こんな所に!! シップソンパンナーのアショーカ王柱式狛ライオン(中国雲南省西双版納傣(タイ)族自治州景洪市曼飛龍塔)

   

図1.曼飛龍塔の四頭獅子柱頭(左右同じ造形です)

  雲南西南部のシップソンパンナー地方(「十二の納税〈水田〉地域」の意味)は、タイ・ルー族の居住地です。メコン川の広大な扇状盆地ムン・ツェンフン(景洪盆地)(タイ・ルー語のムンはタイ語のムアン同様、盆地の意味)に、タイ・ルー族が水稲耕作をして暮らしています。




  なかでも、大勐(孟+力)龍(ダーモンロン)地区は、熱帯なので、年に三回もお米がとれる豊かな穀倉地帯です。12世紀末より、各盆地の豪族が連合をはじめ、13世紀にはシップソンパンナー王国(12世紀末-1956)の形が整います。




  上座部仏教の国ですが、14世紀にいまのタイ北部のラーンナー王国(マーンライ朝1・294-1558)から受容しています。経典で使う文字もラーンナー文字と共通です。二つの国の王族間には、婚姻関係もありました。王家はムン・ツェンフンの王としては、中華人民共和国成立期まで存在しています(参照:川野明正2013『雲南の歴史─アジア十字路に交錯する多民族世界』白帝社:192-197頁←自著宣伝すみません。出版社に恩義がありますので・笑)。




  曼飛龍(マンフェイロン・フェイロン村の意味)村の背後の山にある仏塔(チェディー)は、地元タイ族は「タケノコ塔」(現地のタイ・ルー語で「ターノー」というらしい)と呼び、西暦1204年(1746-1747)にできた煉瓦造りの塔です。中央の塔とあわせて9座の塔をもちます。

図2.参道階段両側に立っています。逆光でみえにくいです。



  石段を上がった入り口を守るのは、なんとアショーカ王の柱に似た四頭獅子柱でした。マウリヤ朝第3代アショーカ王(在位BC.268-232年頃)は仏教の保護者として知られています。






図3.インドの国章(アショーカ王柱頭のデザイン)(ウィキペティア「インドの国章」より)


  ブッダ初転法輪の地、サールナート出土石柱の柱頭は4頭の獅子が背中合わせ表現された有名なもので、インドの国章になっています。前3世紀後半の砂岩製の柱で、高さ 213㎝あります。本物はサールナート博物館所蔵で、展示されたレプリカがパキスタンのラホール博物館にあります。アショーカ王の柱は法勅文を刻んで、当初30本が立てられました。
 



  有名なスフィンクスがエジプトにいるように、獅子像の起源の場所はメソポタミア・オリエント・インドに至るまで広汎ですが、そのひとつであるインドでも、実際にライオンが生息していて、インドライオンがいます。





   サールナートのものが、リアルなライオン像であるのに対して、こちらシップソンパンナーの四頭獅子柱は、たてがみがベールのようになっていて、ちょっとエジプト風みたいな雰囲気です。しかし、シップソンパンナーで主流の南伝上座仏教系の、角の立ったシンハ系獅子像(タイ族語の「シン」・Shin・ミャンマー語の「チンテ」・Shinthe)とは一線を画して、なかなかきちんとしたライオン像です。




  対して仏塔を守るのは、上座部仏教の2頭のシンハ系獅子像でしたが、こちらも紅い目がなかなかいい感じです。インド式写実型ライオン像と、上座部仏教型シンハ系獅子像が同居しているのも面白い光景です。

図4.曼飛龍仏塔


  インド式ライオン柱頭は、いつの時代に立てられたかは判然としませんが、そんなに古そうにはみえません。



  しかし4頭合わせ(左右合計8頭)のこの狛ライオンをみていると、上座部仏教のこの地で、本物に近いライオン像をブッダとインドとアショーカ王に敬意を表して取り入れたのだと思うと、感激ひとしおです。

この種の連続頭の柱頭は、ラオスのルアンパバーン王国(1707- 1949)の王家が第二次世界大戦後の時期に国王を継承したラオス王国(1949-1975)も三頭白象(エラワン)で、ワット・タート(ルアンパバーン)にも四頭の男性人頭柱が左右で立っていたりしますから(FB「狛犬さがし隊」檜田容子さん8月22日報告)、造形としては上座仏教圏にもよくみられる造形でしょう。



図5.ラオス王国の国章

図6.泉の女神ナントラ・ニー


  仏塔の脇の泉には、水の女神「ナントラ・ニー」が長い髪から水を滴らせていました。こちらはラオス・タイ・カンボジアまで各所の泉や井戸に、広くおられます。

図7.仏足石

  参道上部はナーガが守り、多頭ではなく、単頭の角が鶏のトサカのようなタイプでした。
 

  仏塔内部に御釈迦様のは仏足石がありました。

図8.シンハが左右に守ります。

図9.ナーガも左右に参道上部を守ります


  なお、シップソンパンナーでもかわったシンハはいて、景洪市内の勐罕(モンハン)鎮のお寺で柱石に使われているシンハは、金のたてがみをまん丸く光らせて、仏法に帰依した喜びを、満面の笑みで表していました。

図10.モンハン鎮の寺院のシンハ柱石(タイ族風情園内の寺院にて)







イケメン!! 韓流若獅子先生─良洞小学校の彩色石獅
(大韓民国慶尚北道慶州市江東面良洞里)




