、長大なコロニアル様式の商業回廊として、極めて貴重な街並です。

図3.北門大石狗



   広朝北路の雷州市第三中学校は、かつての北城門辺りです。広朝北路と平行に、細長い昔ながらの珍しい石畳みの坂道が延びる大新街は、北端が直角に曲がります。角にはアパートがあります。そこで、まっすぐ上がって来た「沖煞」(漢語:チュンサー・ちゅうさつ)の気を撥ね返すため、巨大な石狗が鎮座しています。ちなみに、私はこのようなボリュームある石獅のような体格をもつ石狗を、重鎮型石狗と、仮に呼んでおります。「重く、鎮める石狗」という意味を込めています。




     これは1991年、大新街の住民が募金をして新しく建てたものです。「北門大石狗」として知られています。つるっとして、目が丸く、鼻も鼻穴がはっきりとしています。耳が大きく、ちんちんはあり、尻尾は巻いています。全高172㎝、幅90㎝、座高11㎝で、胸囲は215㎝もあります。南向きです。朝夕、昼休み明けの1日3回、登下校の高校生のみなさんを守っています。




    登下校の学生さんは、大石狗のところで曲がって、もう一度巷道を曲がってから、第三中学校に入ります。その角のところも、住宅があり、そこにも沖煞を撥ね返す、鎮宅用の石狗がおられます。しゃがんでいますが、全高59㎝、幅30㎝、胸囲82㎝、座高8㎝です。北向きです。体格は肉付きがたいへん宜しいです。おにぎり形のお顔は、正面を見据える飛び出した両目が明瞭で、鼻は横に広がる扁平型、口は横に髭が並んで、歯が剥き出して、舌を出します。大きな鈴を胸前と左右の3カ所に掛け、前足の波を重ねた体毛の表現と、巻き毛に雷紋の意味を持たせた魔除け力、そして側面には胸板左右と後足には、火紋も描きます。


図4.大新街鎮宅石狗


    第三中学校から、一気に南下して、曲街の十字路をさらに小さい巷道に入ります。こちらは関部後街といいます。かつて役所のあった中心街に近い伝統的狭い3mほどの巷道です。





     関部後街と関部後街東三横路がT字路となる突き当たりの道路は、東側と西側の入り口、ともに石狗が鎮座されています。東側入り口の石狗は、典型的な重鎮型石狗で、後足が湾曲したしゃがみ姿勢は気力が充実しています。

図5.関部後街東三横路石狗A(鎮巷)



    頭は牙と歯を楕円形の獣口を開けて剥き出しにしています。目玉が二重卵線を描くかのようで、可愛いです。全高71㎝・幅38㎝・胸囲105㎝・座高20㎝です。向きは東向き(101度)。手前に蝋燭立てがあり、住民たちが日々盛んにお祀りしていることがよく分かります。



図6.関部後街東三横路石狗A(鎮巷)


図7.関部後街東三横路石狗A(鎮巷)








図8.関部後街東三横路石狗B(鎮宅)



      そして東三横路西端のT字路、鎮宅の石獅は、壁面上部に専用の凹みを開けておいています。こちらは、「ただの犬タイプ」です。全高19㎝。東向きです。舌をべろっと、楕円の口から垂らし、両目は卵形、両耳も楕円で、新しいものですが、よくできた、可愛い造形です。


図9.関部後街東三横路石狗B(鎮宅)

    近くのおじさん、前歯2本出して笑って訊きます。「それでそんなに面白いの、この街?」
私は石狗を指さして、「そりゃあ、面白いですよ。かくれんぽみたいで」と答えました。


図10.巷のおじさん

喝采!! 広東獅子舞の世界
─黄飛鴻舞獅隊のアクロバット獅子舞
(広東省佛山市禅城区黄飛鴻記念館)



   現在の中国の獅子舞は、北方系の北獅と広東系の南獅が有名で、とくに広東系の南獅は、武術家に伝承される体育活動です。清代に確立したといわれます。よく武道家の道場に行くと、獅子舞の獅子頭が置いてあります。武道家の集まる場所は、関羽羽や岳飛を祭祀する武廟があり、ここが武館を兼る場合も多いです。またヴェトナムなどの東南アジアの華人街では、広東会館などに、舞獅隊の組織を置くことか多いです。





