観音様への巨大お供え菓子?─澎湖島観音亭の競作双獅
(澎湖県馬公市)


図1.雌獅


  清末の由緒ある石獅です。いまは観音亭の左右に鎮座します。でも材質は石灰・モチ米汁・黒砂糖水を捏ね合わせてできています。セメント普及以前の石灰製獅子です。ですから、見方によっては、これは観音様に捧げられた巨大なお菓子です。ビンロウには石灰粉が入っているから、食べられますし。そもそも澎湖島では、神さまの供物で、モチ米を固めて海亀にして奉納したりします。高さは1.5m、体長2.5mくらいあると思います。



石灰モチ米製のこの獅子たちは、たぶん澎湖島で丈夫な石材が入手しにくい事情も背景にあると思います。



青灰色で彩色した奇抜な色彩感覚は、石灰造りの身の上に由来します。この材質の獅子は、台湾でもこの一組だけとのことです。海辺なので澎湖島の美しいコーラルブルーによく映えます。


図2.雄獅

   1887年(光緒十三)に澎湖総鎮署(ほうこそうちんしょ)を設立したときの、お役所の門前を守る石獅として制作されました。林勇と彭海楽という二人の親方に製作を依頼したものです。林勇は雄獅に長け、彭海楽は雌獅に長けていました(以上石獅台座の説明版より)。
 


図3.雌獅

  石獅たちは、1935年に官署が取り壊しになった際、澎湖の郷紳(きょうしん)たちが惜しんで、馬公市の観音亭に観音亭に移設しました。



  観音亭は1696年に澎湖湾に面して建てられましたが、1884年清仏戦争で、フランス軍の戦火で破壊され、そのあと再建されています。



   雄獅は鞠を踏んでいます。雌獅の前右足に仔獅が立ってすがりついていますが、男性器らしくて雄の仔獅子です。仔獅子もご両親そっくりな怖い顔をしています。才覚があるのでしょう。材質状多少細かさに欠けるところはありますが、灰墨色で縁取られて大胆です。勢いを演出しているから善しとしましょう。


図4.仔獅

   そもそも、仔獅子の自己主張の強さでいったら、天下に甲たる獅子像なのですから。


図5.白象



   脇には南海観音様が騎られる巨大な白象もあります。


図6.観音亭全景。石獅が対偶ではカメラに収まり切れませんでした(笑)。

石獅は死なず
─村人の信心が生かす「崩れ獅子」
(雲南省大理白族自治州剣川県向湖村)







  雲南剣川県の向湖村は、チベットと雲南を結ぶ茶馬古道の輸送ルートの脇にあるペー族(漢字:白族・チベット=ビルマ語群ペー語系の民族)の村です。その村の入り口、かつての古道のあたりに、使われなくなった小さな石橋があります。その石橋の石組み側板の四隅には、石獅が彫られています。

図1.石橋東端向かって左側板手前の石獅






  剣川のペー族は、橋の欄干にはかならず石獅を彫り上げるという強迫観念のように強いこだわりがあって、この石橋の四獅もそのような風習から彫られていました(北京郊外の日中戦争の発火点となった盧溝橋の欄干獅子が中国では有名です)。

図2.石橋東端向かって右側板手前の石獅







  しかしいまは長年の風雨ですっかり磨耗しきっており、すでに顔も身体も、表情も模様も、窺うことが難しい「崩れ獅子」の状態です。


図3.石橋東端より左手側板






  この石獅は、もともと平たくうずくまるペー族特有のもっとも簡素なタイプで、門扉の軸受けである「門墩」(メントゥン・もんとん)の箱台の上に彫られる物と同様です。




図4.石橋東端より右手側板


  したがって、5月から10月まで雨季で、毎日かならず雨が降ったり、一週間以上も長雨が続く剣川盆地では、磨耗するのも早いのかもかもしれません。






図5.石橋全体


     剣川県の県政府所在地の金華鎮などでは、盆地の政治の中心だったため、文化大革命(1966-1977)での破壊が激しく、古い石獅をみるのが難しいのですが、郊外の農村ですので(文革で壊れた「壊れ石獅」もありますが)、当時破壊されたようにはみえないし、磨耗の仕方も自然にみえます。



