「楡城志怪」(ゆじょうしかい)─大理古城の怪奇録(その1)

解題:
 「楡城」(ゆじょう)は大理古城の別称。雲南西部大理盆地洱海(じかい)西岸部にある。唐代の南詔国と宋代の大理国の王都の地である。明代に築城されて以来中央朝廷の地方防衛の拠点で、漢人の駐屯兵の末裔が多い街である。


雲南省保山市隆陽区の「口舌是非」

 古城城内とともに郊外は南門外の南門外が漢族が多いほかは、ペー族(漢字表記:白族)が多く、イスラームのホイ族(漢字表記:回族)の村も多い。ペー族は漢・チベット語族の民族で、大理盆地の平地耕作民である。

 志
怪とは、{不思議を誌るす}の意味で、脚色を排して淡々と不思議事を記録する中国の記録文学ジャンルである。魏晋南北朝期以来清末まで、多数の著作がある。

 

雲南省保山市隆陽区の「白虎」。「口舌是非」とともに口の災い祓いに燃やす。

 今は旧暦七月の亡魂の帰宅する「鬼節」(きせつ)なので、夜の夕涼みに怪談ばなしを訊いてみた。テレビのない頃は、「講故事」(大理漢語:ジャンクーシー)といって、よく隣近所集まっていろいろな話をしたものだ。

  
 なお、編者は私である。

(一)東岳廟前の川
 冥界の管轄神である東岳大帝を祭祀する東岳廟前の川は、お盆が終わったあと、先祖に燃やす灰を川に流して、先祖はその流れを伝って冥界に帰るとされている。今から二十年ほど前ある年、その橋でペー族のお婆さんたちをたくさん載せたトラクターがひっくり返ってたくさんの方が亡くなった。ここは事故多発地帯で、事故死すると魂がその場に留まるため、自分の身代わりに誰かを事故に遭わせて入れ替わりにしないとあの世にいけないといわれている。(川野明正・男・大和族・47・大理古城廣武路北段)

 按語:東岳廟は冥界の入り口である。夜真っ暗な中で自転車を走らせていると、とつぜん白い麻の喪服と帽子を被った人たちが声を上げて泣いているのに出会う。朱に塗られた蓮華断面の棺桶が白いテントから顔を出している。事故などで異常死した者は古城内の自宅で葬式ができないので、冥界に近い東岳廟の前の参道で葬儀をする。

(三)西門村の幼児墓地
 夭折した者は、先祖の墓所に埋葬してはいけないので、西門村に夭折者専用の墓地があった。夜墓所の近くを通ると子供の泣き声がするのだが、捜しても姿はない。西門外に幼児の墓所があるのは、東岳廟の近くだからである。(話者:趙凰仙・女・漢族70・大理古城廣武路北段)

(四)旧東城壁貯水池の蛇
 昔の東城壁にある北側の貯水池辺りで、父の知り合いが夜中に大小の蛇がたくさん集まっているのをみた。大小数え切れない数で、シューシューいっている。やがてその蛇たちは列になって西門外の蒼山まで這い上がっていくのだった。それをみた知り合いは病気になって死んでしまった。(話者:趙凰仙・女・漢族・70・大理古城廣武路北段)

 按語:大理では蛇は良くないという話ばかりで、「見蛇不殺三分罪」という諺があり、「蛇をみて殺さないのはちょっとした罪」といい、かならず殺さなければいけないという習慣がある。この習俗は珍しいが、額に赤い模様のある蛇は殺してはいけない。

(五)玉洱路と廣武路の交差点
 鬼節(お盆の旧暦七月)、留学先から一時帰省している筆者の姪が夜に友達と一緒に家に帰ろうとすると、十字路脇の家から初老のお婆さんが冬の綿入れを着込んで、なにやら大きな布鞄をもって家から出ようとしている。精神を病んでいるところがあって、いつも門の敷居の辺りに座ってうつろな目で見ていたお婆さんであったが、今日は自分でどこかに行こうとしているらしい。家に帰って姪がそのことを告げたが、不思議なことである。そのお婆さんは二ヶ月前に糖尿病が悪化して急に亡くなったばかりなのである。(川野明正・男・大和族・47・大理市廣武路北段)
 
