ジャカルタ・グロドッ華人街(3)
歴史建築(1) 金徳院


金徳院は、福建南部系の寺廟で、福建南部方言でキンテッイェ(Kim Tek Ie)という。しかし石獅と高炉は広東から来て、鐘は福州から来ており、華人の出身地を越えた信仰を集めていることが窺える。また、華人診療所を併設している点慈善団体らしい性格がある。
 郭芬によってコタ市内で1650年に創建された。当時は観音堂と命名された。現在の廟堂は、1755年にカピタンの黃琪が華人虐殺事件の破壊の後華人居住地となったこの地に再建した。鐘や香炉などはそのままグロドッ旧市街の歴史を今日に伝える貴重な文物である。ジャカルタ旧市街を蝙蝠で概括している金子光晴もたぶん立ち寄ったはずであるが、本堂の建物は当時のまま、前殿左右に丸枠を設ける体裁である。


写真1.死者の肖像

後殿と側殿で合わせた四合院様式である。前殿は屋脊両端の燕尾を反り立てて、福建南部風である。願掛けに紅色の大蝋燭を奉納する習俗がある。信徒の名前は漢字書きであるが、あまり上手ではないのが、華語教育が長期間禁止されていたインドネシアらしい。しかしこれを悲哀といっては失礼な気がする。

この他に地蔵菩薩を祀る地蔵殿、玉皇大帝を祭祀する恵沢廟がある。

写真2.金徳院前殿


仏教・道教の神祇も同堂していて、仏寺とも廟堂ともいえる。祭祀される神像にも、福建省安渓系華人が祭祀する清水祖師や、福建省南安系華人の祭祀する広澤尊王、客属系が祭祀する慚愧祖師など、華人各系の神祇を祭祀する。インドネシア華人出身の澤海真人を航海安全の神として祭祀することも大きな特徴である。合計35位以上(死者の牌位を除く)の神仏を祭祀し、華人の出身地を越えて、ジャワの地に中華のパンテオンをうち建てているのだ。



写真3.清朝.道光元年(1821)に広東省香山県(現在の中山市)信者寄贈の香炉


写真4.清朝光緒十六年(1890)鋳造の香炉は登龍門の図案で着色するのも珍しい

以下金徳院HPは参照している。配列図は金徳院HPの引用。列表にない神祇も多い。コ授けの神様註生娘娘などが祭祀される。

HP『椰城金徳院網站』http://jindeyuan.org/cn/about



写真5.神仏配置表(金徳院HPより転載)


金徳院神祇配置一覧表(ローマ字表記は福建南部方言←微妙に台湾語と違う部分あり)
1.玉皇大帝(Giok Hong Siong Te)(宇宙・自然界・人界の最高神)
2.三官大帝(Sam Koan Tay Tee)(天・地・水界の3神)
3.韋陀菩薩(Wi To Pho Sat)(韋駄天)
4a.千手觀音(Chien Chiu Koan Im)
4b.觀音佛祖(Koan Im Hud Co)
5.三尊大佛(Sam Cun Tay Hud)(地蔵・釈迦・弥勒の三世仏)
6.關聖帝君(Koan Seng Tee Kun)(関羽)
7.天上聖母(Thian Siang Seng Boo)(媽祖)
8.十八羅漢(Cap Pe Lo Han)
9a.城隍爺(Seng Hong Ya)(華人街区画の城市の守護神)
9b.太歲爺(Thay Swee Ya)(年ごとの守護神)
10.廣澤尊王(Kong Tek Cun Ong)(福建省南安系華人の守護神)
11.花公花婆(Hoa Kong Hua Pho)(縁結びの夫婦二位の神)
12.白虎將軍(Pe Hou Ciang Kun)(白虎の凶運を祓う白虎神)
13.清水祖師(Cing Sui Coo Su)(福建省安渓系華人の守護神)
14.懺魁祖師(Cham Kui Coo Su)(客属系華人の守護神)
15.a托塔天王(To Tha Thian Ong)(『封神演義』などの李天王)
15ba玄天上帝(Hian Thian Siang Tee)(北極帝)
15b.玄壇神(Hian Than Kong)(武財神趙公明)
16a.澤海真人(Tek Hay Cin Jin)(インドネシア華人の守護神)
16b.魁星星君(Kwee Seng Seng Kun)(学問上達の科挙あるいは試験の守護神)
17.達摩祖師(Tat Mo Coo Su)(達磨大師)
18.二郎神・天狗(Er Lang Shen ・ThianKou)(魔除けの力をもつ。じつはジャワのお空の下に天狗が来ているのが凄い)
19.財神爺(Cay Sin Ya)(財産繁栄の神・文官像である文財神比干)
20.福德正神(Hok Tek Cing Sin)(土地神)
21.五虎將軍(Ngo Houw Ciang Kun)(土地公の化身の虎神)
22.大爺・二爺(Tay Ya ・El Ya )(冥界の拘魂卒)
23.衆佛神靈(Ciong Hud Sin Ling)(諸神諸仏・観音像・関帝像・土地神の奉納が多い・引っ越しなどで不要になった神仏像を廟内に祀り込める)
24.師父(Suhu)(歴代の住持)