図6.剣川県千獅山(名刹満賢林の参道を石獅テーマパークとした遊歩道)の迎仙橋(げいせんきょう)と欄干石獅



  しかし雨にも負けずで、この橋の上の四頭の石獅も現役です。石獅は死なずというところです。村人が毎朝お線香と御飯を一頭一頭ご丁寧にお供えしているのです。










  あられと干し小エビと、草一輪もお供えして細かな気遣いです。橋もすでに使いようがないのに、セメントで補修してあります。もともと石工で生計を立てるひとが多い村ですので、石彫に対する思い入れも深い村なのかも知れません。









  日本でも、タイでも、ラオスでも、狛犬や石獅の口に御飯を入れる人も居られますが、お供えは好ましい習慣ですね。









  みると目玉は双眼や片眼がまだ遺っていて、ちゃんと村に悪物が入らぬように監視しています。やっぱり現役です。









  どんなに磨滅しても、線香と御飯を捧げる信心深い村人が、この石獅たちを生かしているのだと思います。お祀りする人がいる限りは、石獅は死なないということが分かります。









   逆にこれだけ磨耗してしまうと、むしろ石獅のたましひが石塊から生気を立てて浮かび上がってくるようです。








   三遊亭円丈師匠(注)の『THE 狛犬! コレクション─参道狛犬大図鑑』立風書房、1995年)では、狛犬の寿命を50年くらいでお払い箱としていますが、お払い箱にはならず、たくわん石状態になって摩滅して、土に帰るまで現役である狛犬もあることを紹介しています(上掲書「土に帰る狛犬」、42頁)。

      












  石はもともと長い生命をもつ物質ですから、死滅しにくい物質であることが、かえって石のいのちとなっていて、石そのものの力が、石彫の数々となっていのちを具現しているのだということが、円丈師匠の名文からも分かります。

   






   民間信仰は、いろいろ難しくあれこれと考察する以前に、信心する人の純朴な願いとか、祈りとか、そういうものがあって、信仰が出来ているのですから、結局そういういい意味での「人間の素直さ」が原点にあると改めて気づかされた一件でした。







注─三遊亭円丈(圓丈)師匠は、立川志の輔師匠とともに、明大の誇るべきOBでもあります←落語家・漫画家・コメディアン・ライター等々志望の方は是非明大にどうぞ!←職場の広告を入れておきます(笑)。






参考文献:三遊亭円丈『THE 狛犬! コレクション─参道狛犬大図鑑』立風書房、1995年












たぶん唯一無二! 眼鏡出っ歯の笑い獅子
─上付ギョロ目石獅の分布最奥部から
(貴州省南部錦屏県隆里古城)




  隆里古城は貴州省南部の錦屏県(きんぺいけん)にあって、辺疆防衛のための明・清代の駐屯地です。周囲日トン族(トン・タイ語群トン・スイ語系) ・ミャオ族(ミャオ族ミャオ語群ミャオ語系)が居住しています。もとは龍里といいます。洪武十九年(1386)から築城され、4座の城門と城壁を巡らし、城内外1万1千人の駐屯軍が屯田をしながら守ってきました。  





  600年の歴史があり、72の姓と同数の井戸があるといわれます。城内は卵石を敷いた江南風の美しい3本の街道がT字に交わり、湖南・安徽風の箱形囲み屋建築をそびえる段々の「馬頭墻」(漢語:マートウチィヤン・ばとうしょう)の壁面が連なる美しい街並が遺ります。







   住民の先祖は安徽・江西両省から来た家が多いですが、他民族の居住地に、隔絶されたように営まれる600年の歴史の中で、トン族とは通婚関係が進んでいます。南門の街道である蜈蚣街(ごしょうがい)は100m近くもの百足の模様が卵石で描かれており、火伏の意味があるようです(南門の方角が五行説の火に属し、蜈蚣が五行説の水に属する)。






   隆里古城の鎮宅石獅は、広西・広東・福建でみられる上付きギョロ目タイプ(上付珠目眼型)のもので、清代のものと思われます。鎮宅ですから、邸宅門前の石獅です。

図1.隆里石獅(向かって右)

図2.隆里石獅(向かって右)






   中国西南地方の内陸部の貴州省まで、ギョロ目タイプの獅子があったということは、海を渡って沖縄の村落を守る単体シーサーに同様の上付きギョロ目タイプのシーサーがあることと同様、感慨深いものがあります。


図3.隆里石獅(向かって左)



図4.隆里石獅(向かって左)




    この石狗は、この種の上付き目玉のプリミティヴな石獅・石狗たちの最奥部の作品といえそうです。磨耗は激しいですが、頭部に巻き毛状だっとと思わせる瘤が多数あり、額にさらに大きな瘤もあり、背中の分かれ毛も連続していて、石狗ではなく、石獅です。

