金門島の風獅爺(2)─安岐村風獅爺(金門県金寧郷)

 金門島で最大の風獅爺です。401㎝(一説に378㎝)もある煉瓦組・漆喰塗りの像ですが、修復時にコンクリートは相当盛られています。その役割は風鎮めだけでなく、ハンセン氏病の流行がこの村で止まったと伝えられています。元は18世紀のものであると村では伝えています。東北方を向いています。

 平坦な土地柄なので風も直接吹き付ける場所です。風雨による傷みと戦役での損傷もあったようですが、2008年に100万台湾ドルほどの費用で修復されました。生殖器らしいものがついていて、足元は爪を伸ばしています。他の風獅爺と比べると、ヌボーとして、ノッペリした感じがしますが、色彩表現に頼っているところもあるでしょう。ほっぺの膨らみがいいです。確かに力はありそうです。

 安岐村は金門島の西岸側の村で、書物の記録は清朝後期からですが、多姓村で、そのうち周姓と林姓が陝西省の岐山が発祥地とされることから、後岐と呼ばれ、後に安岐村となりました。
 湖畔にあるため、水鎮めの水尾塔もあり、風水上の龍脈の上に立つ「風鶏咬令箭」塔もあり、こちらも風鎮めの塔らしく、「風鶏が破魔矢を咬む」塔というべきもののようです
水尾塔


これが風鶏塔です。脇に絵が描いてあります。

福祥商号
  グロドッ華人街での華人ショップハウスは散在する程度であるが、1920年代の写真では、中国風店舗が櫛の歯のように並んでいた。福祥商号は、パンチョラン通りから、川筋が西南方に向きを変える交差点にあり、ここには伯公・伯母という土地神の小祠がある。 狭い間口に屹立するようなオレンジ瓦の急斜面屋根を取り付けた狭小住宅の趣きで、福建系の伝統も感じさせる品のある様式を保っている。

しかし屋根の急斜面は、南洋華人の間で花開いた様式のように思われる。広東・福建両省でも台湾でもここまで深い屋根をみることは少ない。瓦は横に波打つ桟瓦様式で、珍しい。

ジャワ現地様式の軽い瓦なのだろう。馬背部分に風水説による五行火形・土形・木形など、多様な形式がみられる。二階中央の匾額框に堂号を書き、左右書巻形に中国画、左右側壁内側にも扇形に多産を象徴する果物の絵を描く。二階上部左右に配し、屋背部分を櫛形と銭形に透かし抜かしている。

屋根裏部屋を大きく採るのも、ショップハウスの機能としては有効だったかも知れない。

福建南部式街屋
かつて運河の支流にあたる大史廟の近くにあるショップハウス。
一部に二階部分に貨物出し入れの角窓を設けた典型的な福建南部様式の店舗があり、相当に古いはずである。両側面の窓がないが、はじめから倉庫としたものだろう。この種の福建南部式ショップハウスは、福建省の泉州にわずかに遺るが、金門島の北城門街にほほ往年のまま明代の街屋が列をなす奇跡的な街並がある。ただしこちらは平屋である。

運河の支流で、船荷の搬出も行われていたはずであるが、旧店舗が多く、軒下部分を斗拱(ときょう・ますぐみ)で支えるものもある。
  爪哇(ジャワ)のお空に飛んでいった天狗
─ジャカルタ・グロドッ華人街大史廟と金徳院の「天狗将軍」

  ジャカルタのグロドッ華人街の大史廟の主神は、謝府元帥謝玄(東晋の将軍・343-388)で、「清元真君」は廈門系の呼称であり、福建南部系華人の廟堂です。大史は「王孫大使」の意味で、道教の流派で、閭山法教王孫派の流れを汲むのではと思います。
 気になるのは、清元真君の壇下に使役神の天狗を祭祀することで、「清源妙道真君」の号をもつ二郎神信仰に由来すると思います。「清元」と「清源」は、北京音では「チンユエン」で同一です。近くの金徳院には二郎神の神犬として天狗を祭祀しています。二郎神とのアナロジー・同一視があって当然でしょう。


写真1.天狗将軍像

 中国系天狗は、日本で修験道などの影響を受けていない状態の素のままの「テンノイヌ」です。
 二郎神と天狗の神像は、日本の天狗の本来の中国での源流が、ジャワ島にも祭祀されていて、本来の天の狗の姿で面白いです。この天狗信仰は、ジャカルタ大史廟でも清源真君の使役神とされ、華人の間に広まっています。