金門島の風獅爺(1)-古崗村風獅爺(金門県金城鎮)

 金門島の風獅爺(ふうしや・中国語:フォンシーイェー、福建南部方言:フォンスーヤー)は、風鎮めの獅子です。たいていは村の四方に置き、東北方か北方を向いています。福建の海域では、東北から風が吹く季節が年間9ヶ月もあり、塩田で森林を伐採してしまった金門島では、田畑が風や潮のために荒れます。それで風鎮めのまじないの役割をもたせた呪物が必要なのです。他にも風鶏や、風将軍などがあります。村落を守る風獅爺は、金門島だけで68尊もあります。

写真1.最近は創作風獅爺も多いです。生殖器を
あらわす瓢箪は、伝統的な手法です。
 
 沖縄のシーサー(獅子だから沖縄方言読みで「シーサー」さあ。)も、はじめは地上に立つ形で、のちに屋根の上に火伏せの魔除けとなり、明治以降に屋根の上に大繁殖したとのこと。これと同じように、風獅爺は、屋根の紅瓦の上に置く個人の家のものもあります。獅子だけのものもあれば、武人が乗っているものもあります(後述)。

 
 村落に置く村落風獅爺は、住宅に置く住宅風獅爺と異なり、村ごとに68差68別で(千差万別と言いたいですが合計68尊なので・笑)、背丈だけでも、高い物は385㎝、低い物は22㎝といろいろです。姿かたちも身につける物も異なり、役割も風鎮めだけではなく、様々な意味を持たせています。

 
 風獅爺は、広い意味で中国文化圏でよく大門や門楼の左右に置かれる魔除けの石獅とも系譜を同じくする獅子形の石像です。朝鮮半島の石犬や日本の狛犬とも同じメソポタミア由来の獅子の造形の系譜上にある仲間です。しかしその個性は金門島ならではのものです。



事例:古崗村風獅爺(金門県金城鎮)


 美しいため池を囲んだ伝統的村落である古崗村の風獅爺で、珠水路の村の入り口に立っています。これは交通安全の願いもあるそうです。この村は董さんが多い村です。風獅爺は乾隆五十年(1785)に立てられ、とても古い石像です。東北方を向いていたそうです。

 写真2.古崗村風獅爺

 金門島と対岸との軍事的緊張で、台座が壊れ、長らく草むらにほかされていたのを1989年、再び台座を作って復活させようとしました。ところが、事前の占いで、2つの三日月型の筊(ポエ)を投げたところ、なんとあろう事か音を立てて割れてしまいました。村人は恐れおののき、村神(本境恩主公)さまも時宜不適切との託宣だったので、再建を断念したのです。風獅爺はもっと草むらに転がっていたかったのでした。それで1997年に風獅爺の承諾を受けて、ようやく現在の村の入り口に立てられました。

 写真3.廃屋もたくさんありますが、アーチの美しいコロニアル
風紅磚洋館は、華人のふるさとであることがわかります

 風獅爺はひょろりと長く、朝鮮半島の村神、天下大将軍のようです。まん丸の目玉と、開けた口と、むき出しの牙、大きな扁平な鼻は、風獅爺の特徴をよく表しています。たてがみも巻き毛で残っています。今は赤いマントを羽織っているのは、どの風獅爺も同様です。おまけに風雨での浸食も激しいですが、鈴かどうかはわかりませんが、首の下は円形の突起が見て取れます。獅子が遊ぶ鞠だったかもしれませんね。

