海南島明代官僚墓の動物たち(2)
─海瑞墓の石虎・石羊・石馬・石獅・石人(海口市龍華区濱涯村)



   明代の官僚墓は、大学者の丘濬(きゅうしゅん・1420-1495)の墓とともに明代晩期の官僚である海南島出身の海瑞(かいずい・1514-1587)の墓所が有名です。そしてこちらの方が、現在もほぼ変わらぬ状態を留めています。晩明萬暦(ばんれき)十七年二月(1589)に完成していますが、工事には朱翊鈞(しゅよくきん)、則ち第14代萬暦皇帝より、直々に監督のための要員として、同郷の許子偉(きょしい)が派遣されています。




図1.石虎(向かって右)


   海瑞は、南京都察院右都御史の地位まで昇っていますが、時の皇帝の朱厚熜(しゅこうそう=第12代嘉靖帝〈かせいてい〉)への直言を畏れず、剛直で清廉潔白な官僚として、いまの中華人民共和国でも官僚の手本にされています。後の「四人組」の1人、姚文元(ようぶんげん)の評論「新編歴史劇『海瑞官を罷(やめ)る』を評す」が、文化大革命(1966-1977)の動乱の時代の切っ掛けとなったことはよく知られています。



   「粤東正気」(粤東=広東・えつとうせいき)と皇帝の聖旨として大書された牌坊(はいぼう・記念のために建てられる飾り門楼) を潜ると、まず最初に石虎が一対出迎えます。



   石虎は、背が高いですが(160㎝程度)、しゃがむ姿(蹲踞・そんきょ)です。お顔が2頭では随分ことなり、向かって右の方は、目も大きいか、なかなか美男子です。向かって左の方は、もう少し丸みを帯びています。

図2. 石虎(向かって右)



   そして大きな目玉と、丸みを帯びたしゃがみ姿勢など、雷州半島の雷州市境内の大廟などに置かれている重鎮型の石獅みたいに大きな石狗の姿に通じます。しかし、背後は長い尻尾が胴体に上がっていますから、それが虎たる証拠です。他の地方の官僚墓での石虎像とは、まったく違う造形の自由さに驚きます。


図3.石虎(向かって左)


図4.石虎(向かって左)

図5.石虎背後、尻尾が長いです(向かって左)

   石羊は、角が長く、海南島によく飼われている山羊のようです。つるんとしていて、耳の彫刻と、お尻にくっついた尻尾が目立ちます。向かって右の方は目がなく、向かって左のものには、コーヒー豆ののような目があります。そちらの方は、じつに屈託のない顔をしてます。「羊」(漢語:ヤン)は「祥」に通じる縁起も担っているようです。墓前の供物の意味があります

図6.石羊(向かって右)

図7.石羊(向かって左)

   石馬はとくに生き生きとしています。鞍と、その下の腿カバーと、あぶみは、たいていの明代官僚墓の石馬にはありますが、それらも本物であるかのような錯覚を起こさせます。しかしお顔は、おとなしそうに頭を垂れて、両耳を前につきだして、いかにも愛馬として愛されてきたような印象です。

                                                                               
図8.石馬(向かって右)

図9.石馬(向かって左)

                                
   石獅は、あごひげがあり、眉も出ており、両目玉が大きく、海瑞墓の石虎とともに、ともに対岸の雷州半島の廟前の重鎮型石狗に似ています。そして決定的なことは、背後に分かれ毛がしっかり描かれています。この分かれ毛が、石狗と違うところです。

図10.石獅(向かって右)

図11.石獅(向かって右)


   尻尾も紋様化しており、前足も紋様化されていることが大きな特徴です。それに玉を両前足の中間に置いているのも、珍しいです。

図12.石獅背面(向かって右)

   やはり、これは雷州半島の石狗文化の影響だと思いますが、別に海口市五公祠の蘇公祠を守る2対の石獅も、石狗的表現があり、海南島の石獅の有り様を考えるのに、両者ともに重要な意義があると思います。



図13.石獅(向かって左)

図14.石獅(向かって左)


   現在では、海南島の石獅は、福建南部形で、占められていて、その本来の有り様は、この辺りの石獅・石虎の表現にあるでしょう。官僚墓にあって、敢えて現地の民間様式を豊富に注入した、墓所造営監督である、海南島出身の許子偉(きょしい)の英断には感心するばかりです。゜





   石碑は、「明海忠介公諭祭碑」(明の海忠介〈=諡・おくりな〉公、祭(まつり)を諭(さと)すの碑)があり、皇帝の命令で、祭祀を行った旨を記します。もっとも萬暦(ばんれき)皇帝こと朱翊鈞(しゅよくきん)は、すでに宰相の張居正(ちょうきょせい)が死去して堕落期に入っていたから、海瑞の上書など、ついぞ受け入れたことはなかったのでした。

図15.石亀



   石碑は官造石碑の定番として、石亀の上に立てられています。皇帝の命令があることは、たいへん名誉あることですから、これで墓所造営の規定が相当上がります。





   墓所の石亀は、この他、明・清代には、墓所を荒らす猪避けのための石亀があり、こちらは中国の魔除け石彫のなかでも重要な一ジャンルかと思われますので、後日また追々ご紹介します。





   石人は、正式には「石翁仲」(漢語:シーウェンチュン・せきおうちゅう)といいます。とても写実的な表情で彫られているのです。服装は、明代の官服と官帽(烏紗帽・うさぼう)です。この石人には、明確な個性があり、この世に1体だけの「実存」そのものです。そして、どうもこのリアルな個性には、どうやら理由があるらしいのです。

図16.石人(向かって右・海安像)

図17.石人(向かって左・海雄像)



   私が感銘を受けたのは、この2人は、じつは名前があるということです。海安と海雄といいます。ですから、海瑞の息子か、親戚扱いかと思いますが、じつは海瑞には、実子いなくて、この2人は長年海瑞の世話をして仕えており、没後の御世話も託されているのです。お2人とも、福耳で、目が忠実で、信頼感があります。石人は、現実にその人ありと思うと、胸を打ちます。

 

図18.海瑞墓


    墓所は、高さ3mのドーム型で、この築造技術は注目すべきと思います
たとえば、タイ南部のパッターニのイスラーム寺院はマスジット・クルセは、1578年から1580年頃にパッターニ王国で活躍した福建華林道乾によって建てられましたが、あるべきドームがありません。これは海瑞墓とほぼ、同時期にあって、パッターニ王国ではドームの築造技術が不足していたものと推測されます。海南島で、ドーム式墓所が様式化されているのは、背景の技術力を感じます。

図19.牌坊

図20.海瑞墓全景

  海瑞墓は、このように、石獅も、石人も、墓所もそれぞれ見るべき大事な特徴があって興味深いです。中国最南端の海南島、中国伝統文化の周縁部だけに、時折力強い創造力を発揮するから、たいしたものです。




図21海瑞遺像