世界狛犬ニュース
「ヴェトナム文化省、中国風の獅子像を遺跡エリアから移すよう提案



写真1.ヴェトナム唐獅子のいろいろ
ヴェトナム南部ソクチャン市の潮州系華人墓地内の義安祠の石獅(青獅ですが西向きでした。華人の石獅で緑毛の青獅ですが、どこかヴェトナム化しているようにもみえます)


写真2. 義安祠と左右の唐獅子の配置


写真3.ソクチャン市華人の武聖廟(関帝廟の唐獅子)

  『中国日報』ハノイ9月19日電(記者王健)、ヴェトナムの
Vn Express 8月19日の報道の記事です。下に訳出します。このニュースはヤフーのニュース、国際記事欄にもありました。

 



  ベトナムの遺跡エリアや寺院、公共の場所に中国風や欧州風の石貔貅(ひきゅう・中国古代の瑞獣)・石獅子などが10年前から相次いで出現し、すでに目につくほど広まっていることを受け、ヴェトナム文化省は8日、各省、市の文化局や関連部門に対し、2662号り通知で、「ヴェトナムの純朴な美しい風習にそぐわない塑像や製品、霊異なもの、得体の知れぬ物を設置・使用・祭祀しないよう提案・勧告した。




  さらに文化部は幾つかの省や市で、これらのものを公共の場所、とくに歴史文化遺跡区から取りくよう宣伝・動員を行い、文化局の検査に渡し、もしも違反現象が見つかるなら、処理を進めるとした。



 

  ハノイ市ハイバチュン通り(徴側・徴弐姉妹通り)の黎大幸街の雲湖寺には北京獅子があり、600年の歴史があるコーザイ(紙橋)郡安和坊郎谷街の東廟にも、口を拡げ、尖った爪を踊らせた中国石獅子がいる。ハノイ佳林路の路達夫人寺遺跡区の門前には、ライオン像がある。趙夫人街のたくさんの民宅にも多数の獰猛な石獅子がいる。




   その他の省・市では、ヴィンフック(永福)省のハーザン(河仙)寺や、ダナンの霊応寺に中国・西欧の獅子像があるが、外来の獅子たちは民衆が寄進したものである。




  ヴェトナム国家文化遺産委員会の陳林匾准教授は、「外来文化の影響で、2人のエトランゼに家の門を守ってもらって安心している」とし、

   



  「ベトナムの獅子像は李朝時代に出現した。麒麟のような姿で、体にたくさんの模様がついている。ベトナム人は農民が多く、純朴で善良。そのため、ベトナムの獅子像も見るからに善良でおとなしい。庶民は中国風や欧州風の獅子像がご利益をもたらしてくれると信じ、自宅や寺院で祀っている」と指摘し、「ヴェトナムの獅子像は仏教の力の霊物象徴で、李朝時代に出現した。ヴェトナムの石獅は、麒麟の造形があり、体に多数文様がついている」。





  加えて「ヴェトナム人は農民が多く、純朴で善良である。そのため、文化も温和で婉曲である。だからヴェトナムの石獅子像も外見は善良でおとなしい。庶民は識別能力が低く、中国風や欧州風の貔貅像や獅子像が主人を守り、財産をもたらすと信じ、自宅に買ってきたり、寺院で拝むのだ」と論評している。
                        (以上引用終わり)



出典:「越南官方建議将中国造型石獅子従遺迹区移走」、2014-08-20 09:43:00 
http://www.chinadaily.com.cn/hqcj/zgjj/2014-08-20/content_12230160.html




  狛犬・石獅は国境を越えるジャンプ力がありますから、なにも中越関係が悪化したからといって、撤去までする必要があるかなと思いますし、銀行建築の門前には、三越デパートみたいに西欧風ライオン像が似合うし、道教と大乗仏教は、中国からヴェトナムに来ていますから、その門前に石獅があっても変ではないとだけ、論評しておきます。撤去するには可哀想な中国石獅ももちろんたくさんあります。

  