    左右ともに大きな目が、極端に寄り目で、愛すべき表情を見せています。

図5.隆里古城東街と東城門の街景



   驚くべきは、目玉と口です。とくに向かって右の獅子の方が目玉が極端に大きく、その上線刻が眼鏡を掛けたように二つの目玉と両耳の下までを結んでいて、眼鏡をかけたような表現です。相方は眼鏡がないから、石獅の世界では、唯一無二は詐りでは御座いません。でも日本の狛犬で眼鏡をかけている狛犬もいるかも知れませんね。


図6.隆里古城蜈蚣街の卵石街道(むかでの尻尾を南門側からみる)

   眼鏡石獅は、口が横倒し8字の形で、真ん中が上下前歯で合わさって、前歯が出っ歯にみえます。これまた類例ない造形です。首下の鈴がありません。

図7.天寿を全うされたお婆さんのお葬式に招待されました。




   親しみやすさを感じるのは、水木しげる先生が発明した日本人の典型である眼鏡出っ歯の表情に通じるからでしょうか?(じつは水木先生と私はいっしょに雲南妖怪の旅をしたことがあります)。

図8.金門島の上付きギョロ目獅子タイプの風獅爺(金門島水頭地区)




    向かって左の獅子は、首下に鈴があります。口を開けていますが、口中に珠を含むような彫り方です。大きな鼻は、両穴が勢いよく開いています。磨耗する以前は、下をぺろっとだしていたかにみえます。



図9.沖縄の上付ギョロ目タイプのシーサー(南城市付近)
 







   パーマをかけたような螺髪で、両頬は瘤が隆起して、血色は良いので、大きな目玉と相まって、こちらは上方おかみさんタイプにみえます。交互に眺めると、まるで夫婦漫才を聞くかのような錯覚に陥ります。










   でも、こちらは左前足を怪我したようで、コンクリートで四角に固められ、針金を結んで措置してあるのが残念です。









   最奥部にひっそりとたたずんでいた上付きギョロ目獅子は、中国では唯一無二の眼鏡出っ歯の笑い獅子でした。





剣川ペー族に舞い降りたガルダ
(雲南省大理白族自治州剣川県向湖村)





  雲南省の剣川県(大理白族自治州)の県政府所在地の金華鎮南郊のペー族(漢字:白族)の村、向湖村(こうこそん)を訪ねました。
 
  金華鎮の呪物には、剣川県にしかない獅子獣口型石敢當(いしがんとう・獣口のなかに「泰山石敢當」と記す)があるのですが、それと同様、T字路の突き当たりの魔除けに、石敢當的な衝き当たりの悪い気を跳ね返す役割を持つガルダがあります(永豊南路49号)。


図1.金華鎮永豊南路49号のガルダ




  姿は鷹のような鳥頭に鋭いくちばし、鷹のような鋭い爪の太い脚、羽根があって、太い腕に蛇を抱えて退治しています。鳥に近いですが、腕もあって、鳥人であることが分かります。





  向湖村には、現在2つのガルダ(うち1つはそれらしき獣人像)の石彫と、1つの石敢當があります。しかしすべて西側の道筋沿いの家にあって、村落内部に入り込んで建てられている家にはガルダも石敢當もありません。






  ガルダはチベット仏教やインド伝来の密教にも伝わり、雲南迪慶(てきけい)チベット族自治州の東竹林寺(黄帽派)の桁上の雪獅は向かって左に、真ん中の宝石印(ほうせきいん)を夾んでガルダらしき像と対になっていました。

図2.雲南迪慶チベット族自治州の東竹林寺(黄帽派)桁上のガルダ(向かって右)と雪獅
(向かって左)




   チベット仏教のガルダは角が生えていたり、手があって太く描かれたりして、独特の形をしています。

図3.モンゴル国ウランバートル市の市章のガルダ。出典:ウィキペディア「ガルダ」



   麗江市のナシ族(漢字:納西族)の民族宗教のトンバ教(漢字:東巴教)にも、ガルダは経典に登場したり、宗教画に描かれます。


 図4.ナシ族トンバ教の宗教画のガルダ。出典:百度図片
 
  張春継氏の『白族民居中的避邪文化研究─以雲南剣川西湖周辺一鎮四村為個案』(雲南大学出版社、2009年)の解説を引用しますと、向湖村は、金華山という山の東面にあり、金華山には母猪龍(ぼちょりゅう・メスブタの龍と訳せる)がいて、土石流を引き起こすとされます。また、金華山前の西湖と、向湖村の西側の道路が、風水上悪い影響があり、とくに西湖は西側に湖がある「白虎開口」(びゃっこかいこう)の不吉な相なのだそうです(同書102-106頁)。村人の姓名は、段姓です。

