お盆終わる(3)─大理古城東嶽宮と地蔵寺の祭神と地獄の場景


冥界の管轄する東嶽宮(とうがくきゅう)の祭神は、中央が東嶽大帝(とうがくたいてい)、向かって右が鄷都大帝(ほうとたいてい・冥界の入り口は四川省の鄷都名山にあり、その管轄神)、向かって左が十殿閻王(じゅうでんえんおう)です。第五殿の閻王は、名裁判官の包公(ほうこう)です。


東嶽大帝の脇侍の向かって右の役人は「世世因果」と書いている簿册をもち、向かって左の役人は、大理盆地の人々の寿命を記した「生死簿」(せいしぼ)をもっています。鄷都大帝の向かって左の脇侍の役人は、『三十六獄刑法』(さんじゅうろくごくけいほう)と、判例集である『二十四彙総案』(にじゅうしいそうあん)をもち、生前の行為の審判は厳正で、判例集もあることから、冥界の刑法整備は徹底しています。法学が盛んなようで喜ばしい限りです。


山門には寿命が尽きた人の魂をとりに来る白無常(しろむじょう)こと白衣差神(大理漢語:バイイーチャイセン)・黒無常(くろむじょう)こと黒衣差神(ハイイーチャイセン)で、同時に白衣財神・黒衣財神と呼ばれて、財神信仰にもなっています。差神は「差」(チャイ)が派遣されることを意味するのですが、財産の「財」(ツァイ)と発音が似ているので、財産の神様
地蔵王菩薩(写真は今回下にまとめています)

である財神となったようです。なぜか黒衣差神の神像はなく、財神殿があり、「一見發財」(ひとたび出会えば財をなす)と壁の上に大書しています。白衣差神は、白帽子に「一見人才」(ひとたび出会えば人、才をなす)と書いてあり、芭蕉の団扇を紙傘を持っています。


東嶽宮の裏には地蔵寺があり、冥界を司る地蔵王菩薩(じぞうおうぼさつ)を祀っています。東嶽大帝と仏教で衆生を救済する地蔵菩薩が協力して死者の魂を管轄しているのです


地蔵殿では中央が地蔵王菩薩・向かって右が大黒天神(だいこくてんじん)で、これは大理盆地に唐代から続くインド密教の影響です。いまでも多くの村で村神(本主という・大理漢語:ペンツー・ペー族語:ウズ)になっています。向かって左は道教の太乙救苦天尊で、仏教・道教ともに亡者の魂の救済をします。


亡者の救済が重要な意味をもつのは、中国では本来の寿命を全うする「寿終正寝」(じゅしゅうせいしん)できなかった異常死者(夭折・事故死・戦傷死・自殺など)は、それ自体が罪となり、亡くなった場所に魂がどどまって、冥界に行けないことも多く、異常死者の魂は、枉死者の魂とされて、地下冥界の役所である「陰曹地府」(大理漢語:インツァオディーフー・いんそうちふ)の入り口にある枉死城(おうしじょう)に集められ、地獄で服役してから転生しなければなりません。枉死城は紙銭などを燃やす金炉の隣にあり、枉死城でも紙銭を燃やして、亡者の救済を図ります。


金炉では、願文を入れた紙函を燃やしますが、その際、ポンという音が出ると、願いが届いたことになります。紙函の包み方が大事です。

東嶽宮の前には枉死城・血湖池(けっこち)・奈何橋(ないがきょう)があり、まい。生前の罪があると、奈何橋(奈何は「仕方がない」という死者の嘆きの意味がある)を渡ることが出来ず、牛頭・馬面の獄卒に血湖池に落とされます。そこには蛇がうごめいていて亡者を苦しめます。

死者を身近にもつ祭祀者たちは、その冤魂(えんこん)を救うために、血湖池にはしごを落とし、蓮華の灯明を血湖池に浮かべて、冥界に苦しむ死者の霊を救済します。

じつは明日も祭祀は続き、明日旧暦八月十六日は、外地で死んだ者や、異常死者の魂を送る日です。

写真1.東嶽大帝

写真2.鄷都大帝

写真3.十殿閻王


写真4.地蔵王菩薩

写真5.大黒天神

写真6.太乙救苦天尊

写真7.白衣差神(白無常)