   獅子舞は中国では「舞獅」(漢語:ウーシー・ぶし)といいます。荒俣宏(文)・大村次郷(写真)『獅子─王権と魔除けのシンボル』(集英社、2000年)などにも書かれるように、元々は、「魌頭」(きとう)という古代中国での魔除け霊獣のお面に起源があるといわれます。これは鬼やらいの仮面劇である「儺戯」(漢語:ノゥオシー・だげき)や、葬送の際の魔除けの開路神である四つめの「方相氏」(ほうそうし)の仮面などを源流とするという説です。





    後漢の班固(32-92)が編纂した『漢書』「礼楽志」(れいがくし)には、「象人若今戲魚蝦師子者也」(象人〈=宮廷の芸人〉は、今の魚蝦・師子〈=獅子〉を戯するがごとき者也)とあり、仏教伝来以前に、獅子像が中国に伝来して、獅子舞らしき動作の芸があったことが窺われます。





    中国・日本の他、ラオス(ルアンパバーンのラオス正月に出現するシン・カップとシン・クゥーンの二頭の獅子)・韓国(サジャム・「獅子舞」)・ヴェトナム(ムアスートゥ・Múa sư tử・「舞獅頭」)などがあり、インドネシアのバリ島のバロンも、獅子系の聖獣舞といえます。

 




    中国武術最高の名手として知られる黄飛鴻(漢語:ホアンフェイフー・こうひこう・1848-1924)は、仏山市は南海県の人で、「無影脚」(むえいきゃく)と呼ばれる素早い足技とともに、じつは獅子舞の名手でした。





    玄天上帝を祭祀する広東省の古城佛山(ぶつざん)の古刹、祖廟(漢語:ズーミャオ・そびょう)裏手にある黄飛鴻記念館では、武術や獅子舞の出し物をやっていて、確実に見に行くことが出来る、日曜日に見に行きました。この街は大規模な中華民国期の騎楼街が遺り、また、騎楼街である筷子路(かいしろ)は、街道すべてが対聯(中国対句)の屋台が出ています。つまり、民間芸術・芸能の街としても知られています。




    獅子舞をやっているのは、太鼓や銅鑼の勢いある調子ですぐ分かりました。






    黄色・白色の組になった双獅構成の獅子が舞い踊ります。前足役・後足役で、二人羽織みたいに動き回ります。こどもたちは大喜びで、獅子舞のうしろを飛び回ってついていきます。ときおり大きな目玉の上のまぶたをぱちくりさせるところが、芸が細かくて、可愛いです。後ろ足担当の肩の上に、前足担当が乗って背伸びするところなど、芸を極めています。





    単身の獅子舞ではもっと高度な技術を披露します。鉄はしごなど、ひょいひょい息を合わせて登り、出初め式みたいな動作をてっぺんでやって、口から垂れ幕を垂らしたりします。これもやんやの大喝采。





    いちばんびっくりなのは、10本くらいの鉄柱を、ひょいひょい飛び跳ねる黄獅の跳び芸です。こんなことを、よく2人1体でやれるものだと、私はあきれるとともに、さすがに中国獅子舞の本場、佛山だと感心するのでした。





   広東の獅子舞は、宗教的意味というよりも、これはもうカンフー(功夫)そのものであると言い切ってもよいと思います。




   この直後、全国最長と思われる筷子路の対聯(漢語:トゥイリィエン・ついれん・中国対句)屋台街を取材し、対聯を筆写する書法も、その素早く、かつ大胆な筆運びに、濃厚なカンフー要素を感じました。広東料理の包丁さばきとか、鍋さばき、火さばき、あれもカンフーそのものです。




    広東文化を隅々まで染め上げるエートスとしてのカンフー、だから、香港映画のジャンルとしても不可欠になるくらい、広東の人々に喝采されるのでしょう。




広東省西部呉川県梅菉(ばいりょく)鎮関帝廟に置いてあった製作中の獅頭












インドネシア、ジャカルタ、グロドッ地区華人街の、門付け獅子舞


    感動したお客様たちは、次々に、獅子の口に100元札を(1元=約17日本円)をねじ込んで、記念の巻き物と、蜜柑の葉を受け取っていました。獅子舞、やはりおひねりは必要です。


.ラオス正月のシン・カップ(ルアンパバーン)





インドネシア・バリ島ウブッの猪舞(バロンではない)