 二郎神は、元来四川省成都郊外の堤防である都江堰(とこうえん)の水神である灌口二郎神です。秦代の蜀の太守であった李冰(りひょう)とその息子を祭祀したのが起源です。
 
 それが後に趙昱(ちょういく)という人物を清源妙道真君二郎神として祭祀した際に、神犬の姿がいっしょに登場します。二郎神は楊戩という人物とされて大活躍する明代の小説『封神演義』で有名になり、中国全土に信仰される神となります。神犬も活躍することから、二郎神の神犬の姿も定着していきます。大史廟の天狗将軍も二郎神系統の神犬であるとするのは以上の流れからの説です。

  しかしながら、天狗が一番大切なのは、人の運勢をひっぱる年回りの凶神、天狗星である点でしょう。ジャカルタ金徳院の厄祓いの説明には、次のように書かれています。

2013年歳次癸巳(きみ・みずのとへび)年肖蛇(へびどし)
癸巳大利南北不利東方
祈福(願掛け)二零一三年二月二十五日至四月三日 
還福(願解き)二零一三年十二月一日至二十一日
肖蛇(特別年齢25・85)・猪(7・43・67)・猴(34・94)・虎(16・52・76)、敬太歳爺(年回りのその歳の神)、徐舜(今年の年神の姓名)。三種果(くだもの)・三種糕(蒸し菓子)
肖牛沖(冲・衝)白虎将軍(うしどしは白虎将軍にぶつかる)。豆府(腐)・蛋(たまご)・緑豆(りょくず)。
肖鶏沖(冲・衝)五鬼(にわとりどしは五鬼にぶつかる)。五種果。
肖兎沖(冲・衝)天狗(うさぎどしは天狗にぶつかる)・三種果。

 今年の歳神(太歳)の年回り、白虎将軍・五鬼・天狗の年回りの人は、厄年なので、厄祓いをしなければならないという趣旨です。   
 金徳院には、太歳・五鬼・白虎将軍・天狗(将軍)いずれも神像があるのは、こうした厄年の祭祀に必要だからです。したがって、二郎神の神犬もまた、厄祓いの対象となっているのです。
  
写真2.金徳院の天狗像

 それで、天狗像ですが、金徳院のものは、ただの「黄色いシェパード」みたいで、なんだかコーナンの園芸売り場で売ってそうです。しかし大史廟のものは、2匹とも雲の上に乗っています。小さいけれど立派な石像で、渦巻く雲は正統派天狗の表現です。耳を垂らし、顔も長く、目が可愛いです。スヌーピー系です。大事なところは羽根が生えているかどうかですが、しかし黄色いマントを羽織っていて、その部分がわかりません。
        
      写真3.金徳院の白虎将軍像
写真4.金徳院で貼り出される年回りの厄祓い説明書



 かつて天津の天后廟(媽祖を祭祀する)でも、門前脇の回廊上に張仙祠(四川出身の子授けの神)があって、そこに天狗像がありました。黒豚のようで、羽が生えていたそうです(だからペガサスでなく、ピグサスです・笑)。天狗が不妊の原因となることから天狗像があったらしいです。2013年に行ったときは修復中でしたが、今度知り合いに見に行ってもらう予定です。
 天狗信仰は産育信仰と病気防止、日食・月食の原因など、多方面な意味がありますので、また今度まとめます。
 
参考文献:
川野明正「天翔る犬─大理漢族・白族の治病儀礼〈送天狗〉と〈張仙射天狗図〉にみる産育信  仰」『饕餮』第8号、中国人文学会、2000年
杉原たく哉『天狗はどこから来たか』大修館書店、2007年


ジャカルタグロドッ華人街(4)─歴史建築(2)大史廟
 ジャカルタ華人街の中国廟大廟である大史廟は別名鳳山廟といい、その名から福建南部系寺廟と思われる。福建南部南安県詩山鎮に鳳山寺があり、台湾にもたくさんある。

                 写真1.大史廟

 大史廟は、台湾では大使爺廟とも呼ばれる。主神は謝府元帥謝玄(東晋の将軍・343-388)を祭祀で、「清元真君」は廈門系の呼称であり、やはり福建南部系華人の廟堂である。大史は「王孫大使」の意味で、道教の流派で、閭山法教王孫派の流れを汲むと思われる。しかし大史廟を「トゥアセッビョ」(Toa Sek Bio)と読むのは客属系の発音と思われ、福建南部方言でも広東方言でもない。それに祭祀神も鳳山寺の神、郭聖王(=鳳山寺で常に祭祀される広澤尊王)、福建省安渓県系の守護神である清水祖師を祭祀して、各地の守護神が一堂に会している。神祇も道教系・仏教系・儒教系(孔夫子=孔子)と、三教同源的な意識で祭祀されている。同様な性格は、ジャカルタ華人の寺院である金徳院でもみられる。                                   