写真8.黒衣差神(黒無常)の府堂

写真9.奈何橋・血湖池と亡者救済のハシゴと蓮華灯

写真10.枉死城
 — 場所: 雲南大理古城 (写真10枚)
お盆終わる(2)─大理古城東嶽宮の参道で紙銭を燃やす

  本日は昨夜に続いてPM2.5が街では一年で最大濃度を記録する日です。何故かというと、街の人、いや、大理盆地中の人が、イスラーム教徒を除いて、一斉に紙銭を燃やすからです。先祖の生活費は、東嶽大帝のもとに集められ、東嶽大帝から先祖に渡されるといい、そのため、人々は東嶽大帝を祭祀する東嶽宮に赴き、廟の前で先祖に送る紙銭を焼きます。

写真1.まずは東嶽廟脇の川の橋の上で、紙銭の灰を捨てる。先祖の魂が送り出される。私は、義母と義父の妹さんについていきました。
  

  昨日先祖たちに紙銭を焼き送ったのに、今日もこれでもかというくらい燃やします。ですから近年の冥界
は、インフレが問題となり、紙幣の額面も「一億元」など、ヴェトナムドンなみに額面も急上昇しています。

  

      写真2.東嶽廟脇の参道で紙銭を燃やす。


  そのため、朝も早くから双獅路には大理古城や盆地のペー族の村から婦人たちが集まって、もうもうと煙りが立ちこめ,目が渋くて開くことさえままなりません。上空は紫気に覆われています。



    写真3.地蔵寺で地蔵菩薩の先祖の冥界での加護を願う。


  ここでは線香・紙銭のほか、紙衣・紙靴・紙帽を燃やしますが、野を漂う無縁の霊に祭祀用品がかすめ取られないよう、燃やす際には石灰で円を描いて結界を作り、その中で燃やすことになっています。

写真4.紙銭を燃やす前に石灰で結界をつくり、無縁の亡魂が祭祀品や先祖の生活資金を奪うのを防ぐ。


  今年連れ合いを亡くしたお婆さんが、慟哭して紙銭を燃やしていました。いつきいても悲痛な叫びですが、この時期よく出会います。感情表現が礼儀ともなった慟哭の伝統文化が息づいています。

写真5.今年連れ合いを亡くしたお婆さんは慟哭しながら紙銭を燃やしている。
  本旧暦八月十五日に先祖は冥界に帰ります。朝、前の日の晩に燃やした灰を冥界の管轄神である東嶽大帝(とうがくたいてい)の神廟である東嶽宮の脇に流れる川に流し、流れる灰とともに祖先は帰ってゆくといいます(現在は環境汚染になるのが川に流すのは禁止で、橋の上に置いていきます)。


  郊外のペー族の農村でも、小川に灰を流しています。すべての川は冥界に通じるのです。冥界への道には、途中市場があり、生活に必要なものはそこで買うといわれています。


  大理盆地は東嶽大帝の信仰が盛んで、大理古城では西門外の双獅路(そうしろ)の山側にあります。もう一箇所、洱海(じかい)南側の凰儀鎮(ふうぎちん)という街にもあり、ここは地獄を再現したテーマパークがあって、生前罪を犯した魂が、日々「あべし」「ひでぶ」の責め苦を受けているのです。いずれの東嶽宮も、他の地方と比べて造作は本格的な体裁をもちます。


  その参道では、冥界の生活用品の紙製の衣服や靴、東嶽大帝に死者の加護を願う「疏表」(大理漢語:スービャオ・そひょう)と呼ばれる願文を売る代筆屋や、物乞いたちが列をなして店を出しています。


  願文の代筆屋は、その場で祈願者の名と住所、対象となる先祖の名などを代筆します。老婦人は字が書けない人も多いです。漢字は知識階級が支配の道具として知識を独占するということが原則の中国社会の伝統的なありかたでは、庶民が字を識ることが求められてこなかったので、逆に字を書くこと自体が商売になります。願文は紙函(しかん)に入れられて求める渡されます。一つ1.5元くらいです。

(つづく…全3回)