  記事にはヴェトナム的獅子の写真もあります。佳林路大夫人寺に11世紀から12世紀にかけて造られた、ヴェトナム李朝の石獅が掲載されています。中国宋代に当たり、中国では現在に通じる石獅のスタイルが完成されていますが、確かに姿かたちは違います。両方とも上半身だけ、顔は扁平に近く、双獅とも石を含み、ともに雄獅にみえます。

  確かに素朴な石獅で、中国のものとは違う泥臭さ、オリジナリティーを感じます。


写真4.佳林路大夫人寺の石獅(出典:上記報道記事掲載写真)

 チベットの獅子センゲと「雪獅」─インドのライオン像と中国獅子像の間


  私の住む雲南省大理ペー族(漢字:白族)自治州は、雲南西部で北はチベットで、北隣の市の麗江市はチベット仏教の中国南限(世界的)です。西隣の保山市は南伝仏教の流れの上座部(じょうざぶ)仏教の中国の西限・北限です。

写真1.「雪獅」です。雲南迪慶チベット族自治州松賛林寺(帰化寺)の雪獅(意外なことに赤毛でした)


 大理州は大乗仏教の流れの北伝仏教の聖山鶏足山(けいそくざん)があり、チベット仏教・南伝仏教・北伝仏教と三つの仏教の系統が隣接しています。さすがは「アジア十字路」の一つと思います(自著宣伝:川野明正『雲南の歴史─アジア十字路に交錯する多民族世界』白帝社、2013年←済みません。出版社に恩があるのです・笑)


  チベット仏教の寺院によく描かれる「雪獅」(せっし・雪獅子・スノーライオン)は、白身白頭緑毛(または青毛)の獅子です。チベットでは獅子は「センゲ」(sengge)といい、よく人名にも使われます(注1)。

写真2..雲南迪慶チベット族自治州東竹林寺の桁上の雪獅(向かって左・真ん中の宝石印を夾んで向かって右はガルダらしい・チベット仏教のガルダは角が生えていたり、腕が太く描かれる)

   写真3.モンゴル国ウランバートル市の紋章のガルダ(出典:Wikipedia「ガルダ」)

  雪獅は、チベット語で「ガンス・センゲ」(gangs sengge)といいます。

  雪山(せつざん)に棲み、山と山を飛び移り、東方や北方のシンボルです(青=緑は中国の五行説でも東方のシンボル)。いわゆる「獅子哮」(ししこう)である咆哮(ほうこう)が仏教の「空」(くう)でもあり、仏法と同義だそうです。仏座に彫られたり、寺院前に置いたり、チベット軍旗に始まる「雪山獅子旗」(せつざんししき・中国国内は掲揚できない)は、旭日が頂上に昇る雪山に三宝(仏・法・僧)を象徴する宝石の左右に一対の雪獅を描きます(注2)。

写真4.チベットの雪山獅子旗(出典:Wikipedia「チベットの旗」)

写真5.雪獅(出典:Wikipedia「スノー・ライオン」)


 雪山獅子旗も三宝を双獅が守っていますから、双獅が狛犬的位置づけにありますね。雪獅は二頭組になることも多いですが(ポタラ宮前雪獅)、単獅で一頭だけというのもあるようです。青木文教が狛犬的観念をもちこんだとしたら面白いとちょっと思いますが、双獅の観念は、たしかにもともとチベットにもあります(注3)。


  雲南西北部の迪慶(チベット語:デチェン・てきけい)チベット族(漢字:藏族)自治州にある松賛林寺(帰化寺・黄帽派)の壁画は、雪獅は紅毛の獅子像で、雪山を背景に描かれていました。チベットの獅子はこの他に紅毛の藍獅も、雪獅とともに描かれることがあります。


  雲南迪慶チベット族自治州の東竹林寺(黄帽派)の桁上の雪獅は向かって左に、真ん中の宝石印を夾んでガルダらしき像と対になっていました。チベット仏教のガルダは角が生えていたり、手があって太く描かれたりして、独特の形をしています(羽根が下から眺めるとみえない)。緑毛の雪獅と黄毛のガルダ(インド由来の神鳥)が組で鎮座していました。