参考文献:荒俣宏(文)・大村次郷(写真)2000『獅子─王権と魔除けのシンボル』集英社



台座に這い気張る海南島の石獅
─海口府城蘇公祠の石獅
(海南省海口市瓊山区府城鎮)






    海南島の石獅は、近年で福建系石獅で占められているのですが、しかし明代官僚墓の石獅が、まるで雷州半島の重鎮型の石狗であるかのような造形であったのは、海南島に独自の石獅のタイプがあったことを示します。

図1.石獅A(写真は、石獅A・BとC・Dが、どうももともとのペアのようです。)





    海南島タイプの石獅の、それとは違ったもう一つのタイプに、台座に這ってうずくまる、腹ばい姿勢の石獅のタイプが挙げられます。


図2.石獅C





    海口市の府城鎮(ふじょうちん)にある五公祠(ごこうし)と同じ敷地にある蘇公祠(そこうし)では、なんと石獅4体が山門左右におられました。これは元からあるものではなく、とこからか博物館の収蔵品を取りあえず山門脇に配置しているものだと思います。

 

図3.石獅A・B

図4.石獅C・D






    蘇公とは、唐宋八大家の1人である大文人の蘇軾(そしょく・1037-1101・号は東坡・とうば)のことで、紹聖四年(1097)に海南島に流されました。それで蘇東坡先生を記念しております。海南島北部の儋州市(たんしゅうし)中和鎮が、蘇東坡先生が暮らした場所で、こちらの蘇公祠が有名です(ただし石獅や石狗はいません)。

図5.石獅A・B背面(手前がB)

図6.石獅C・D背面(手前がC)




   この腹ばい型石獅、背中の分かれ毛もまるまるした線刻で、しかも尻尾がおむすび型で、上からみても、とても可愛いのです。高さも幅も長さも40㎝程度で、ぎゅっとしています。

図7.石獅C尾部





   表情は目玉が大きくて、口元が気ばっていて、上前歯と牙だけを出っ歯のようにつきだしています。石狗にも似ていますが、この四肢ともに低姿勢の踏ん張り方、雷州半島の石狗にはあまりなく、唐獅子らしさを感じます。また、向かって左の2頭は、顔が斜断ちのカタチで、田村愛明さんから、斜体(イタリック体)との評を頂きましたが、たしかに、そんな感じがぴったりします。

図8.蘇公祠山門と石獅の配置

   台座は前方中央に銭形を出し、左右を錦帯が波打って走り、これもまた動態あって美しいです。FB「狛犬さがし隊」の記事では、中森あゆみさんが大事な指摘をして頂きました。台座と獅子が一体で彫られている
という点は、注目すべきかと思います。

図9.現代海南石獅の例、瓊山中学校の石獅(向かって左・1993年・福建南部型・雌獅・仔獅付)



図10.現代海南石獅の例、瓊山中学校の石獅(向かって右・1993年・福建南部型・雄獅・サッカーボール)





   石獅も、墳墓などと同様、やはり他の地にはない造形をみせる海南島、嬉しい土地柄です。



海南島明代官僚墓の動物たち(2)
─海瑞墓の石虎・石羊・石馬・石獅・石人(海口市龍華区濱涯村)



   明代の官僚墓は、大学者の丘濬(きゅうしゅん・1420-1495)の墓とともに明代晩期の官僚である海南島出身の海瑞(かいずい・1514-1587)の墓所が有名です。そしてこちらの方が、現在もほぼ変わらぬ状態を留めています。晩明萬暦(ばんれき)十七年二月(1589)に完成していますが、工事には朱翊鈞(しゅよくきん)、則ち第14代萬暦皇帝より、直々に監督のための要員として、同郷の許子偉(きょしい)が派遣されています。




図1.石虎(向かって右)


   海瑞は、南京都察院右都御史の地位まで昇っていますが、時の皇帝の朱厚熜(しゅこうそう=第12代嘉靖帝〈かせいてい〉)への直言を畏れず、剛直で清廉潔白な官僚として、いまの中華人民共和国でも官僚の手本にされています。後の「四人組」の1人、姚文元(ようぶんげん)の評論「新編歴史劇『海瑞官を罷(やめ)る』を評す」が、文化大革命(1966-1977)の動乱の時代の切っ掛けとなったことはよく知られています。