写真2.東嶽廟脇の参道で紙銭を燃やす。

写真3.地蔵寺で地蔵菩薩の先祖の冥界での加護を願う。

写真4.今年連れ合いを亡くしたお婆さんは慟哭しながら紙銭を燃やしている。

写真5.紙銭を燃やす前に石灰で結界をつくり、無縁の亡魂が祭祀品や先祖の生活資金を奪うのを防ぐ。
お盆終わる(1)─先祖に生活資金と生活物資を送る

  こちら雲南省大理市では、お盆の日程が今日で終わりました。昨夜の旧暦七月十四日に先祖が冥界で使う生活物資と資金を燃やし送りました。


  これを「焼老包」(大理漢語:サオラオパオ・ペー族語:シューローポー)といいます。新盆の死者に燃やし送る日は旧暦七月十四日でこれを「焼新包」(大理漢語:サオシンパオ・ペー族語:シューシーポー)といいます。


 そして翌日の七月十五日の送り出しの日を含めて「焼包節」(大理漢語:サオパオチィエ・ペー族語:シューポー)といいます。あるいは旧暦七月半ばに行う祭祀なので「七月半」(漢語:チーユエパン・ペー族語「チーワーズーシー」)といいます。

      写真1. 先祖に生活資金を焼き送る


  包とは、送り手の子孫の名と、受け手の先祖の名を記した封筒のことで、ここに金銀を意味する色紙の金銀紙や「紙銭」(紙製の模造銭)を入れます。


        写真2. 燃やしたあと先祖に拝礼

 これは直接先祖が受領するのではありません。先祖は昨夜はまだ家に居るのです。燃やした紙銭や家財道具もろもろ(含む紙製携帯電話)は、燃やすことによってみえない世界のものとなり、そして煙とともに冥界の役所「陰曹地府」(漢語:インツァオディーフー)の管轄神である東岳大帝(とうがくたいてい)のもとに送られます。今日先祖たちは冥界に帰るので、その際、東岳大帝の前で、子孫が燃やし送った生活資金や物資を受領するのです。




     写真3. 門外で無縁の霊に施餓鬼をする。
ところで、この家ではお爺さんの代からのしきたりがあって、先祖を迎える日と紙銭を燃やし送る日は、家の門から、先祖の遺影のある母屋中央の部屋「中堂」(大理漢語:ツンタン)まで、線香を挿します。この理由はこの家のしきたりというだけで分かりません。



 
      写真4. 先祖に送る生活資金入り封筒

  子孫たちは先祖の冥界での生活の順調と、子孫たち自身のこの世での生活の順調と、先祖の加護を祈りながら燃やします。誰が誰に対して燃やすのかということははっきりと伝えます。なかには「〇〇の眉毛がこれ以上抜けないように」とか、訳の分からない御願いをしている人もいました。


写真5. 楊家の家系図の最初の頁です。江南地方から軍人として移住して15代つづいています。五品官の家でした。


  燃やしながら盆に入れるものに、おかゆがあります。
これは死者の魂の食事とされていて、神様が白米を捧げるのとは違いますが、ふだんは先祖も白米を捧げられます。「家譜」(漢語:チャープー・ペー族語:ベェージャー)と呼ばれる家系図のある家庭は、祭壇に祖先の牌位とともに家系図を掛け、そのわきで紙包を先祖一人一人に燃やします。燃やし送ると先祖の位牌に子孫一人一人ずつ拝礼します。

最後に門前で自分を祭祀してくれる子孫をもたない「孤魂野鬼」(漢語:グーホンイェクゥイ・ペー族語:イエグゥ)の祭祀をします。施餓鬼です。金銀紙と紙銭と線香を燃やし、食べ物としてはおかゆをあげます。


写真2. 燃やしたあと先祖に拝礼


 
ムアー旧市街(1)(マレーシア・ジョホール州)

沿革

 ムアー(Muar・意味は「河口」・華語:蔴坡・マポー)市街は口を開けた大河口の南岸にあり、対岸はマスジット・スルタン・イスマイル・ムアーの白い塔が川面の浮島のようにみえる。美しい青い川の水がゆったりと流れ、川沿いは川の色と良く合う水色の騎楼が建ち並ぶ。建物は水色・薄紅色・黄色にブロック毎に塗られて美しい修景をしている。