 按語:2014年8月6日の話である。

(六)廣武路北段楊宅の「姑奶奶」
 裏の庭の古井戸に姑奶奶(大理漢語・ペー族語:グーナイナイ)と呼ばれる貴い恰好の小さな老女がいて、石組みの小さな祠があった。トントンと夜ごとに太鼓のような音を立てて歩き回る。四十年ほど前、裏庭で遊んでいる近所の子供が古井戸に小便をしたら、全身に瘡(かさ)が出来た。ただし、そのために2番目の叔父に祠を燃やされて退治されたので、今はいない。叔母が裏庭と隣り合わせに住んでいるが、中年の頃病弱で、なんども姑奶奶をみたから、夕方になると門をぴったり閉めていた。(楊淑萍・50・女・漢族・大理市廣武路北段)
 
按語:洱海東岸のペー族の村では、「一つの村に姑奶奶は七人」いなければならないとされている。ガジュマルの大木の樹・古井戸の脇・いばらの生い茂った場所にいるとされている。自然の精怪と思われる。


馬祖北竿島天后宮の石獅と魚形落水口─その2.台湾馬祖諸島北竿郷坂里村


 北竿島の坂里村の天后宮は、道光年間(1821-1850・推定年代は1835年)の創建で、1983年に再建されています。白浜の上に忽然と姿を現す黄色いお宮です。ここには正面に緋鯉らしき落水口があります。



 こちらの天后宮は前方に突きだした側壁の封火墻(ふうかしょう)がまるでジャンク船のような印象を与えますが、上面左右に媽祖さまの使いで下界の航海安全を巡察する千里眼(せんりがん)・順耳風(じゅんじふう)の2位が堂々と立っています。

           写真1.坂里天后宮



    坂里天后宮の順耳風・千里眼と魚形落水口

 正面壁面の緋鯉ですが、この種の魚形地落水口を現地の用語では「鯽魚嘴」(チーュィーズゥイ・そくぎょし)といいます。鯽魚は鮒の意味であるものの、鮒のはずはありません。黄色い魚は鯉らしいです。芹壁村の海賊屋敷「義民居」(ぎみんきょ)は、漆喰製の白魚が側壁上面に泳いでいます(前記事で掲載しました)。


 対岸の福建北部連江県と長楽県辺りではではこの魚形落水口が民家の壁面によくみられます。こちらは頭を下にした垂直形もあります。


連江県定海古城の民家の落水口(右)


連江県定海古城の民家の落水口(左)

福建省南部の泉州市では陶製の金魚形の落水口があります。私がみたものは単独で対ではありません。その先に樋がついています。泉州市は民家門上の魔除けの獅子も陶器だったりします。



泉州市の明代の思想家李卓吾宅北隣の民家上の陶器製の金魚形落水口です。これは単独で対ではありません。その先に樋がついています。泉州市は民家門上の魔除けの獅子も陶器だったりします。


 青白岩の石獅は雄雌ともに鞠をもち、雄獅は手巾(手拭い)に銭形2枚、雌獅は子獅がいて、鞠は銭形になっています。


          坂里天后宮石獅

この天后宮横の小祠は「老堂公」(ろうどうこう)を祭祀し、夭折した幼児の霊を祀り、夭折したためにあの世にいけずに野を漂う孤魂野鬼に香火を供養する場所です。こちらの門前に石板に刻んだ双獅があり、左右対称に几帳面に彫られていますが、身体に火炎模様があります。


    坂里天后宮脇の老堂公祠と双獅石板

写真1.北竿坂里天后宮

写真2.坂里天后宮石獅

写真3.

写真4.坂里天后宮脇の老堂公祠と双獅石板

写真5.対岸の連江県定海古城の民家、魚形落水口がみえる。

写真6.定海古城の民家正面壁の魚形落水口(向かって右)

写真7.定海古城の民家正面壁の魚形落水口(向かって左)

写真8.泉州市の明代の思想家李卓吾宅北隣の民家上の陶器製の金魚形落水口です。これは単独で対ではありません。その先に樋がついています。泉州市は民家門上の魔除けの獅子も陶器だったりします。

写真9.オマケに馬祖諸島の国民党の政治スローガンを載せておきます。

馬祖北竿島天后宮の石獅と魚形落水口─その1.台湾馬祖諸島北竿郷芹壁村

 

