野々村さんの涙から生産的な思考をしてみる(笑)
西宮の県会議員の慟哭は、中国でも韓国でも、世界的に評判になっている。
中国と韓国は慟哭が許される文化がありますが、それでも理解できない泣き方であるのは当然だ。日本人の「涙の精神史」というテーマは面白いと思うが、慟哭の前例は、
ヤマチイノナキシャチョウ(山一の泣き社長)があるくらいで、彼の場合は心情的に理解できる。
それで野々村さんの慟哭を、生産的に考えてみると、思想の条件に「我慢」というのがあって、ある種の感情は我慢の濾過装置を経て、言葉となり、思想を造ることができるのではないかと思う。その種の感情で、「泣く」「恨む」「怒る」の3つが最たるもので、それらを心から消す方向ではなくて、言葉に昇華する方向で処理するのが思想への方向性だともいえる。「笑い」は思想に必要な感情だと思うが、我慢する必要はなさそうだ。
「泣く」「恨む」「怒る」の感情に共通するのは「いまは=ない」という認識が根底にあるということで、欠如への感性は、「あって=しかるべき=もの」への想像力に繋がるだろう。理想というものが見いだせるとしたら、そうした想像力に基づくのだろうと思う。
野々村さんは政治家だから、パフォーマンスの形を採る。野々村さんをネタにして、せめてもの生産的な思考を取り出そうとしたが、却って滑稽になったかも知れない。
写真=蒼山連峰から望む大理盆地です。洱海の湖がみえますね。中国でも毎日青空の土地であります。
西宮の県会議員の慟哭は、中国でも韓国でも、世界的に評判になっている。
中国と韓国は慟哭が許される文化がありますが、それでも理解できない泣き方であるのは当然だ。日本人の「涙の精神史」というテーマは面白いと思うが、慟哭の前例は、
ヤマチイノナキシャチョウ(山一の泣き社長)があるくらいで、彼の場合は心情的に理解できる。
それで野々村さんの慟哭を、生産的に考えてみると、思想の条件に「我慢」というのがあって、ある種の感情は我慢の濾過装置を経て、言葉となり、思想を造ることができるのではないかと思う。その種の感情で、「泣く」「恨む」「怒る」の3つが最たるもので、それらを心から消す方向ではなくて、言葉に昇華する方向で処理するのが思想への方向性だともいえる。「笑い」は思想に必要な感情だと思うが、我慢する必要はなさそうだ。
「泣く」「恨む」「怒る」の感情に共通するのは「いまは=ない」という認識が根底にあるということで、欠如への感性は、「あって=しかるべき=もの」への想像力に繋がるだろう。理想というものが見いだせるとしたら、そうした想像力に基づくのだろうと思う。
野々村さんは政治家だから、パフォーマンスの形を採る。野々村さんをネタにして、せめてもの生産的な思考を取り出そうとしたが、却って滑稽になったかも知れない。
写真=蒼山連峰から望む大理盆地です。洱海の湖がみえますね。中国でも毎日青空の土地であります。