写真1.ムアー河口北岸の美しいイスラーム寺院マスジット・スルタン・
イスマイル・ムアー

 美しい街だが、観光に名が挙がらない。近くのムラカが世界遺産であまりにも有名過ぎるためと、700年以上の歴史のムラカと比べて、歴史が浅いためだろう。しかし食べ物は美味しく、飲茶屋の集まる美食街もあり、魅力的な街だ。

    写真2. 炎天下の五月、川の水の色みたいな日傘がゆらぐ。

 ムアーは別名バンダル・マハラニ(Bandar Maharani)ともいい、これは皇后(Maharani)の街(Bandar)の意味で、2012年以来ジョホール州(華語:柔佛州)の王都である。華語では「香妃城」といい、この名も街中でよく使う。1884年にアブ・バカール王(Maharaja Abu Bakar)はこちらを正式名称とした。 

 ムアーはマラッカ王国がマラッカから駆逐された際、王族がいったんこの地に逃れた土地である。

 今の市街は19世紀後期に、現地の港主(マレー語:Kangchuは華語由来)である林東連(福建出身)が開いた新しい街だ。130年ほどの歴史があり、一帯の土地は胡椒と、阿仙薬(Uncaria gambir・アカネ科カギカズラ属の植物)薬材のプランテーションで入植した華人が多く、交易の集積地と輸出港だった。

写真3. ムアー大河口。海の向こうはスマトラ島。

 港主制度はジョホール州独自の制度で、19世紀中頃から20世紀初頭にかけてジョホール州では、1844年から1917年にかけてスルタン・アブ・バカールとその父であるトムンゴン・イブラヒム・Temenggong Ibrahim・トムンゴンは代官相当・トムンゴン・イブラヒム・1855年にジョホールのスルタン・アリから支配権がイブラヒムに譲渡される)が主に華人の実力者に港湾を請け負わせる港主制度を推し進めたため、多数の港が開港し、多数の華人が入植た。そのためムアーの街は成り立ちから華人街の性格をもつ。


写真4. 華人旅社は倣バロックなのにオーダーの上に薄紅の石獅。川の色がそこかしこに反映されていて,街は陽炎の中で水色でゆらめきたっている。

 港主は司法・商業・金融などの権限をもち、カジノや質屋の経営権や肉類(華人ばブタ肉を食べるのでイスラーム中心のマレー半島で特殊な習俗がある)・酒類専売権を独占し、貨幣の発行も行った。港主のもとで、生活の糧を求めて南洋に渡った華人労働者(いわゆる苦力)も増加し、19世紀末には、ジョホール州の人口は30万人を超え、その三分の二を華人が占めた。


 ムアーは福建南部系が主体の街だが、じつはジョホール州の港主は、ほとんどが潮州系華人で、東海岸の街メルシン(Mersing)が広府系港主と並んで例外だ。市内の福建系会館は、福建会館のほか、漳泉会館がある。人口構成は福建南部系に次いで潮州系が多く、会館ではその他に潮州会館・広東会館・客家公会・永春(福建省永春県・客属が多い地域)会館・(永春県)埔頭林会館・茶陽会館(広東省梅州市大埔県茶陽鎮・客属系)などがある。

 なお、最大の廟は九天皇帝廟だが、これは斗母宮として知られる斗母神・斗父神を祭祀する福建系の廟堂だ。脇の大二爺廟は、冥界の拘魂卒である白無常・黒無常を祭祀し、福建省安渓県を祖籍とする人が祭祀する廟だ。最大の仏教寺院である浄業寺は、福建省莆田県の亀山福清古寺の下院で、福建北部の興化系である。広東系の廟としては観音古寺がある。

