(澎湖県馬公市)
石灰モチ米製のこの獅子たちは、たぶん澎湖島で丈夫な石材が入手しにくい事情も背景にあると思います。
雄獅は鞠を踏んでいます。雌獅の前右足に仔獅が立ってすがりついていますが、男性器らしくて雄の仔獅子です。仔獅子もご両親そっくりな怖い顔をしています。才覚があるのでしょう。材質状多少細かさに欠けるところはありますが、灰墨色で縁取られて大胆です。勢いを演出しているから善しとしましょう。
石獅は死なず
─村人の信心が生かす「崩れ獅子」
(雲南省大理白族自治州剣川県向湖村)
雲南剣川県の向湖村は、チベットと雲南を結ぶ茶馬古道の輸送ルートの脇にあるペー族(漢字:白族・チベット=ビルマ語群ペー語系の民族)の村です。その村の入り口、かつての古道のあたりに、使われなくなった小さな石橋があります。その石橋の石組み側板の四隅には、石獅が彫られています。
図1.石橋東端向かって左側板手前の石獅
剣川のペー族は、橋の欄干にはかならず石獅を彫り上げるという強迫観念のように強いこだわりがあって、この石橋の四獅もそのような風習から彫られていました(北京郊外の日中戦争の発火点となった盧溝橋の欄干獅子が中国では有名です)。
図2.石橋東端向かって右側板手前の石獅
しかしいまは長年の風雨ですっかり磨耗しきっており、すでに顔も身体も、表情も模様も、窺うことが難しい「崩れ獅子」の状態です。
図3.石橋東端より左手側板
この石獅は、もともと平たくうずくまるペー族特有のもっとも簡素なタイプで、門扉の軸受けである「門墩」(メントゥン・もんとん)の箱台の上に彫られる物と同様です。
図4.石橋東端より右手側板
したがって、5月から10月まで雨季で、毎日かならず雨が降ったり、一週間以上も長雨が続く剣川盆地では、磨耗するのも早いのかもかもしれません。
図5.石橋全体
剣川県の県政府所在地の金華鎮などでは、盆地の政治の中心だったため、文化大革命(1966-1977)での破壊が激しく、古い石獅をみるのが難しいのですが、郊外の農村ですので(文革で壊れた「壊れ石獅」もありますが)、当時破壊されたようにはみえないし、磨耗の仕方も自然にみえます。
図6.剣川県千獅山(名刹満賢林の参道を石獅テーマパークとした遊歩道)の迎仙橋(げいせんきょう)と欄干石獅
しかし雨にも負けずで、この橋の上の四頭の石獅も現役です。石獅は死なずというところです。村人が毎朝お線香と御飯を一頭一頭ご丁寧にお供えしているのです。
あられと干し小エビと、草一輪もお供えして細かな気遣いです。橋もすでに使いようがないのに、セメントで補修してあります。もともと石工で生計を立てるひとが多い村ですので、石彫に対する思い入れも深い村なのかも知れません。
日本でも、タイでも、ラオスでも、狛犬や石獅の口に御飯を入れる人も居られますが、お供えは好ましい習慣ですね。
みると目玉は双眼や片眼がまだ遺っていて、ちゃんと村に悪物が入らぬように監視しています。やっぱり現役です。
どんなに磨滅しても、線香と御飯を捧げる信心深い村人が、この石獅たちを生かしているのだと思います。お祀りする人がいる限りは、石獅は死なないということが分かります。
逆にこれだけ磨耗してしまうと、むしろ石獅のたましひが石塊から生気を立てて浮かび上がってくるようです。
三遊亭円丈師匠(注)の『THE 狛犬! コレクション─参道狛犬大図鑑』立風書房、1995年)では、狛犬の寿命を50年くらいでお払い箱としていますが、お払い箱にはならず、たくわん石状態になって摩滅して、土に帰るまで現役である狛犬もあることを紹介しています(上掲書「土に帰る狛犬」、42頁)。
石はもともと長い生命をもつ物質ですから、死滅しにくい物質であることが、かえって石のいのちとなっていて、石そのものの力が、石彫の数々となっていのちを具現しているのだということが、円丈師匠の名文からも分かります。
民間信仰は、いろいろ難しくあれこれと考察する以前に、信心する人の純朴な願いとか、祈りとか、そういうものがあって、信仰が出来ているのですから、結局そういういい意味での「人間の素直さ」が原点にあると改めて気づかされた一件でした。