 馬祖北竿島の芹壁村(きんへきむら)の曲がりくねった石畳みの道筋の左右の石積の家並には、壁面に「反攻大陸」(大陸に反攻せよ)「争取最後的勝利」(最後の勝利を勝ち取ろう)「消滅朱(徳)毛(沢東)漢奸」(朱徳・毛沢東の中国人の裏切り者を消滅させよう)とかのスローガンが描かれていて、大陸からの旅行客が苦笑せざるを得ない一種の「冗談」と化しています。

 
           写真1.国民党のスローガン

  その最上部に天后宮が位置するのですが、石獅は珍しい緑獅でした。

 写真2.芹壁天后宮の門口石獅(一頭しか写真ないです。すみません)

  そこから天后宮までの欄干の上には無数の石造りの蛙がいます。天后宮には、媽祖さまの他にも臨水三夫人(陳・李・林諸夫人)・威武將軍・通天府二郎神・鉄甲将軍が祀られます。鉄甲将軍は、私塾の先生が孔子を祭祀したら、蛙が祭卓に跳び上がり、捧げ物の高梁酒を酒杯を持って呑んだことから神に祀られたと伝えます。鉄甲将軍という名の通り、じつは兵隊をもっていて、海賊の襲来を防ぐ戦神なのです。福建省長楽県には蛙神の信仰があり、村の住民の先祖も長楽県の家が多いので、それと関係がありそうです。

 

          写真3.芹壁天后宮の石蛙

  天后宮は同治十二年(1873)の初建です。1957年に国民党軍の軍隊を動員して再建しています。正面が凸型の馬頭墻(ばとうしょう・上部を凸形あるいは凹形に突出させた切妻壁面)で、家屋側面を馬頭墻とする中国南部でよくみるタイプとは違います。 


           写真4.芹壁天后宮正面

  じつは側面も五行説の「火」形に広がる大きな馬頭墻で、「封火墻」(ふうかしょう)といいます。防火壁機能が際立ちます。封火墻は対岸の福建東部沿海部によくみられる民家の一大特徴です。


  前面凸形馬頭墻と側面封火墻の廟堂(びょうどう・中国式祭祀施設)の様式は、南竿島東北の復興村(旧牛角村)の牛峰廟や、北竿島の坂里村天后村にも共通し、南竿・北竿両島で共通した廟堂の様式を確立しています。


 芹壁村天后廟の石獅は向かって右の雄獅が珠を含んで鞠をもち、向かって左の雌獅は邪獣を前足で握りつぶしています。台座正面は、八人の仙人である八仙(日本の七福神みたいなもの)を象徴する暗八仙人の図案です。

          写真5.芹壁天后宮正面の石獅

  正面左右上部の壁面には黄色い魚が長いひれを浮かせて泳ぎ、これは火伏(ひぶせ)も兼ねた魚形の排水口です。福建南部や台湾でみかける鰲魚(ごうぎょ)の落水口とは違います。漆喰製です。現地では「鯽魚嘴」(チーュィーズゥイ・そくぎょし)というのですが、鯽魚は鮒を意味するのですが、鮒にはみえません。鯉かなと思います。.先日御紹介した芹壁村義民居にも漆喰製の鯽魚嘴があります。

 
    
写真6..芹壁天后宮の「鯽魚嘴」(向かって右

   写真7.芹壁天后宮の「鯽魚嘴」(向かって左)

   写真8.芹壁義民居の「鯽魚嘴」(向かって左の側壁)

参考文献:
游桂香(主持)2008年『97年度連江県民俗及有関文物普查計画 (信仰、生命禮俗)』、連江県、連江県政府文化局
陳朝興(著)1999年「馬祖閩東建築及聚落的初步研究─以芹壁村田野資料為例」、『第一屆馬祖列島発展史国際学術研討会』、連江県、連江県政府

客家人の出稼ぎ港町の石獅(広東省梅江市大埔県三河壩老街)

広東省の東部は、福建省の西部や江西省とともに客家人の居住地で知られています。東南アジアや台湾・四川にも進出し、鉱山採掘や商業を生業にすることが多い人たちです。官僚や教師になったり、勉強熱心でも知られています。


写真1.雄獅


           
写真2.雌獅

東南アジアに出稼ぎに行くことを「下南洋」(漢語:シャアナンヤン・南洋下り)といいますが、内陸部に住む客家(ハッカ)の人たちが海に出るためには、著名な港湾都市である汕頭(漢語:シャントウ・すわとう) まで韓江(かんこう)の水運で下ります。