 ムアーは華人が多い街であったため、第二次世界大戦時期の日本統治下での華人の被害が多かった街として知られる。




楡城志怪(その2)(ゆじょうしかい)-大理古城の怪奇録


(七)古城北郊某村
 ペー族の村である某村は、朝早く十字路を横切ってはいけない。口の災い(大理漢語:口舌是非・コウセースーフェイ)でもめ事となったりすると、その原因はあらぬ失言をした人の背後に太歳白虎(ペー族語:ターシュワーベーフー・たいさいびゃっこ)という精怪(せいかい)がとり憑いていて、あらぬ事を口走らせたからとされている。それを祓うのには、小麦粉を捏ねて、白虎の像を造り、夜中に密かに十字路に祭品のゆで卵とともに埋めておく。翌朝最初に十字路上の埋めた場所を踏んだ者に太歳白虎は憑いていくといわれる。(川野明正・男・大和族・47・大理市廣武路北段)


 按語:つまり口の災いという不幸が村落共同体をくるぐる循環しているのである。ある種の災いは、共同体内部に一定量しかなく、互いに貧乏くじを引き合うのである。
 太歳は地中の架空の星で、歳星(=木星)の反対の軌道を巡るとされる凶星、白虎は精怪や不吉の凶星とされる。香港では啓蟄の日に白虎が出現するとされるので、その日に白虎を追い祓う儀式をする人が多い。
 この種の転稼による呪術は、旧事「風邪を売る」旨「出賣大傷風、一見就成功」(風邪売ります。読んだら成功)という貼り紙を壁に貼っておいて、読むと風邪が伝染して治るというものがあった(澤田瑞穂、1992年、『修訂 中国の呪法』、平河出版社)。


(八)廣武路北段楊宅の「姑奶奶」
 裏の庭の古井戸に姑奶奶(大理漢語・ペー族語:グーナイナイ)と呼ばれる貴い恰好の小さな老女がいて、石組みの小さな祠があった。トントンと夜ごとに太鼓のような音を立てて歩き回る。四十年ほど前、裏庭で遊んでいる近所の子供が古井戸に小便をしたら、全身に瘡(かさ)が出来た。ただし、そのために2番目の叔父に祠を燃やされて退治されたので、今はいない。叔母が裏庭と隣り合わせに住んでいるが、中年の頃病弱で、なんども姑奶奶をみたから、夕方になると門をぴったり閉めていた。(楊淑萍・50・女・漢族・大理市廣武路北段)

 按語:洱海東岸のペー族の村では、「一つの村に姑奶奶は七人」いなければならないとされている。ガジュマルの大木の樹・古井戸の脇・いばらの生い茂った場所にいるとされている。自然の精怪と思われる。


雲南省保山市隆陽区の「口舌是非」のお札。舌をにょろっと出している。口の災いによるもめ事の原因になる鬼怪で、「白虎」とともに燃やす。


(九)平等路洗濯場
 廣武路の北端の城壁沿いの小川の辺りは大きな石の板があって洗濯の場所であった。父の存命だった頃の話だが、一人の婦人が夜遅くまで洗濯物を洗い続けていたので、ある人が近くによって、なんでそんなに遅くまで洗濯をしているのかと訊いたら、振り返ったその顔は目鼻が亡かった。(話者:趙凰仙・女・漢族・70・大理古城廣武路北段)


 按語:中国で目鼻がなかった話はよくあるが、北京などでは、振り返った正面の顔もお提げだったという話もある。



(十)銀蒼路と廣武路の十字路の西北側の角の石
 この角には、座れるくらいの石が置いてあって、夜誰かが座っている。声を掛けても返事をしないので石を投げたら、忽然と消えた。その石の跡が最近新しくなるまで壁の上に遺っていた。(話者:趙凰仙・女・漢族・70・大理古城廣武路北段)



(十一)銀蒼路下段
 銀蒼路を廣武路の交差点からさらに下っていった辺りは、夕方三人の男が連れ立った人影で歩いているのだが、道の中段辺りで忽然と消えてしまう。(話者:趙凰仙・女・漢族・70・大理古城廣武路北段)



(十二)博愛路と人民路の交差点の槐の大木
 交差点の西北側に大きなうろのある槐(えんじゅ)の木があって、そこに化け物(鬼・大理漢語:クゥイ・ペー族語:グゥー)が棲んでいた。夜幽霊の影をみた人が石を投げると、幽霊はうろに跳び込んで消えてしまう。この話は有名なので大理古城の誰もが知っている。(話者:楊川力・女・漢族・25・大理古城廣武路北段)