  したがって、向湖村の石敢當もガルダも、T字路ではないものの,いずれも風水上の悪い気である「煞気」(漢語:シャーチー・さっき)を防ぐために設置しているようです。

  いずれも西側壁面の上部に設置されています。北側から段A家がガルダ、段B家がガルダ、段C家が獣人像、段D家が石敢當です。この内段B家のガルダは盗難に遭っていました。

図5.向湖村段D家の「泰山石敢當」


  じつは先に述べた金華鎮永豊南路49号のガルダもいちど盗難に遭って、民間仏教の祭司である「アジャリ」(漢字:阿咤力)によって開眼の儀式を行ってもらって新しく設置し直したもので、貴重な文物を骨董として骨董屋に流す泥棒がいるのが残念です。


  罰が当たらないものかと思います。段D家のものは大理石製で「泰山石敢當」と書いてあり、日干し煉瓦壁でも目立ちますが、ガルダはどれも紅砂岩で出来ているので、色が日干し煉瓦壁に溶け込んで目立たず、分かりにくいです。

  段A家のガルダは、羽根が中国の鰲魚(漢語:アオユィー・ごうぎょ)の胸びれに似たコウモリ形ともいえる羽根で、服の尾がまるで鰲魚の尾そっくりな形をしているので、中国の鰲魚の影響があるかも知れません。しかし顔は人面です。くちばしらしい口の膨らみが在り、両手に蛇を持ち上げていて、ガルダらしい蛇退治の紋様があります。


図6.向湖村段A家のガルダ


  段B家のガルダは、三眼で、あわせを着たガルダがくちばしで蛇を退治する形でした。盗難されたのが残念です(上掲書105-106頁)。

図7.向湖村段C家の獣人

  段C家の獣人は、柱石のような八角形らしい石を持ちあげ、くちばしをもっていますが、蛇をくわえているかどうかが、今ひとつ磨耗のために判別できず、羽根がみとめられないので、ガルダと判別することはできません。くちばしをもつ目の飛び出た力士というべきものでしょう。しかしその他の図像から判断すると、ガルダの流れの上にあるようにみえます。


   神鳥のガルダ像は、南詔国・大理国の時代に繁栄したインド経由の密教とともに、大理地方のペー族の先民なかに伝来し、現在でも、民間仏教の祭祀者であるアジャリによって祭祀され、剣川県のペー族の魔除けに飾られています。
 

    張春継氏によれば、剣川県のペー族語では、ガルダを「ダオーガイセン」(DaoGaiSain)と言います。これを剣川県では漢語で、「偸鶏神」(トウジーシェン)といい、くちばしをもち、ガルダが退治する蛇をもったり、あるいはくわえています(上掲書:111-114頁)。


  この種のガルダは、漢語では「大鵬金翅鳥」(ダーポンチンチーニャオ・たいほうこんじちょう)といいます。大理地方では、大理盆地の三塔のある崇聖寺(すうせいじ)から出土した大国時代のガルダ像が有名です。「銀鎏金鑲珠金翅鳥」(ぎんりゅうきんじょうじゅきんしちょう)といいます。密教の神鳥です。


図8.大理市崇聖寺出土の「銀鎏金鑲珠金翅鳥」出典:百度図片



   日本でも密教伝来とともに渡って来て、八部衆(はちぶしゅう)の迦楼羅天(かるらてん)になっています。

図9.日本の「迦楼羅王」『仏像図彙』より。出典:ウィキペディア「迦楼羅天」




  剣川県は南詔国以来の石宝山石窟があり、なぜ大理盆地から北上した剣川盆地の山中にわざわざ石窟を造ったのかということは謎です。私は、チベット帝国吐蕃に対抗する呪物としての意味があったのではないかと考えています。