三河壩(漢語:サンチィアバー・さんがは)という街は、韓江の起点です。三河の名は、梅江(ばいこう)・汀江(ていこう)・韓江を指します。広東省の紫金県から流れる梅江と、福建省内陸部の武夷山脈の南部から流れる汀江が合流して、韓江となります。


  写真4.堤防から老街と梅江方向を望む。夏らしい強い日差し。

梅江には広東客家の出身地として有名な梅県などがあり、汀江には著名な華人の故郷、である長汀県汀州鎮もあります。三河壩のある大埔県も著名な僑郷(きょうきょう・華人の故郷)です。

ですから三河は物資の集積地と、南海に出るジャンクションとして賑わっています。宋代には塩政の役所があり、食塩の備蓄と販売で市を成しています。明代の16世紀半ばには、「小潮州」とも呼ばれています。中華民国期には300軒もの店舗を数えます。

三河壩の石獅(漢語:シーシー・せきし)は、川沿いの合流点にあります。梅江と韓江の接する南岸にある埠頭街である老街(オールド・タウン)の東側を守ります。堤防上に忽然と現れ驚きましたが、埠頭への道を守るのかも知れません。

向かって右側の雄獅は蹲踞して口に玉を含んでいます。雌獅の方は寝そべっています。両者とも目は大きいですが、風雨で傷んでいることもありますが、細かい線条はみられず、簡潔に丸みを帯びていて、表情が金門島の風獅爺(ふうしゃ)に似ている雰囲気もあります。

雄獅は牙も剥きだしで、両頬も突き出し、眉も隆起していますが、雌獅はつるんとしたなめらかな雰囲気で、ごてごてしていないところがいいです。客家居住地の石獅は、福建・広東の石獅のありかたを探るヒントになりそうです。

 狛犬さがし隊のTaniguchi Teizoさんの御指摘では、東京都港区の承教寺の謎の狛犬のように、蹄のようにみえるとのことでした。それとは雌の方は蹄っぽい表現をしていて、髭も似ています。

じつは水辺に水を鎮める呪物としておいてあるなら、獅子を置くかなあという気もします。神獣の犀とか、仏像とかは水辺の呪物です。

承教寺の神獣はなぞですが、そちらの足は牛に意識して、妖怪の「件」〈人+牛だから〉みたいです。こちらの雄獅の方は風雨で傷んでいますが中国の石獅らしく伸びた爪の表現がみられるようです。雌の方は足の折り方はネコ科っぽい気はします。だから一応石獅だと思います。


韓江の砂浜の上に立つ老街は、度重なる洪水のため、廃墟となっていました。廃墟化は中華民国の時代にすでにはじまり、埠頭は二つの川から押し寄せる砂礫(されき)の堆積で底が浅くなり、街は衰退していきました。たった一人の住人だけ窓から顔を出しましたが、夏草に覆われ、凸凹の軍艦島のような砂上の楼閣そのものと変わり果てていたのです。


       写真4.軍艦島のような老街の廃墟

写真5.唯一見かけた住人は三階からなにやら物をバケツで引き上げていました。
 
馬祖諸島北竿島の「海賊屋敷」と石獅(北竿郷芹壁村)─じつは幽霊屋敷だった石積邸宅

      

  馬祖(まそ)諸島は福州から船で1時間半ほどの沖合にあります。台湾の統治下にあり、台湾でも大陸でも福建省連江県の行政区劃に属しますが、「馬祖島」という島はなく、北竿島(ほくかんとう)と南竿島が大きな島です。馬祖は、航海安全の女神である媽祖(まそ=天上聖母・てんじようせいぼ)のことです。海難事故に遭った兄と父を助けようとして水死した媽祖様の御遺体が漂着したとされることから馬祖諸島の名があります。

                写真1. 芹壁村全景。上方の紅壁が天后廟

  馬祖諸島の家屋は、福建東部沿海部でよく見られる自然石を切り出した石積屋です。中国でも貴州省安順市とか、広東省恩平県とか、浙江省寧波市などにみられますが、中国では主流ではないです。また、切妻(きりつま)家屋か、寄棟(よせむね)家屋の一戸建てが多く、囲み屋(合院・こういん)構成にこだわる中国民家の系譜からみると独特です(ただし囲み屋も現地に多種あります)。急斜面に村落を作ることもあり、合院が主流でないのも納得でき、一軒一軒がトーチカ化されています。じつは馬祖諸島は過去海賊の本拠として有名だったのです。

