一頭だけど狛獅子
─ラオス正月の3日間だけ地上に降臨する夫婦神プーニュ・ヤーニュさまと仮面獅子シンカップ・シンクゥーン
(ラオス人民民主共和国ルアンパバーン郡)



   ルアンパバーン(フランス式にはルアンプラパン)のラオス正月のピーマイ・ラオ(西暦4月中旬)は、ラオスの創世神、プーニュ・ヤー二ュさま(プーニュ・ニャーニュとも書く)が3日間だけ、この世に甦ります。顔が赤く、全身に藁をまとうので、秋田のなまはげに似るといわれますが、ラオス神話の大事な夫婦の来訪神です。






    真っ赤な顔に大きな目を剥き、大口を開けて歯まで出ています。プーニュさまが夫ですから髭が生えていて、それが無いのが妻のヤーニュさまです。ヤーニュさまは金髪で、プーニュさまは銀髪です。プーは「おじいさん」、ヤーは「おばあさん」という意味で、合わせて神さまへの親しみを込めた尊称です。

シンカップ
  ルアンパバーンは1353年建国のラーンサーン王国の王都で、建国後の1357年、カンボジアのクメール王朝から上座部仏教を受け入れました。神さまと仏さま、そして人間、そのほか雨を降らせるナーガも、神・仏・精霊・人、みんながいっしょになって、熱気の篭もったメコン川沿いのこの盆地で、年の移り替わりをともに過ごします。

シンカップでもありシンクゥーンでもあるといいます

くどいようですが、シンカップ/シンクゥーン

   プーニョ・ヤーニュさまは、ピーマイ・ラーオの最初の日にメコン川の水を汲みます。濁り水が聖水に変わるといわれ、その水は日本の灌仏会(かんぶつえ)同様の意味で、ワット・マイ(正式名ワット・マイ・スワンナプーム・アハーム、18世紀末アヌルッタ王によって創建された豪華絢爛な寺院。御釈迦様の前世の物語である本生譚(ほんじょうたん)を描く黄金のレリーフがある)で、ルアンパバーンの名となった黄金のパバーン仏さまに最初にかけます。

向かって左プーニュさま・真ん中シンカップ/シンクゥーン・右ヤーニュさま

   2日目と3日目のパレードには、プーニュ・ヤーニュさまとともに獅子のシンカップがあらわれて、一緒にワット・マイとワット・シェントーン(1560年、セータティラート王により、メコン河とナムカーン川の合流点に住む2つの蛇神をまつるため建立された、現地でもっとも格式の高い王室の護持する寺院だった)の間を2日掛けて往復します。

1920年代に、ワット・マイで灌仏するヤーニュさま(ひげがないようにみえる)(Jean Renard,Laos in the 1920s, White Lotus,2011:p60)

   シンカップは、シンハのラオ語「シン」だから獅子なのですが、カタチは福島の赤ベコみたいな獅子さまです。金頭にトゲがたくさん立っていて、パンク風の強力な獅子の姿です。鼻が大きく突きだしていて、顎と連動して口はパカパカ開きます。両目は光るが如き鏡面を思わせます。全身は藁に覆われています。金獅子です。独特な姿は、アジアの獅子舞民俗の系譜からも大事な存在でしょう。


お土産のプーニュさま・シンカップ/シンクゥーン・ヤーニュさま-シンカップ/シンクゥーンは姿カタチも色も実物とぜんぜん違ってこちらは赤シシバージョンです。

   ルアンパバーン在住の檜田容子さんによるとプーニュ・ヤーニュさまとシンカップは出発前にワット・マイで待ちきれずに旅行社の流す大音量のポップ・ミャージックにあわせてふんわかふんわか踊っておられたりするそうです。

(FB『狛犬さがし隊』2014年8月9日の「アファム寺の狛犬と仁王」投稿記事https://www.facebook.com/groups/167114456679444/permalink/745357618855122