  チベットの雪獅は中国的な「獅子」(シーツ・Shizi・しし、日本でいう「唐獅子」・からじし))にも似ています。チベット仏典はサンスクリット語仏典から直接訳していますが、チベットに仏教が入ったのは7世紀前半で、日本よりも遅いでから(6世紀に伝来)、中国の方がはるかに早く(1世紀に伝来)、中国から獅子のイメージが入っても不思議ではないです(ポタラ宮の前の左右一対の石獅(せきし)は、中国的な石獅と似ています)。


  しかし雪獅の原形はより直接的にはチベット仏典の獅子像に由来すると思います。


  北伝仏教の漢訳仏典では唐代の阿地瞿多(あじくた)訳『陀羅尼集経』(だらにじっきょう)に「身は皆白色、獅子に乗ず」とあり、日本でも平安時代に獅子に騎る「騎獅文殊菩薩像」が定着します。獅子は百獣の王で、最高の智慧を象徴します。奈良県桜井市安倍文殊院の騎獅文殊菩薩像(国宝)は、高さ7mもあり、仏師快慶が1203年に作ったものです。

写真6.快慶作[騎獅文殊菩薩像」
(出典:安倍文殊院HP )http://www.abemonjuin.or.jp/treasure.html

  チベット仏教で文殊菩薩であるマンジュシュリ(Manjusri)はチベット仏典でも北伝仏教の文殊菩薩同様に、獅子に騎って描かれることがあります。ねずてつや氏の『狛犬学事始』(ナカニシヤ出版、1994年)でも取り上げられ、掲載図はチベット仏典のマンジュシュリで、獅子に騎ります(同書195頁)。墨摺なので色のイメージが分かりませんが、背景の山の描き方など、すでに雪獅と思われるイメージもみられます。


 写真7.チベット仏典のマンジュシュリとセンゲ(出典:ねずてつや著『狛犬学事始』ナカニシヤ出版、1994年:195頁)
 
  
  チベットの雪獅は、狛犬みたいに犬のようだといわれることもあります。じつはチベット犬であるアプソ=セン=カイ(Apso Seng Kyi・英語のラサ・アプソ=Lhasa Apso)が、頭部の形や体型が雪獅と似ているとよく言われます。これはたまごが先かにわとりが先かという話にも似ていてます。みなさんは写真と見比べてどう思いますでしょうか。

                   写真8.チベット犬ラサ・アプソ (出典:Wikipedia・“Lhasa Apso”)

  しかし雪獅とチベット犬は、繋がらないかも知れません。犬は犬でまた別に品種改良の歴史があります。ちなみにラサ・アブソは、中国犬のシーズーに影響を与えていますが、シーズは「獅子」(Shizi)のことで、品種として中国に至って文字通り「獅子犬」になっています。チベットの雪獅とチベット犬との関係は一つのテーマであるものの、切り離して考えることも一つの考え方でしょう。


  チベットのセンゲと隣接して、チベットの西隣のネパールに、これまたインドやオリエントの影響を受けた独特な獅子像があり、ネパールのチベット仏教とともに、チベット独自のネパール仏教もあります。


  ネパールの獅子像もチベットの雪獅と巻き毛や体格など似ているものもあり、あるいはオリエントからの流れか羽根が生えたものもあります。中国の獅子像とともに、ネパールの獅子とも比べる必要があります。しかし世界的・アジア的な獅子像の系譜を知るのに必要な、荒俣宏(文)・大村次郎(写真)『獅子―王権と魔除けのシンボル』(集英社・2000年)が手元にないので、いまは触れません(海外辺地在住なので,入手に3週間必要・笑)。


  雲南西北部のチベット系の民族、ナシ族(漢字:納西族)やペー族(漢字:白族)には、家宅の門扉に置く門枕石の石獅像が、中国の一般的な石獅とはかたちが違うことも多くあり、独特のスタイルがあります。ボン教や密教などの影響もあり、チベット的なセンゲの流れも考慮しないといけないです。