  北竿島(連江県北竿郷)の芹壁(きんへき)村は、島の西北にある漁村で、もとは鏡澳(きょうおう)といい、やはり海賊が住んでいました。山上で媽祖を祀る天后宮(てんこうきゅう)から港をみると「鏡のような入り江」という鏡澳の意味に納得します。

  村の東側集落にある「義民居」(ぎみんきょ)と名付けられた邸宅(芹壁14号)は、じつは海賊の頭目陳忠平(1909-1943)の邸宅で、日中戦争期1942年に完成した海賊屋敷です。そしてじつは無辜(むこ)の死を遂げた者が少なくとも五人はおり、加えて主人は死因に悪行の因果応報があります。海賊屋敷はじつは幽霊屋敷でもあり、怪しい足音が夜中に響いたりして、肝試し不可です。気になる方は村人に訊ねてみて下さい。


                   写真2. 海賊屋敷

  陳忠平は完成時日本軍との関係悪化の事態を受けて逃亡し、翌年少し住んだだけで殺されます。邸宅は大陸の職人が建てました。典型的な寄棟(「五脊四坡」・ごせきごは)の屋根で、大陸から運んだ福州杉の柱組は上部を梁を貫通して支える擡梁(たいりょう)構造です。正面は青白石で、側壁と後壁は花崗岩です。高さ10m以上の石壁をもつ密閉2階建て家屋です。じつは地下道があって緊急避難できたり、二階の壁が二重になって財産を隠匿できるようになっています。

  大門上方に石彫りの「太極八卦図」(たいきょくはっけず)があって魔除けとします。側壁上方には鯉を象った漆喰製の排水口「鯽魚嘴」(チーユィーズゥイ・そくぎょし)があります(鯽の口を意味するのに鯉)。正面屋根上には、両端に一対の石獅があり、向かって右の雄獅は、左手に手巾(手拭い)、右手に鞠、左側の雌獅は左手に子獅を抱えます。西北方に海を睨んでいます。それを夾んで左右にトロフィー状の盃があり、洋風を感じます。



写真3.  邸宅正面上部の石獅(向かって右)


写真4.  邸宅正面上部の石獅(向かって左)。右足、左手足ともに爪が重ねて立つ印象です。





 頂上にはもう一体石獅が守ります。口を開けて左後腿をもたげ、福建・台湾にあまり
ないスタイルです。方角は東南で、海ではなく、後ろの山の方を向きます。建物正面の石獅とは造形が違いますが、合わせて前後の備えです。この石獅はこの村で他の建物にはない孤例でした。石獅とありますが、巻き毛はなく、体の紋様は虎にみえます。 

 海賊屋敷が「義民居」というのは、あまり縁起の良い名前ではありません。義民というのは、戦乱などで無辜の死を遂げた異常死者を供養する言い方で使うことがあるからです。じつは完成時、陳忠平は、工賃を払わず、宴席を設けて三人の石工を謀殺(ぼうさつ)しています。地下道とか、財産の隠し場所とかの秘密が漏れないように謀殺(ぼうさつ)したのでしょう。

 三人の白骨死体はのちのち離れた山中の糞溜(くそだめ)で発見されたといいます。二階に陳忠平没後にこの家の主人となった弟陳忠吉の位牌がありますが、恐らくこれは鎮魂のために遺しています。


写真6. 陳忠吉の位牌がひっそりと置いてあります。

 この人は陳忠平の息子とともに1950年進駐した国民党軍に民衆裁判の結果処刑されます。じつは村民たちは生まれてはじめて聞く標準語が聞いて分からず、成り行きのまま、適当に有罪を意味する挙手をしてしまって死刑が決定されたそうです。殺された三人の石工と、この二人を入れて五人の無辜の亡魂がいるのです。  

参考文献: 陳朝興(著) 1999年「馬祖閩東建築及聚落的初步研究─以芹壁村田野資料為例」、『第一屆馬祖列島発展史国際学術研討会』、連江県政府