檜田さんのブログ『ルアンパバーン日記』「ピーマイラオ プーニュ・ヤーニュの巻」2013年4月16日付
http://ameblo.jp/hinahinahinahinahin/entry-11512016514.html)


  シンカップは途中の休憩でへたってお休みになられたりします。夫婦神さまはどちらさまもぶらぶら身体を振ってお歩きになりますが、パレードでは、水掛けが派手に行われ、観客はお坊さんにも水を掛けたり、プーニュ・ヤーニュさまにも水を掛けるので、いきなり大声を上げて子供を追い散らしたり、ユーモアたっぷりです。




  シンカップはその後ろを、「中の人」なんかいないのに、ひょこひょこついていきます。



   本当は、獅子は二頭でシンカップとシンクゥーンがいるはずですが、これについて、地元のお婆さんに、たまたまおられた旅行ガイドの方を通じて訊ねてみました。



   シンカップとシンクゥーンはいずれも目の前の一頭の獅子だとのことで、なかなか分かりにくい理屈です。長い休憩の最中、シンカップ本人にインタビューしましたが、やはり同様の答えが返ってきました。本獅子(本人に相当)が言うのだから間違いありません(笑)。



   2つの獅子が、1つの身体に重なって、地上に降りているのでしょう。 目の前では一頭だけれども、シンカップ・シンクゥーンともに降臨していて、いずれも夫婦神プーニュ・ヤーニュさまと対応して、二頭の獅子で、神さまとともに古都ルアンパバーン、ひいてはラオスを守っているのだから、これは狛獅子であることは間違いないです。



   上座部仏教のシン(獅子)ではない、神話伝承上のシンなので、その点でも大事な意味をもつ獅子でしょう。1920年代のJean Renardによるラオスのレポートにも、獅子は一頭だけで描かれていますから、昔から一頭のみの仮面なのだと思います。



    なお、プーニュ・ヤーニュさまは、渾沌とした最初の世界で水を踏みしめ、ラオスの大地を創造したばかりでなく、空を覆い隠してしまった大木を命を懸けて切り倒してくれたラオスの恩人なのだそうです。ふだんはワット・アハム(ワット・ビスンナラート、西瓜寺の隣にある)の小屋に仮面を安置していて、そこには看板に神面と獅子面の絵が描いてあります。

参考文献:Jean Renard,Laos in the 1920s, White Lotus,2011(原著:Jean Renard, Le Laos.Dieux ,Bonzes et Montagnes,Alex Redier Éditur,1930).


(2014年4月14・15日取材)
北風と白鶏─「小金門」の風鶏(金門県烈嶼郷)

風見鶏ではありません、風に立ち向かい、風を御(ぎょ)する鶏です。


写真1.黒面北風爺脇の風鶏(西方社区と後宅村との間)

風鶏は、金門島の方にはなく、烈嶼郷(れつよきょう・俗称:小金門)にしかありません。合計17座も鎮座されています。そのかわり、烈嶼には風獅爺の密度が比較的少ないです。
  沖縄のシーサー(獅子だから沖縄方言読みで「シーサー」さあ。)も、はじめは地上に立つ形で、のちに屋根の上に火伏せの魔除けとなり、明治以降に屋根の上に大繁殖したとのこと。これと同じように、風獅爺は、屋根の紅瓦の上に置く個人の家のものもあります。獅子だけのものもあれば、武人が乗っているものもあります(後述)。



風鶏は、白鶏でなければならないそうです。いまでこそ白鶏は、養鶏で目に付きますが、白い鶏は聖なる白色であったかも知れません。烈嶼の風鎮めの神の北風爺は、黒い部分がなければならないのですが、その脇に白鶏はかならずいるのです。役割は重複しているのですが、風鶏の方は白蟻避けの呪物(じゅぶつ・まじないグッズ)でもあって、土地でとても必要とされる役割を担っています。鶏が蟻を食べてくれるのです。ですから、個人のお宅の屋根にましますこともよくあります。白蟻避けの呪物でもあるというと、その点は金鶏より白鶏が適しているというのは、分かります。