  チベットのセンゲは、外観はインドライオンが実際に棲息しているインドのアショーカ王柱柱頭に描かれる写実的なライオン像である「シンハ」(サンスクリット語:Singha)よりも、中国の獅子のイメージに近いですが、しかし言語的にはセンゲはシンハから来ているはずで、インドと中国の間の中間的な位置づけから、チベットのセンゲをどう考えるかが一つ課題でしょう。中国の獅子だって「獅」(当初は「師」を当てた)の発音は「Shi」ですから、サンスクリット系の音を当てたのでしょうから。

写真9.インドの国章(アショーカ王柱頭の四獅子が原図)(出典:Wikipedia「インドの国章」)


注釈:

注1.=たとえばセンゲリンチンは「獅子宝」の意味。センゲリンチン=1811-1865・ホルチン左翼後旗の人。太平天国鎮圧・アロー戦争・捻軍(ねんぐん)鎮圧などに活躍した清朝のモンゴル族の将軍。

注2.=チベット軍旗である「雪山獅子旗」は、1910年代にチベットに滞在した青木文教〈1886-1956・滋賀県の人〉がチベット軍官と相談して作ったものとされる。

注3=雪山獅子旗の制定には、たぶん青木文教だけではなく、軍事顧問の矢島保治郎の二人がかかわっていると思うのですが、日本の狛犬の観念をチベットに持ち込んだとしたらどうなんだろうと思います。無意識に狛犬を反映しているところがないとはいえないです。 
   雪山獅子旗の雪山頂上の旭日は、日本の旭日旗を参考にしています。
   ただ、旭日の意匠そのものが、仏教では多用される意匠で、上座仏教寺院でも入母屋式屋根の羽目板は、ほとんど旭日意匠ですので、双獅の意匠も、チベットにもともとある意匠であるとはいえます。二つの地方の意匠が、うまく重なっていると解釈できる部分もあると思います。

写真1.雲南迪慶チベット族自治州松賛林寺(帰化寺)の雪獅(意外なことに赤毛でした)
写真2..雲南迪慶チベット族自治州東竹林寺の桁上の雪獅(向かって左・真ん中の宝石印を夾んで向かって右はガルダらしい・チベット仏教のガルダは角が生えていたり、腕が太く描かれる)
写真3.モンゴル国ウランバートル市の紋章のガルダ(出典:Wikipedia「ガルダ」)
写真4.チベットの雪山獅子旗(出典:Wikipedia「チベットの旗」)
写真5.雪獅(出典:Wikipedia「スノー・ライオン」)
写真6.チベット仏典のマンジュシュリとセンゲ(出典:ねずてつや著『狛犬学事始』ナカニシヤ出版、1994年:195頁)
写真7 .「快慶作騎獅文殊菩薩像」
(出典:安倍文殊院HP )http://www.abemonjuin.or.jp/treasure.html
アプソ=セン=カイ

残虐!! 成都の「死ね死ね団」伝説─張献忠と「七殺碑」


  清末のジャーナリスト傅崇矩著『成都通覧』(1910年の著)は、外地の人向けの成都生活案内書で、森羅万象すべてを記した成都百科事典です。「成都之怪談」の条は、民間信仰に関わるとても奇妙な「べからず集」で、これも生活指南の一部だから面白いです。



写真:
張献忠家廟内の張献忠像(四川省北部綿陽市梓潼県七曲山大廟後聖宮傍風洞楼内)(出典:HP『相動百科』「張献忠家廟-位置簡介」)
http://www.baike.com/wiki/张献忠
家庙

 


  その中に「成都県の張献忠の書くところの〈七殺碑〉は拓本をとるべからず」との、奇妙な一条があります。

  張献忠(ちょうけんちゅう・1606-1646)は、明末清初に大西(だいせい)を号した流賊です。陝西延安衛の出身。反乱軍の首領の高迎祥(こうげいしょう)の下に投じ、李自成(りじせい)とともに反乱軍を率いました。