  さらに北隣は麗江盆地があります。唐代には、麗江盆地より西北側の金沙江西岸に、吐蕃(とばん)の出先機関の神川都督府(しんせんととくふ)がありました。





  現在では、麗江盆地がチベット仏教の南限ですが、剣川県は「アジャリ教」(漢字:阿咤力教)と俗称される民間密教が遺り、チベット仏教でも中国大乗仏教でもない独自の民間仏教があります。そのなかに息づいているガルダですが、風水説や石敢當と同様の理屈で魔除けとして使われていることは、中国からの民間信仰の要素と、密教が出会う場所としての剣川の地理的特性を示しています。チベットとの近さは、剣川県が、囲炉裏文化の南限であり、バター茶の飲食文化の南限であるであるということにも表れています。





    雲南も大理地方より南に降ったり(臨滄市)、より西に行く(保山市)と、すでに南伝上座部仏教圏なので、わずかの距離で、ふたたびガルダと出会うことができます(タイ王国の国章はガルダです)、これはやはり、以上四種類の仏教(北伝中国大乗仏教・チベット仏教・ペー族民間密教・南伝上座部仏教)が息づく雲南省ならではの地理的な面白さだと思います。

図10.タイ王国の国章のガルダ。出典:ウィキペディア「迦楼羅天」


参考文献:
張春継(著)2009『白族民居中的避邪文化研究─以雲南剣川西湖周辺一鎮四村為個案』雲南大学出版社



獅子なのに名は「青龍」と「白虎」
─ 風水・門神・石獅に守られた村
(広西壮族自治区桂林市興安県白石郷水源頭村)


[秦家大院について]
   水源頭村は、典型的な桂北(広西北部)カルスト山地の盆地にある村で、駱駝山・烏亀山・青龍山・宝塔山・印山・太子山などの峰々に囲まれて、盆地は宝を集める盆、つまり「聚宝盤」(じゅほうばん)にたとえられています。
   村の構成は前街と中院、後園の3段の構えで、中院の部分が秦家大院の邸宅群で知られています。その名の通り、村人は秦姓です。桂北地方の漢族古鎮に多い山東省を祖籍としています。

図1.右獅(向かって左)「白虎」(順番の優先順位は本来青龍側ですが、写真の対照上右獅から表示しています)

図2.左獅(向かって右)「青龍」


   村のほとんどは秦家大院(しんかだいいん)という重厚な青磚(せいせん・黒煉瓦)で囲まれた湖南式の連棟集合住宅群となっていて、敷地面積17000㎡、7つの巷と8組の邸宅23棟30座を擁する邸宅群です。横2組、縦2組の邸宅が左右に分かれて、中央に狭い青石板の巷道があり、後方で丁字形に巷道と交わっています。


   秦家大院を建造したのは、湖南省東安・黎平一帯(現在貴州省)の大工だそうで、「金盆橋碑記」の落款(らっかん)は、「湖南省石匠保慶府石匠袁顺和敬堪」と記されていることからもそれが窺われます。
   村の入り口の前街中央に秦家大院の門楼があり、左右五段の角段を連ねた壁面をもちます。匾額などから18世紀の民宅であることが分かります。
   重厚な門扉の上部の鴨居部分に、黒塗に金字の「武魁」(ぶかい)「文魁」(ぶんかい)の文字が村の人々の目指してきた生き方を示しています。武官と文官の試験で、それぞれ首位の状元と、最終試験の殿試合格者の進士を出しています。


[石獅と村落風水]
   その門の入り口左右には、艶光りした清代の石獅が邸宅群を村を守っています。




  左獅(向かって右)は、横一文字の獣口(じゅうこう)で、吽形(うんぎょう)に近いです。両目は上付きで、凹んだギョロ目です。しかしあたまは風雨の磨耗もあってか、つるつるで、石狗か石獅がわかりませんが、どうも力強いお尻と、鋭い爪から石獅のようです。




  右獅(向かって左)は、あごひげが立派で,大きな尻、鋭く太い爪をもち,石獅と思います。頭部の磨耗は激しいです。それでも上付きのギョロ目は健在です。はっきりとした阿形(あぎょう)で、獣口を開けて舌も出しています。前足が太くて、しわのある表現は、左獅も右獅も共通しています。皮膚のたるみを表現するなど、優れた石工さんだと思います。
 
 
   桂北地方の石獅はどこもちょっとユーモラスです。同様の桂北石獅が、霊川県の熊村という村の村門の下の河原に一頭だけいました(桂林市霊川県大墟鎮境内)。

図3. 霊川県熊村の石獅 (桂林市霊川県大墟鎮)