そんなに昔からあるようには思えませんが、廟のあるところ、よく見受けられます。烈嶼郷の民俗文物館には、屋根の上中央に載せる緑釉薬の陶製鶏像があり、これが風鶏の由来かも知れないと思います。鶏は太陽を呼ぶし、お日様が昇るのは東だから、風鶏は縁起もいいと思います。

なお、金門島には、ぼほ唯一の風鶏として、最大の風獅爺で知られる金寧郷の安岐村に、風水上の龍脈の上に立つ「風鶏咬令箭」塔があります。こちらも風鎮めの塔らしく、「風鶏が破魔矢を咬む」絵を描いています。こちらは金鶏で、白鶏ではないです。

写真2.黒面北風爺脇の風鶏(西方社区と後宅村との間)

写真3. 北風爺脇の風鶏(東

坑村福徳土地祠)

写真4.個人宅の風鶏

写真5.清雲祖師廟横の鳳鶏

写真6.李王爺廟の風鶏

写真7.鎮宅緑鶏


写真8.金門島金寧郷安岐村の「風鶏咬令箭」塔


北風を防ぐ黒面の将軍さま─「小金門」の北風爺(金門県烈嶼郷)

金門島の西隣の烈嶼は、金門島を縮小したような形をしていて、「小金門」とも呼ばれます。対岸からの砲弾の着弾も激しかったところです。昼食中にいきなり砲弾が落ちてきて、指揮官らが瞬時に戦死ということもありました。

小金門は金門島とは違って、東北風避けの呪物は白鶏像の風鶏(漢語:フォンジー・ふうけい)と、北風爺(漢語:ペイフォンイェー・ほくふうや)です。北風爺は、顔が黒いものがあり、黒は五行説の北で、その色から北方の守護神の北極玄武大帝(ほっきょくげんぶたいてい)であるとする人が多いです。これは根拠のある説に違いありません。なお、北風爺の横には風鶏もいます。

小金門に2尊おられますが、1尊は顔が黒くないです。黒面の将軍は、手まで黒いところが、さすが風鎮めのプロだと思います。2尊とも宝塔の剣を持つ武人の姿であることは同じです。顔が黒い北風爺は「黒面将軍」ともいいます。武人だけれども、目が大きくてきょとんとした表情で、愛らしいところがいいです。金のひげがとくに立派で、金カブトと良くあっています。

黒面の北風爺は西方社区と後宅村との間の道路のそばにあります。もう1尊の黒面でない北風爺は、東坑村の福徳土地祠の横にあります。1990年に竣工していて、まだ若いです。どちらかというと黒い部分があった方がいいと思うのですが、目の前に背の高いコーリャン畑が前にあって、確かに風から守るには大事な神様だと思います。

北風爺の起源としては、金門島と澎湖島にある屋根の中央部(屋脊中央)に載せるタイプの鎮宅風獅爺があるかもしれません。金門島でも、澎湖島でも、獅子の上に、将軍像が乗っているという点が共通します。将軍像だけ独立して、東北風に対応する黒面将軍としたら、このような姿になるということも、その由来として考慮に入れても良いと思います。


なお、古来から中国では、風雨順調の神として、風伯・雨師がいます。「風調雨順」(フォンティヤユィーシュン)といって、農作物の順調な成長を期待しますから、風神は中国でも大切です。

中秋節の御大祭(その2)─ご祭式解説

(中秋節の御大祭〈その1〉よりつづく)



  ところで、この家では、うさぎ教の信者は私だけなのです。あとのみなさんはカトリック教徒です。だから、私はひとりで黙々と御大祭の準備をしました。





  祭式は、誠に相済みませんが、川野明正『神像呪符〈甲馬子〉集成─中国雲南省漢族・白族民間信仰誌』(東方出版、2005年)に、大理漢族の祭祀方法が記載されていますので、それを見て執り行いました(自著を宣伝していますが、出版社に恩義があるのです・笑)。