  しかし、李自成が1644年北京を占領して大順(だいじゅん)を国号とすると、天下統一の名目を失って、武漢・成都と、本拠地を移し、清朝との対峙と陝西への帰還をもくろみます。最終的には清軍に敗れて射殺されます。

  

  張献忠は、四川統治の期間、内部引き締めで多くの臣下を粛清し,やがて自分の物は自分で壊すという奇妙な決意をして、四川の領民を虐殺して流血の無人の野とした人物です。

  民心を失った人物ですが、それ以上に民衆が逃散してしまうという、四川で破れかぶれの大虐殺をつづけた人物として知られます。魯迅も取り上げて「殺人のための殺人」と揶揄する人物です(「晨涼漫記」『准風月談』『魯迅選集』第10巻)。


  臣下も良民も麻を断つかのごとく殺しまくる張献忠と、彼の率いる大西軍が世にまれに見る「死ね死ね団」と化していたのです。


  中国史にまれに見るその暴虐ぶりは、清初の彭遵泗著『蜀碧』(平凡社の東洋文庫にあり)に記されていますが、うわさや伝聞も含んでいます。その後の張献忠の残暴ぶりが喧伝される背景には、清代に清軍の四川占領のあとの虐殺も張献忠の所為にした部分もあるでしょう。その経緯は、浅見雅一氏の論文「教会史料を通してみた張献忠の支配」がもっとも正確な研究と見解ですので一読お薦めします(『史学』第五十九巻第二・三合併号、1990年)。


  松枝茂夫先生の訳で少しその暴虐ぶりを引用してみましょう。気分が悪くなりますよ。

  「また偽って武科挙を実施した。このとき、民間で馬を養うことは禁止されていたが、集まった武生を馬場に集合させると、もっとも兇猛な軍馬ばかり千余頭を引き出して騎乗させた。そして武生たちが馬にまたがるや、兵士たちがどっとはやしたて、大砲を打ち、銅鑼太鼓を打ち鳴らしたので、馬は狂奔して、乗手を振り落したうえ、泥となるまで踏みにじった。これを見て賊は手を打って大笑するのであった」。

  「太医院に古くから伝わる銅人(針灸の基本となる経穴の小孔をうがったブロンズ製の基準人体模型)があったが、賊は紙をかぶせて穴を隠し、医師たちを集めて針術の試験をした。そして一針でも刺し違えた時はその場で殺したので、医者はたちまち死に絶えてしまった」。

  話を戻して「七殺碑」とはなにかというと、この名は、魯迅も書き記す「殺殺殺殺殺殺殺」の七つの「殺」(殺せ)文字を記した殺人起請文のようなものだと、民間では考えています。つまり一種の「死ね死ね団」伝説で、七殺碑だから縁起が悪いので、拓本を採っては血塗られると考えられているわけです。



  じつはこれは大西皇帝の張献忠の発布した民を教化するための聖諭(せいゆ・皇帝の勅諭)で、「人無一物与天、鬼神明明、自思自量」(人は一物として天に与るはなく、鬼神は明明として、自い思い自ら量るべし)を石碑にして官署(かんしょ)に石碑を立てたものです。



  1934年に、イギリス宣教師が四川の成都東北方の広漢でこの碑文を発見していますから、元はれっきとした民衆教化の碑文であったことは確かです(著者未記載「張献忠“屠蜀”的真実真相:七殺碑背後的争議」
2007年2月6日HP『歴史的天空』原載、China.com転載テクス)。


  しかし民間ではこれを虐殺の忌まわしい記憶と結びつけて伝説化しています。



   伝説化した文面は以下の通りです。


   「天生万物與人、人無一物与天、殺殺殺殺殺殺殺」
(天は万物と人を生み、人は一物として天に与るはなく、殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ)

  これは張献忠の殺人正当化のイデオロギーとして理解されていて、「創造主の天が万物と人に恩恵を与えているのに、被創造物の人間は無駄に天に対して貢献しないから、殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ・・・」というスローガンとして訳することができます。