注─三遊亭円丈(圓丈)師匠は、立川志の輔師匠とともに、明大の誇るべきOBでもあります←落語家・漫画家・コメディアン・ライター等々志望の方は是非明大にどうぞ!←職場の広告を入れておきます(笑)。
参考文献:三遊亭円丈『THE 狛犬! コレクション─参道狛犬大図鑑』立風書房、1995年
たぶん唯一無二! 眼鏡出っ歯の笑い獅子
─上付ギョロ目石獅の分布最奥部から
(貴州省南部錦屏県隆里古城)
隆里古城は貴州省南部の錦屏県(きんぺいけん)にあって、辺疆防衛のための明・清代の駐屯地です。周囲日トン族(トン・タイ語群トン・スイ語系) ・ミャオ族(ミャオ族ミャオ語群ミャオ語系)が居住しています。もとは龍里といいます。洪武十九年(1386)から築城され、4座の城門と城壁を巡らし、城内外1万1千人の駐屯軍が屯田をしながら守ってきました。
600年の歴史があり、72の姓と同数の井戸があるといわれます。城内は卵石を敷いた江南風の美しい3本の街道がT字に交わり、湖南・安徽風の箱形囲み屋建築をそびえる段々の「馬頭墻」(漢語:マートウチィヤン・ばとうしょう)の壁面が連なる美しい街並が遺ります。
住民の先祖は安徽・江西両省から来た家が多いですが、他民族の居住地に、隔絶されたように営まれる600年の歴史の中で、トン族とは通婚関係が進んでいます。南門の街道である蜈蚣街(ごしょうがい)は100m近くもの百足の模様が卵石で描かれており、火伏の意味があるようです(南門の方角が五行説の火に属し、蜈蚣が五行説の水に属する)。
隆里古城の鎮宅石獅は、広西・広東・福建でみられる上付きギョロ目タイプ(上付珠目眼型)のもので、清代のものと思われます。鎮宅ですから、邸宅門前の石獅です。
図1.隆里石獅(向かって右)
図2.隆里石獅(向かって右)
中国西南地方の内陸部の貴州省まで、ギョロ目タイプの獅子があったということは、海を渡って沖縄の村落を守る単体シーサーに同様の上付きギョロ目タイプのシーサーがあることと同様、感慨深いものがあります。
図3.隆里石獅(向かって左)
図4.隆里石獅(向かって左)
この石狗は、この種の上付き目玉のプリミティヴな石獅・石狗たちの最奥部の作品といえそうです。磨耗は激しいですが、頭部に巻き毛状だっとと思わせる瘤が多数あり、額にさらに大きな瘤もあり、背中の分かれ毛も連続していて、石狗ではなく、石獅です。
左右ともに大きな目が、極端に寄り目で、愛すべき表情を見せています。
図5.隆里古城東街と東城門の街景
驚くべきは、目玉と口です。とくに向かって右の獅子の方が目玉が極端に大きく、その上線刻が眼鏡を掛けたように二つの目玉と両耳の下までを結んでいて、眼鏡をかけたような表現です。相方は眼鏡がないから、石獅の世界では、唯一無二は詐りでは御座いません。でも日本の狛犬で眼鏡をかけている狛犬もいるかも知れませんね。
図6.隆里古城蜈蚣街の卵石街道(むかでの尻尾を南門側からみる)
眼鏡石獅は、口が横倒し8字の形で、真ん中が上下前歯で合わさって、前歯が出っ歯にみえます。これまた類例ない造形です。首下の鈴がありません。
図7.天寿を全うされたお婆さんのお葬式に招待されました。
親しみやすさを感じるのは、水木しげる先生が発明した日本人の典型である眼鏡出っ歯の表情に通じるからでしょうか?(じつは水木先生と私はいっしょに雲南妖怪の旅をしたことがあります)。
図8.金門島の上付きギョロ目獅子タイプの風獅爺(金門島水頭地区)
向かって左の獅子は、首下に鈴があります。口を開けていますが、口中に珠を含むような彫り方です。大きな鼻は、両穴が勢いよく開いています。磨耗する以前は、下をぺろっとだしていたかにみえます。
図9.沖縄の上付ギョロ目タイプのシーサー(南城市付近)
パーマをかけたような螺髪で、両頬は瘤が隆起して、血色は良いので、大きな目玉と相まって、こちらは上方おかみさんタイプにみえます。交互に眺めると、まるで夫婦漫才を聞くかのような錯覚に陥ります。
でも、こちらは左前足を怪我したようで、コンクリートで四角に固められ、針金を結んで措置してあるのが残念です。
最奥部にひっそりとたたずんでいた上付きギョロ目獅子は、中国では唯一無二の眼鏡出っ歯の笑い獅子でした。