  いまはこのようなきちんとした祭祀をする人も少なくなり、お札も入手しにくくなりました。自著を参考にしていますが、じつはこの本がなくては手元で祭式が再現できないので仕方ないです。






  お札は自分で摺(す)って、自分で色を乗せました。大理白族自治州南部の巍山彝族回族自治県(ぎざんいぞくかいぞくじちけん)南詔鎮(なんしょうちん)の漢族とイ族(漢字:彝族)が使う「月光」(げっこう)紙というお札を使いました。





  祭卓は中庭に置き、うさぎ神さまのご神像にお乗り頂き、金銀紙(大理漢語:チンインツー・金塊・銀塊を表す)と紙銭(しせん・冥界祭祀用模造銭・神さまに対して燃やす模造銭である「黄紙」〈大理漢語:ホアンツー〉を使う)を両端に、神さまに捧げる線香の紅香(大理漢語:ホンシャン)をその上に置き、お酒とお茶を杯に入れました。




  月餅を真ん中に置き、その左右はりんごとざくろです。真ん中に線香立て、左右にろうそくを立てます。






  ここまで準備すると、家の人たちも手伝ってくれて、栗と落花生を蒸かしてくれたので、それを左右に乗せ、ムーンケーキは特注のチョコレートケーキを持ち出して、祭卓の脇に置きました。






  日が暮れてから夜の九時ごろに、お月さまがすっかり雲を脱けましたので、ろうそくと線香に点火し、紙銭と金銀紙を燃やします。月は女性が祀るという習俗もあり、姪に祭祀を手伝ってもらいました。祈願は、一家の平安を祈り、そのほか、無病息災も祈り、事業の成功やら、学業の成功やらを思い思いに唱えます。





  最後に燃やすのは、月宮のお札です。その後、月餅を割って入れ、お茶とお酒も火に投じます。









  そうして三回拝跪(はいき)を繰り返して拝礼して祭礼は終わりです。これを「三叩頭」(サンコウトウ)といいます。








  あとは家の人たちと供え物を楽しく食べて、一家団らんのひとときを過ごします。







   明日から残りの月餅12個を、朝昼晩食べます。たぶん明日の朝ご飯はケーキです。そのほか、まだ封を開けていない巨大なムーンケーキが一個あります。気を遣って月餅を送ってくる方もいますので、大量のストックができるのです。






   最後に、このうさぎ教の信者は、日本でも中国でも目下私ひとりだけです(笑)。ですから、うさぎ教の部分だけ架空の記述とみなしても結構です







参考文献:川野明正『神像呪符〈甲馬子〉集成─中国雲南省漢族・白族民間信仰誌』東方出版、2005年

図版説明:


図1.中庭にしつらえられた祭卓とお月様


図2.祭卓上の配置

図3.まず紙銭と金銀紙を燃やす

図4.「月宮」のお札を燃やして平安無事の祈願を月におわす神さまに伝える

図5.燃える「月宮」紙

図6.月餅を割って燃やしたあとで、茶と酒を注ぐ

図7.お月様に向かって拝跪する

図8.拝跪は三回くりかえす

図9.祭卓をもういちどupで

中秋節の御大祭(その1)
─うさぎ神さま「兎児爺」(トゥーイェー)ご縁起





   今日旧暦八月十五日は、秘密宗教うさぎ教の御大祭です。つまり中国の中秋節(大理漢語:ツンチュウチィエ・ペー族語:ピャーワーズームー)です。うさぎ教は、漢語では「白兎教」(漢語:バイトゥーチャオ)といいます。


うさぎ神さま「兎児爺」ご神像と「月光」のお札


うさぎ神さま「兎児爺」ご神像と、雲南ハム月餅(雲腿月餅)