  七字の「殺」字を連ねた部分は、中国対句の対聯の形式で、上の句「天生万物与人」、下の句「人無一物与天」として、その題記である「横披」を「殺殺殺殺殺殺殺」としたのだという風聞もあって、そう考えると体裁は納得できます。

  当時の成都の宣教師は、大西軍が領民を殺し尽くして屍体に溢れ、無人の野になったことを報告しています。(イエズス会宣教師ガブリエル・デ・マガリャンイス(Gabriel de Magalhāes、漢名:安文思)がローマに書き送った1647年5月18日付の報告書)。

  大西皇帝の張献忠と、大西軍が中国にまれに見る「死ね死ね団」で、内部崩壊必然の殺戮をしたらしいことは事実のようです。

  「四川の人間はまだ死に尽くしておらぬのか。おれが手にいれたのだから、おれが滅ぼしてしまうのだ。ただのひとりでも他人のために残しておきはせぬぞ」(『蜀碧』松枝茂夫訳)というゆがんだ心性がもたらし、誰も制止する者がいない、組織内とその統治下での内向した殺人の連続は、事の性格は違いますが、日本でも連合赤軍の内向きな粛清事件がありますが、そうした心性のありかたともどこか通じるかも知れないですね。

  ちなみに人々が殺されるか逃散して、無人の野と化した四川を復興すべく、清朝は四川への移民を奨励します。ですから、四川は清代以降の新しいフロンティアであった面もあります。

  四川方言が新しい移民の共通語としての性格をもつのはそのためです。

  このとき、長江南部の江西省などの内陸部から移民してきた人たちで、江西人や客家人が四川各地に多いのはそのためです。鄧小平主席や朱徳元帥の先祖もそうした移民です。

参考文献 

傅崇矩(著)『成都通覧』成都・成都時代出版社、2006年

彭遵泗・王秀楚・朱子素(著)・松枝茂夫(訳)1965年『蜀碧・嘉定屠城紀略・揚州十日記』平凡社

魯迅(著)・増田渉・松枝 茂夫・竹内 好(編集・翻訳)1956年『魯迅選集』全13巻、岩波書店 

浅見雅一(著)1990年『教会史料を通してみた張献忠の支配』『史学』第五十九巻第二・三合併号http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=59260

Archivum Romanum Societatis Iesu,Jap.Sin.127,ff.1-35.Relação da perda e destruição da Provincia e Christandade de Sù chuēn,e do que os Padres Lus Bulhio,e Gabriel de Magalhães passarão em seu captivero. (上記浅見雅一氏が引用する原文)

著者未記載「張献忠“屠蜀”的真実真相:七殺碑背後的争議」
2007年2月6日HP『歴史的天空』原載、China.com転載テクス
http://culture.china.com/zh_cn/history/yeshi/11036692/20070206/13923933.html


ムアー旧市街(2)(マレーシア・ジョホール州)

街並構成

 ムアーの街並は、ムアー川と平行に華語の「大馬路」(華語:ダーマールー・馬路は大通りの意味。馬車道の意味がある)から五馬路、ひいては六馬路まである大きな街で、これが旧市街エリアだ(六馬路は関帝廟のある辺りで、ムアー川岸から相当離れている。そのため市街中心は大馬路から五馬路までといえる)。

写真1.ムアー旧市街

 川岸の大馬路は華語で海乾街(華語:ハイチィエンチィエ)といい、乾物街の意味がある。


写真2.ムアー旧市街

 それぞれの馬路に、華人の各族群の会館がある。市街中心には広東系の飲茶店があり、マレーシア華人にしかない焼き蒲鉾の名物料理オタオタも、じつは蔴坡の名産である。


地図(拡大してご覧ください)

 しかし残念なことに1914年に大火災があり、現在遺る古い建築物は1915年以降1930年代にかけて建造されたものだ。実際建築物の表記で最古の建物は1915年の学校建築であった。