     写真4.風水にこだわったため池。前は水、後ろは
     山のセオリー通りです。



 雲南の魔除・招財霊獣「瓦猫」(1)
(星野孝司さん・田村愛明さんとのFB上のやりとりにお答えして)

 雲南にいろいろある魔除けの1つに、日本の鬼瓦みたいな役割の瓦猫(ワーマオ・WaMao)がいます。中華周辺で遺る特徴ある魔除けの仲間でもあり、金門島の風獅爺や沖縄のシーサーの系統とも同列に語ってもいいでしょう。

 

写真1~3は私の所有する鶴慶県の瓦猫


  雲南の瓦猫の系統は、雲南西北部型=大理・剣川・鶴慶・麗江(民族=白族・ナシ族・漢族)と、雲南中部型=昆明・曲靖周辺地域などに分かれます。雲南南部の文山にもあるらしいのですが、主流はだいたいこの2つですが、昆明の方は急激な都市開発で、伝統家屋自体が消滅していて、当然市区内では絶滅といってよい状況です(民族=漢民族)。



   雲南中部型のものは釉薬を使った茶色の焼き物ですが、雲南西北部型は、黒粘土の素焼きです。その中心地は剣川・鶴慶二県で、恐らく剣川県が優れた大工さんの故郷で、建築業が繁盛していて、麗江でも住民のナシ族ではなく、白族の大工さんたちが家を建てているからではないかと思います。雲南西北部ではたてがみのある獅子型と、猫型があります。


 
瓦猫は家の主屋の屋脊上(屋根中心線上)中央部に立てます。外部が顔で、内部はしっぽを向け、外にあっては魔を祓い、内にあっては肛門から財産を落とすという役割を持たせます。口を大きく開けますので、気を吸収して財宝を作り出す機能もあり、招き猫同様、招福猫でもあります。魔除けの機能に限定されないところが優れたところです。気の思想の体現者です。


写真4は麗江大研鎮(世界文化遺産)の瓦猫

 今日は雨なので外出が難しいのですが、私が所有しているのは、猫型です。口を大きく開けて、耳を立て、鈴まで付けてあって、どこからみても猫型です。

  天気が良くなったら家の周りの瓦猫をコレクションして続きをアップします。金門島の風獅爺はある程度見て回りましたから、これも近いうちにアップします。


写真5はうちのミーミーです。実物との比較対象に掲示しておきます(笑)

街並構成
 インドネシアの華人街では、とくにジャワ島で「華人辛苦」(華人は苦労した)という言い方をよく聞く(ボルネオ島北半部のカリマンタンは事情がやや異なる)。1740年にはすでに華人の虐殺事件が発生した。反華暴動は紅河事件と呼ばれ。川が血で染まったといわれ、直後にセイロン送りを恐れた華人が反乱し、マタラム王国軍とともに軍事行動を起こしたがオランダ人にさらに虐殺されます。ジャワ島の華人では、30年に一度災難が降りかかるというジンクスもまことしやかに聞く。

   

     華人街はグロドッ地区からパンチョラン通りに拡がり、こちらが主街道となっている。河川を隔てた東西で性格が異なり、東側が電器街と中国市場とペキンダッグや広東焼き豚などの屋台街や、乾果売り屋である。ただし、電器店は暴動後に転居した。市場とホテルは1998年の暴動で焼き尽くされた。運送業も多く、インドネシアの物流の基地であることが分かる。かつて運河はここを貫流し、船が漕ぎ着けた。

                                                             

                                                               

 西側の通り沿いは繁華街で、漢方薬材店や中国雑貨、中華食堂などが集まり、さらに奥に入ると密集した路地空間に鮮やかなバナナを売る果物屋や食堂や雑貨店・華文書籍・華文音楽の店などが軒を連ねる。熱気活気あふれるほどではないが、楽しい商業空間は復活している。
                                                                                                                       

 この路地空間は、雑然な「羊腸小径」で、相当入り組んでいる。

 漢字での対句を年越しや吉凶時に書く対聯屋も請け負い仕事をするが、あまり綺麗な字ではない。この人のみならず、概して漢字の字は歪んでいて、上手ではないのが、一時期中華的伝統と隔絶した華人の歴史を物語る。獅子舞などの華人の芸能も復活しているが、流しの獅子舞がいて、踊って見せて門付けをし、商売としている。中国語も通じる場合がある。