  朝から祭式を復活させるべく準備しました。
 


うさぎ神さまの月宮のご所在

  

  うさぎ教のご本尊は、うさぎ神さまで、漢語で「兎児爺」(北京漢語:トゥーイエ)とおっしゃいます。「爺」(イエ)は、「おじいさん」の意味が転じて、高貴な男性の尊称として使います。
 

  うさぎ神さまは、北京や中国北方で、伝染病が起きたとき、地上に降りて人々を治療してあげました。本来は女神のようです。だからじつは「おばあさん」から転じて高貴な女性の尊称を表す「奶奶」(ナイナイ)を使い「兎奶奶」(トゥーナイナイ)と呼ぶ方がいいのですが、武人の恰好なので、「兎児爺」でも、まあ、宜しいとされています。





  うさぎ神さまは人々が御礼をしようとしても、御礼は受け取らず、服を借りていろいろな服装をして姿を借り、いそいそと患者を回り治療に専念するだけでした。その範囲は山東省や河北省などにも及びました。





  うさぎ神さまは、いつもは月の中の月宮におわして、不老不死の霊薬を杵で突いておられて、この霊薬はかぐやひめさまも地上に御礼にあげたこともありましたが、富士山で燃やされてしまいました。中国北方の伝染病のときは、大量のストックであまたの人々の命を助けになられたのでした。



  

  それでこのうさぎ神さまは、仏様として蓮華座に座ったありがたい姿で、明代から北京の人々を中心に尊奉(そんぽう)されております。しかし最近は、魔除けのために虎や黒虎(こくこ)に騎った女武者の姿でご神像をお造りもうしあげることが多いです。



  これは伝染病の治療のために、虎や獅子の背を借りてまで、病人のあいだじゅうを駆け回られたからといわれております。そのため、虎に騎っておられるご神像が多くみられるのです。


祭卓を中庭に出します。お月さまが出ています



  うさぎ神さまのもとには、たくさんのうさぎたちがいて、地上に降りては人間と一緒に修行をします。やがて人間たちと苦楽をともにしつつ、人間たちの数々の行いを見届けてから、功成って、昇仙してお月さまに帰っていきます。うさぎの故郷は、月なのです。


お月さまに向かってお祈りをするミーミー。あとで訊くと、ともだちがほしいと御願いしたそうです。













  うさぎ教では、それにあやかって、不老不死を目指すということが教義の柱のひとつとなっています。








  うさぎ教のうさぎ神さまは、じつはお仕えしている女神さまがいて、月の宮殿の嫦娥(じょうが)さまです。北京の人々が伝染病で苦しんでいるとき、人間を救うべく、うさぎ神さまを派遣したのが、この月の女神の嫦娥さまです。月府太陰星君(げっぷたいいんせいくん)ともお呼びしております。






  太陽のお宮にまします日府太陽星君(げっぷたいようせいくん)とともに祭祀申し上げることも御座います。こちらは三足烏(さんぞくう)さまと申す三本脚のカラスさまをしたがえておられて、太陽の黒点がそのカラスさまに当たられます。八咫烏(やたがらす)さまもその仲間であらせられます。



   うさぎ教のお札では、月にまします嫦娥さまが月にあるという桂樹(けいじゅ)の下に微笑まれ、その横でうさぎさまが霊薬を杵で突かれているお札がごさいます。それを今宵に紙銭(冥界祭祀用模造銭・神さまに対して燃やす模造銭である「黄紙」〈大理漢語:ホアンツー〉を使う)と金銀紙(大理漢語:チンインツー・金塊・銀塊を表す)ともにお焼き申し上げます。

巍山彝族回族自治県南詔鎮の「月光」のお札

   古代の神話にもとづいて、三本脚のがまを描くお札もあります(大理市太和村のペー族のお札)。

月府太陰(星君)お札(中華民国期・大理市太和村)