   「粤東正気」(粤東=広東・えつとうせいき)と皇帝の聖旨として大書された牌坊(はいぼう・記念のために建てられる飾り門楼) を潜ると、まず最初に石虎が一対出迎えます。



   石虎は、背が高いですが(160㎝程度)、しゃがむ姿(蹲踞・そんきょ)です。お顔が2頭では随分ことなり、向かって右の方は、目も大きいか、なかなか美男子です。向かって左の方は、もう少し丸みを帯びています。

図2. 石虎(向かって右)



   そして大きな目玉と、丸みを帯びたしゃがみ姿勢など、雷州半島の雷州市境内の大廟などに置かれている重鎮型の石獅みたいに大きな石狗の姿に通じます。しかし、背後は長い尻尾が胴体に上がっていますから、それが虎たる証拠です。他の地方の官僚墓での石虎像とは、まったく違う造形の自由さに驚きます。


図3.石虎(向かって左)


図4.石虎(向かって左)

図5.石虎背後、尻尾が長いです(向かって左)

   石羊は、角が長く、海南島によく飼われている山羊のようです。つるんとしていて、耳の彫刻と、お尻にくっついた尻尾が目立ちます。向かって右の方は目がなく、向かって左のものには、コーヒー豆ののような目があります。そちらの方は、じつに屈託のない顔をしてます。「羊」(漢語:ヤン)は「祥」に通じる縁起も担っているようです。墓前の供物の意味があります

図6.石羊(向かって右)

図7.石羊(向かって左)

   石馬はとくに生き生きとしています。鞍と、その下の腿カバーと、あぶみは、たいていの明代官僚墓の石馬にはありますが、それらも本物であるかのような錯覚を起こさせます。しかしお顔は、おとなしそうに頭を垂れて、両耳を前につきだして、いかにも愛馬として愛されてきたような印象です。

                                                                               
図8.石馬(向かって右)

図9.石馬(向かって左)

                                
   石獅は、あごひげがあり、眉も出ており、両目玉が大きく、海瑞墓の石虎とともに、ともに対岸の雷州半島の廟前の重鎮型石狗に似ています。そして決定的なことは、背後に分かれ毛がしっかり描かれています。この分かれ毛が、石狗と違うところです。

図10.石獅(向かって右)

図11.石獅(向かって右)


   尻尾も紋様化しており、前足も紋様化されていることが大きな特徴です。それに玉を両前足の中間に置いているのも、珍しいです。

図12.石獅背面(向かって右)

   やはり、これは雷州半島の石狗文化の影響だと思いますが、別に海口市五公祠の蘇公祠を守る2対の石獅も、石狗的表現があり、海南島の石獅の有り様を考えるのに、両者ともに重要な意義があると思います。



図13.石獅(向かって左)

図14.石獅(向かって左)


   現在では、海南島の石獅は、福建南部形で、占められていて、その本来の有り様は、この辺りの石獅・石虎の表現にあるでしょう。官僚墓にあって、敢えて現地の民間様式を豊富に注入した、墓所造営監督である、海南島出身の許子偉(きょしい)の英断には感心するばかりです。゜





   石碑は、「明海忠介公諭祭碑」(明の海忠介〈=諡・おくりな〉公、祭(まつり)を諭(さと)すの碑)があり、皇帝の命令で、祭祀を行った旨を記します。もっとも萬暦(ばんれき)皇帝こと朱翊鈞(しゅよくきん)は、すでに宰相の張居正(ちょうきょせい)が死去して堕落期に入っていたから、海瑞の上書など、ついぞ受け入れたことはなかったのでした。

図15.石亀



   石碑は官造石碑の定番として、石亀の上に立てられています。皇帝の命令があることは、たいへん名誉あることですから、これで墓所造営の規定が相当上がります。





   墓所の石亀は、この他、明・清代には、墓所を荒らす猪避けのための石亀があり、こちらは中国の魔除け石彫のなかでも重要な一ジャンルかと思われますので、後日また追々ご紹介します。





   石人は、正式には「石翁仲」(漢語:シーウェンチュン・せきおうちゅう)といいます。とても写実的な表情で彫られているのです。服装は、明代の官服と官帽(烏紗帽・うさぼう)です。この石人には、明確な個性があり、この世に1体だけの「実存」そのものです。そして、どうもこのリアルな個性には、どうやら理由があるらしいのです。

図16.石人(向かって右・海安像)