 漢字の看板がないのが、東南アジアの華人街では異様な雰囲気であるが、やや地味なこの街景を大槻重之氏は目立たず生きるインドネシア華人の知恵であると指摘しており、苦難の歴史背景を思い起こさせる。しかし最近は中国廟(マレー語「クレンテン・kelenteng」も記され、同族組織である宗親会も堂々と漢字書きで看板を掲げる。ジャカルタコタ鉄道駅南側通り向かいに、三元宮(天・地・水三元の神を祭祀する)、朱氏宗親会などが見られる。中国廟も金徳院と鳳山寺・三山廟の3つを確認したが、今後出身地縁の互助組織である会館(公会)の施設の復活も進むと思われる。


参考文献:

大槻重之(著) 2007年『インドネシア専科』「第4巻 B.地誌編上」(私家版)

陳燕南2005「インドネシア華人とその経済的地位」 拓殖大学華僑研究所(編)『ニューズレター』第4号















ジャカルタ・グロドッ華人街(1)

沿革

インドネシアで華人というと、よく中国の古典小説に「魂がジャワのお空に飛んで行きました」という「ビックリ仰天」状態を表現する決まり文句があるのです。南方出稼ぎを意味する「下南洋」(南洋下り)は、中国では山東人の「闖関東」(東北出稼ぎ・「関東は山海関の東を抜ける」の意味)、雲南人の「走夷方」(異民族地方稼ぎ)とかと同様、福建・広東の人たちの常套句ですが、それにしても「地の果て天の果てに赴く」というイメージはあります。南海観音のおはす、補陀落の地に向かって漕ぎ出していく感じです。

 東南アジアのどこに定住するかで、華人の運命はおおよそ子孫ともども決まります。ジャカルタ(つまりVOC(オランダ東インド会社バタヴィア)の華人は1629年には2千人から1720年には10万人になに急増し、19世紀初には製糖業を独占するに至り、煙草などの経営者も輩出します。

 独立後のインドネシアで華人は厳しい身の置き所になります。華僑資本が繁栄していたとはいえ、裕福な華人はほんの一握りなのに、華人全体が目の敵にされやすく、民族・宗教も異なることもあり、スケープ・ゴートにされやすいともいえます。マレーシアでもマレー人・華人衝突事件として、1969年5月13日に「5・13」事件が発生しています。

 インドネシア独立後、資本の独占を恐れた政府は、華人の財産を没収し、相当な圧迫を受けます。スカルノ大統領(1945-1965)の時代、1945年以降反華暴動も数年にわたって頻発し、1958年以降華語の使用や、学校での華語教育は禁止され、華人団体も解散させられます。中国共産党がインドネシア共産党のクーデター(これはスハルトを拘束予定者名簿に入れていないなど計画がずさんだった)を支持したことから、1965年に華人の大虐殺が在り、被害は30万とも言われます。

 スハルト大統領時代(1966-1998)にも華人の帰化政策を推進し、華人学校の閉鎖は続き、公務員・軍人・医者などの職業への就職が不可でした。スハルト大統領統治期末期は、帰化政策の実績もあり、華人の待遇が相当改善されますが、その後、1997年にアジア金融の発生で、翌年ジャカルタで反華暴動が発生し、略奪・破壊の上、華人に1千人の死者を出したと言われます。スハルト政権も崩壊します。

 グロドッ華人街でも漢字看板が近年まで許されなかったのは、同化政策が基本であったタイの状況とも似ています

インドネシア華人は人口は740万を超えますが、全人口の約5%です。2002年にメガワティー大統領が春節(旧正月)を公定休日にするなど、今後華人の置き所も改善が見られると思われます。長いこと活動休止中の会館組織の復活も相継ぐことと思われます。 インドネシアの華人街は、現地民と華人を分割統治し、華人を居住区に定住させたオランダ植民政策の名残りです。ジャカルタの華人街のクロドッ(Glodok)地区は、東インド会社の拠点コタに居住していた華人を紅河事件の後、南城壁外に追い出して形成されました。

(参考文献:陳燕南2005「インドネシア華人とその経済的地位」 拓殖大学華僑研究所(編)『ニューズレター』第4号)