 大史廟は1740年の華人の虐殺事件で壊され、1752年に再建された。現在の廟堂は近代的なビルディングで、真っ赤に塗られていて驚く。だから正確には歴史建築ではない。

 祭神はとても多い。清元真君・天狗将軍(後述)・花公花母・財帛星君・孔夫子・如来仏・太上李老君(老子の神格化)・地蔵王菩薩・済公活仏(乞食僧の恰好をした神仙)・達摩祖師・郭聖王・清水祖師・関聖帝君・八仙・玄壇公(武財神趙公明)・太陽星君(太陽の神格化)・太陰星君(月の神格化)・包公(冥界の閻羅王)・聖母娘娘・観音仏母・福徳聖神・衆仏神霊(諸神諸仏・観音像・関帝像・土地神の奉納が多い・引っ越しなどで不要になった神仏像を廟内に祀り込める)などが祭祀される。


         写真2.清元真君(上)と天狗将軍(下)

雷州半島と海南島の石狗─中国最南部に遺る石犬彫刻の系譜


 海南島の新英という漁港の街を雨の中とぼとぼと歩いていました。海南島北部の儋州市の小さな街で、行政区劃の「鎮」でもなく、合併されたうらぶれた街です。しかし帰国華人の建てた立派な街屋が続いていて、中華民国期の繁栄は充分忍ばれるのでした。新英のメインストリートはT字路で突き当たって、その脇の家の門前に小さな石犬像が一尊だけ置いてあります。



写真1.海南省儋州市新英の石狗

 これは石狗といって、海南島と、対岸の広東省の、とくに雷州半島に分布する石像です。
海南島と広東省、とくに雷州半島には、石狗と呼ばれる石像が見られます。雷州半島では石獅より石狗が盛んで、朝鮮半島の石犬、ひいては日本の狛犬とも対応する形で石狗が民間信仰に息づいています。

 雷州方言と海南方言は、じつは福建南部系方言の仲間です。これはこの地方に南宋末期大量の避難民が福建からやってきたことによります。ですから信仰文化も共通するのでしょう。雷州半島と海南島の漢族の文化の古層を伝えるものです。

 雷州半島では、石狗は少なくとも明代からあるようです。古城門・村口・古道・巷口(路地の入り口)、門口・水口(村落に河川が流れ込む場所)にあり、古墓の前にもあります。雷紋を彫ったり、石敢当の文字を彫ったりするものもあり、基本的には魔除けの役割がありますが、それだけでなく子孫繁栄の意味もあるといい、狗が多産だからでしょう。天狗(テンノイヌ)が太陽に吼えてくれて、それで雨が降ったという伝説もあり、降雨の呪物でもあります。雷州では犬は神聖な意味があり、殺してはいけないし、打っもいけないのだそうです。それなのに雷州の街では犬肉食堂ばかり軒を並べていますから、広東省でも有数の犬食地域です。犬崇拝と犬食が共存している不思議な土地柄です。











写真2.雷州の石狗・出典:HP『熱度旅游網』www.redoo.com

 新英の石犬は、個人のお宅の前にありますが、無数の線香が捧げられていました。静かに雨の中でしゃがんで、小さな耳を立て、頭は横を向いています。尻尾は短いです。しかし雷州のものは目玉が大きくて、口を開けて吼えています。金門島の風獅爺は直立するものが多いですが、顔つきは似ています。福建南部系造形の一種であるような雰囲気はあります。しかし雷州半島で何故石獅ではなく、石狗が主流となっているかは、雷祖に関わる九耳狗の伝説や、南方山地系民族のミャオ族・ヤオ族系の犬祖である槃瓠信仰と結びつける説もあります。

 雷州市の雷祖廟は、唐朝貞観十六年(642)の創建で、雷祖は雷を司る神です。しかしその人物は現地出身の陳文玉(570-638)で、実在の人物です。唐代の雷州刺史ですが、雷州の名付け親です。明代の荘元貞『雷祖志』に、陳鉷という猟師が九耳狗を飼っていて、ここ掘れワンワンというと、大きな卵が出てきて、翌日黒雲が立ちこめ、雷電合い混じる風雨中に落雷して割れた卵から陳文玉が誕生したといわれます。左手に「雷」、右手に「州」と書いてあり、雷祖と縁深い九耳狗が登場します(明朝万暦年間の『雷州府志』卷十七「郷賢志」にも同様の記載あり)。雷神信仰と深く結びついた形で、犬の信仰が雷州半島にあるのだとはいえると思います。

 文献は陳志堅(著)『雷州的石狗』広州:広東人民出版社、2006年があります。
 雷州市三元宮に石狗陳列館があり、博物館にも多く所蔵されているので、行かないといけませんね。