図17.石人(向かって左・海雄像)



   私が感銘を受けたのは、この2人は、じつは名前があるということです。海安と海雄といいます。ですから、海瑞の息子か、親戚扱いかと思いますが、じつは海瑞には、実子いなくて、この2人は長年海瑞の世話をして仕えており、没後の御世話も託されているのです。お2人とも、福耳で、目が忠実で、信頼感があります。石人は、現実にその人ありと思うと、胸を打ちます。

 

図18.海瑞墓


    墓所は、高さ3mのドーム型で、この築造技術は注目すべきと思います
たとえば、タイ南部のパッターニのイスラーム寺院はマスジット・クルセは、1578年から1580年頃にパッターニ王国で活躍した福建華林道乾によって建てられましたが、あるべきドームがありません。これは海瑞墓とほぼ、同時期にあって、パッターニ王国ではドームの築造技術が不足していたものと推測されます。海南島で、ドーム式墓所が様式化されているのは、背景の技術力を感じます。

図19.牌坊

図20.海瑞墓全景

  海瑞墓は、このように、石獅も、石人も、墓所もそれぞれ見るべき大事な特徴があって興味深いです。中国最南端の海南島、中国伝統文化の周縁部だけに、時折力強い創造力を発揮するから、たいしたものです。




図21海瑞遺像



海見る風獅爺
─発掘されて姿を現した洋山村風獅爺
(台湾金門島金沙鎮洋山村)




   2014年10月28日の午前、FB「狛犬さがし隊」では、海見る狛犬と獅子像を、彰化幸さん・藤田智久さんが、お3人方海辺の狛犬・獅子像(藤田さんのは水中)を投稿されているので、私も興が乗ってきまして、緊急投稿いたします(ほんとうはこんなことをしている場合ではないのですが←同僚の中国学者、加藤徹さんの常套句・笑)。


図1.海見る洋山村風獅爺





   金門島東部の北海岸に位置する洋山村の「風獅爺」(福建南部方言:フォンサイヤー)(ただし現地での呼称は「石獅爺」・福建南部方言:チィウサイヤー)は、3体ありますが、そのうち1体は海岸線にあり、遠くに物々しく上陸防止の障害設備のある海岸と水平線を見守っています。対岸は厦門市なのです。なお、この辺りの海岸線は東隣の西園村など、かつて塩田が多く、食塩の生産も盛んな土地柄でもありました。



図2.風獅爺の鮮やかなマント、なかなか宜しいです。


   堤防があるので、海岸線と一体化した光景ではないのですが、堤防の間の隙間から、ちゃんと海は視界に入っております。


図3.ものものしい雰囲気も漂う海岸線

   もともと洋山村には、三忠宮という廟堂があり、ところが1949年に国民党軍の進駐を受けて廟が取り壊しになりました。神像は民家に保存されましたが、廟前の風獅爺は、紛失してしまいます。





   その後、2011年、お役人の林怡種(りんいしゅ)さんが、暇な折、海岸際の田んぽを整地していたら、この風獅爺さまが土中深く埋もれていたのが、掘り出されたのです。邪魔なのでこの石の塊を、割ろうと打ちつけましたが、まったくびくともしません。そのため、林怡種さんは、これが神威のある風獅爺であることに気がついて、祭祀したというわけです。





   線刻が極めて薄い素朴な花崗岩の風獅爺ですが、四つ脚は踏ん張って、口元は裁ち落として明確で、目は遠方を見ています。小さな怪獣さまのようで、頼もしいのです。


   高さも幅も、50㎝、西向きにお祀りされています。やはり水平線を見つめておられるのでした。花崗岩の乳白のお肌に、鮮やかな紅マント、そして村人の祈りを表す「石獅爺千秋」と書かれた緑帯、とても佳くお似合いです。


  FB「狛犬さがし隊」では、Yukiko Takeharaさんから「ヘミングウェイの『老人と海』のようなノスタルジアを感じました」との感想を頂きました。真新しい紅マントで、「永遠の還暦」(Yukiko Takeharaさん御指摘)の風獅爺は、少年の心と、推定年齢80歳から90歳の老成と、そして老人がみたような、これも一種独特なライオンの白日夢、なのかもしれません。結局この風獅爺さまは、 老人・少年・ライオン、三者渾然一体という解釈で落ち着くのでした。