写真3.漳泉公会の楼閣部分
 
 ジョホール州の王都らしく、街の西側は王宮など、王室用地や、マレー人の集う一般ムスリムのマスジットであるマスジット・ジャメがある。

写真4.広東飲茶屋

 五馬路南側奥にある斗母宮(北斗・南斗の母)は、福建南部華人系の代表的な廟堂であるが、敷地内にヒンズー教のブラフマー(梵天)像があり、さらに福建南部の村落神である五人の村神である五営将軍の祠もある。

写真5.斗母宮のブラフマー様


街であるにもかかわらず、五営祠の祭祀があることが注目されるが、東西南北中方ではなく、一箇所に五営将軍の頭部のみを祭祀する。布袋戯人形の雰囲気がある。


写真6.五営将軍


注・オタオタ=海峡華人料理の代表的なもので、かまぼこに同じ。かなりコクがあって甘みもあり美味しい。マレーシア練り物系の雄といえる。2.2リンギ。

写真7.ムアー名物オタオタ



タイ王国チェンマイ、ワット・プッパラムの狛蜥蜴(こまトカゲ)


フェイスブックの「狛犬さがし隊」8月12日藤田智久さん投稿の、チェンマイ郊外ステープ山の   狛蜥蜴の記事を拝見して、チェンマイの他のお寺にあるのも、トカゲかも知れないと思うものがありました。藤田智久さんの投稿のものは左右阿吽で、しかもリアルな蜥蜴でした。
https://www.facebook.com/groups/167114456679444/744884278902456/?notif_t=group_comment_reply

                         写真1.狛蜥蜴(金)

  チェンマイ旧市街東側のターペー通り沿いにあるワット・プッパラム(Wat Bubparam)の木造寺院の前にある神獣が、シンハ(獅子)でもナーガ(龍)でもなく、なんだろうと思いましたが、トカゲ(タイ語チーンジョッ)が原形かも知れませんね。シンハの一般的な形象とは明らかに違うようにみえます。

                       写真2.狛蜥蜴(金・銀)

  どうも尻尾の形とかうろこを見ると、そんな感じがします。

       写真3.ラーンナー木造様式の寺院と狛蜥蜴。小さな狛タイ人もみえます。
  
  金銀2匹で対という観念があることが窺われます。この事例は向かって右側が金ですが、ナーガでは反対の金銀の組み合わせもあるので、左・右の配置秩序はあるのかどうか不明です。


写真4.フランス図像学のページにワット・プッパラムの新寺院の写真があり、金の狛ナーガと銀の狛さんが組になっていました。

図像引用元 HPENCYCLOPÉDIE UNIVERSELLE DE LA LANGUE FRANÇAISE(©)
(フランス語によるユニバーサル百科事典)
 
http://www.encyclopedie-universelle.com/beatus-liebana17.html

   じつはどちらもほぼ同型で、阿吽でないところが残念です(阿吽は寺院門前のヤックの場合にはあるようですが、阿吽でないものもあります)。方角は南向きです。同種のものは他にもみられるようですので、「狛蜥蜴」みたいなジャンルは上座部仏教ではやっぱりあるのかなと思いました。



  両生類系は、ナーガ(龍)とは水の物と鱗などで通じ合いますから、相性もいいと思われます。

   


  寺院門前に5頭など奇数複頭のナーガを左右に配することが、上座部仏教寺院ではありますが、予想できるのが、狛蜥蜴の口に狛蜥蜴が入り、その狛蜥蜴の口に複数頭の狛ナーガが顔を出すという組み合わせで、この種の「入れ食い繋がり形」の狛蜥蜴+狛ナーガも捜してみようと思います。


  
  オマケですが、ワット・ブッパラムはチェンマイ華人街に近いので、狛蜥蜴様の前には狛唐子(からこ・Yukiko Takeharaさん命名)がおられました、こちらは木牌が金銀魚で対です。

                 写真5.狛唐子(童男…向かって右)

                 写真6.狛唐子(童女・向かって左)