  こちらの相方はどこにいったのでしょうか。水辺なので、水鎮めの意味があるかなと思いますが、いざというときに、からだを張って村を守るので、是非お供え物は必要だと思います。




  いずれも中国南部のギョロ目獅子の系統に属し、ギョロ目獅子分布圏に入ります。これは隣接する貴州省南部の錦平県(きんぺいけん)・黎平県(れいへいけん)も同様ですが、そちらの石工が来て水源頭村の石彫も彫っていますから、一脈通じた石獅圏となっているともいえます。

図4.秦家大院門楼と、石獅の配置

  また、門楼の門扉の下の門墩(メントゥン・もんとん・門扉の軸受け)は獅子が鞠と戯れ(向かって右)、鼓と戯れる図(向かって左)でした。

図5.門墩の「獅子戯鞠」の図(向かって左)

図6.門墩の「獅子戯鼓」の図(向かって右)






  石獅は、向かって右手の左獅を「青龍」、向かって左手の右獅を「白虎」といいます。台座をセメントで固定していますが、もとは元は学堂にあったものを移設したものです。





  獅子なのに名前が青龍、獅子なのに白虎というのは、これが風水説の地脈をあらわすからです。左は青龍、右は白虎です。村の中央線上にあるので、やはり村落風水の全体性と、地脈に関連して、珍しく石獅に名前がついているということでしょう。村全体からの方位では、青龍は東側〈正確には東南側〉にあり、白虎は西側(正確には西南側)にあります。





  水源頭村は西北に座し、東南に向かう位置にあります。後方は太子山を背にし、東は駱駝山、烏亀山(うきさん)があり、西は宝塔山に囲まれます。



図7.秦家大院主巷道(背後は太子山)

図8.村の全景、烏亀山を背後に望む

図9.駱駝山を背後に屹立する馬頭墻


  村の前の渓流にある金盆橋は村からの水の流れ口である「水口」(漢語:シュウコウ・すいこう)に当たり、財気が流れるのを防ぐ鎖に当たるという解釈がなされています。理想的な後ろを山に、前に水にという風水上の地形「背山面水」(漢語:ペイサンミィエンシュイ・はいざんめんすい)を立地としています。

図10.村の風水に不可欠な橋、金盆橋



  そうした風水上の立地の上に、さらに村の邸宅群を守る石獅がいるのです。
[門神を先祖とする村]
  なお、水源頭村は門神の加護を受けた村です。日中戦争中の日本軍もこの村には入らなかったといいますが、村の防備が何重もの壁面で囲まれて堅固だったからかもしれません。 それというのも、秦家の人たちは唐代の名将軍、秦瓊(しんけい・571-638)の末裔であるというのです。
   秦瓊は山東の人、唐朝の建国の功臣で、李世民(りせいみん)を助けて 王世充(おうせじゅう)、竇建德(とうけんとく)・劉黒闥(りゅうこくたつ)を下し、翼国公(よくこくこう)に封じられています。唐朝の内乱の玄武門の変でも李世民の側につき、李世民とともに太子建成と斉王元吉を誅殺しています。この功により左武衛(さぶえい)大将軍に叙せられ没後、胡国公に追封のうえ昭陵に陪葬されています。
 
   門神として今日に至るまで人々の門を守り、右門神(うもんしん)尉遅恭(いちきょう・字は敬徳)とともに左門神(さもんしん)秦叔宝(しんしゅくほう)となっています。



[追記:水源頭村の沿革]
   村の紹介によると、唐末天裕年間(904-907)の戦乱中、始祖秦徳祐(しんとくゆう)が山東から移り住んですでに40代を数えるということです。そんなに古いのはちょっと正しいかどうか眉唾です。
 



 ただ、いまの村の原形は明代にできています。



  明代初頭の洪武年間に山東青州(益都県と記す族譜もあり)より広西は霊川に移住、のち玄孫(やしゃご)に当たる五代後の人物が水源頭に移住したもののようです。光緒年間の石碑ですでに9代とのことで、明代中前期頃の創村ではないかとしています。




  また、最古の邸宅は徳祐楼という堂名で、明初洪武十三年(1380)の建築と説明にあります(族譜との照合上時代が合わない)。始祖である秦姓の徳裕公を記念した名です。




  少なくとも家屋をみる限り、この時代の徳祐楼(とくゆうろう)が最古で、これ以上古いものはありません。人口は112户、428人。東南向きの村です。文武ともに優れた村で、武状元1名、文科進士20名、挙人数10名を輩出しています。