    良洞村(ヤンドンマウル)は、河回村(ハフェマウル・慶尚北道安東市豊川面)とともに韓国の世界文化遺産の伝統村落です。朝鮮戦争での国土の荒廃にもかかわらず、よく村落の原形を留めています。「良洞民俗村」(ヤンドンミンソクチョン)ともいいます。


図1.オレンジ若獅先生〈向かって右〉

 良洞村に住む血縁集団は孫氏・李氏の2大姓です。いずれも両班(ヤンバン)階級の家柄です。

図2.オレンジ若獅先生〈向かって右〉

 小学校は鉄道脇にあって、村の前方の敷地にあります。校門を守る石獅は、韓流若獅子で、なかなかのイケメン、教育への情熱に溢れています。



  姿カタチは、爪の形、胸を張った姿、巻き毛の具合など、唐獅子です。足毛の巻き方などは唐代の石獅を見るようです。台座は新しいので、現代の作品のようですが、韓国で中国式の石獅を造る場合の感覚が良く表れています。




  小学校を守る若獅子先生は、彩色され、中国風に言えば、緑獅と金獅です。しかし色使いは中国風ではなく、鮮やかな若葉色と橙色です。

図3.若葉獅子先生

 若葉色の右獅(校門に入る側からは左)が正面を見据え、橙色の左獅が横を向いています。そっぽを向くのではなく、校門を跨(まだ)ぐ小学生を慈愛の眼で見守っているのでしょう。

 尻尾がどこかライオン的で、中国風ではありません。中国的でないのは、首の鈴がないとか、2頭とも若雄獅にみえるということもあります。鼻の周りは「ヘヘン」と八の字ヒゲみたいです。


   耳が獅子の耳というより、犬耳です。頭の螺髪的表現がなく、むしろ頭の毛は流れるように下がって、あごヒゲは巻いています。唐獅子もあごひげが巻く表現がありますが、ここは中国の石獅よりも日本の狛犬的表現に近く感じます。みなさんはどう見立てられますでしょうか?


図4.世宗大王さま

   狛犬に近づけ過ぎる見方は禁物と思いますが、韓国で彫られたから、当然韓国人なりのデザインで造っています。あるいは日本統治期の狛犬のイメージも少しは混入したかも知れません。中国的石獅とも狛犬とも雰囲気が違うのが好ましいです。


  ところで彩色石獅は、台湾や東南アジア華人社会にも多く、中国文化の周縁部で多い傾向にあるので、その点は韓国も立場が近いのかも知れません。

  黒い眼とまつげみたいな表現と、清廉潔白のイメージを演出する白い歯ならびが、いかにも正義の若獅子らしく、凛々しくて韓国人の好みを感じます。



  その脇に立つ立像は、ハングル文字を『訓民正音』で制定した世宗大王(セジョンテワン)こと、李朝の国王李祹(イド・りとう・1397-1450・在位1418-1450)です。大王がつく国王は韓国では少ないのです。



   最後に、良洞村の沿革を簡単に紹介しておきます。



    良洞孫氏・李氏の2大姓の沿革を述べますと、『良洞民俗村』(日本語版・慶州市観光振興課 出版年度不明)によると、驪州李氏の李光浩がこの村に居住し始め、孫婿の豊徳柳氏柳復河(ユ・ボクハ)が住み着き、孫昭(ソン・ソ、1433-1484)が、この村の柳復河の1人娘と結婚して、1457年より良洞村に居住、妻の実家を嗣ぎます。その後、李蕃(イ・ボン、1463-1500・朝鮮王朝第9代王である成宗〈1433-1484年〉に寵愛された人)が、孫昭の娘と結婚して村に移り住み、孫氏・李氏が村に代々宗族を形成しつづけます(慶州市観光振興課 出版年不明:6頁)。



  このように良洞村では、当初妻方居住の婚姻習慣が目立ちます。
  


  この村は「勿峰」という立地上の山名の漢字に連想される地形にあります。そのため、日本統治期に、鉄道建設で反対が生じます。鉄道が通ると、村の形が風水説上の見立てで、「血」になるのが問題です。村の「地脈」=命脈そのものを断たれると思われたのです。



   そこで鉄道の路線計画を右方に回してもらい、小学校の建物を東向きに変え、風水の佳さを保つ工夫をしたといわれています(以上6-7頁)。
         

  
 近代台湾での縦貫鉄道反対運動にも通じますが(いまの台南市塩水区など)、近代の植民地統治下での、伝統的観念に生きてきた両班(ヤンパン)階級の苦悩の経緯が、小学校の立地選定と、鉄道建設に対する日本植民地政府との交渉に表れています。



図6.香壇
村の入口からもっとも目立つ場所に位置する香壇(ヒャンダン)。朝鮮時代の東方五賢の1人として王の信任厚かった文臣・李彦迪(イ・オンジョク)が慶尚道の観察使として赴任する際、王・中宗(1488-1544)が彼が母親の看病をできるようにとこの地に建てたもので、立派な瓦屋根と美しい家屋で構成されています。当時は「興」の字形という特徴的な平面構造をもつ99間の大屋敷でしたが、一部が焼失し、1976年に56間で縮小復元されました。「香壇」とは、李彦迪の孫・李宜澍(イ・ウィジュ)の雅号にあたります。




参考文献:


善生永助調査 1934『慶州郡』(調査資料第四十輯生活状態調査〈其七〉)朝鮮総督府
 
著者不明 出版年度不明『良洞民俗村』(日本語版・慶州市観光振興課 

「将軍箭」碑─子供の厄運に立ちふさがる石碑
(広西壮族自治区桂林市)


  「将軍箭」(ジャンチンチィエン・しょうぐんせん)の石碑は、中国の南部でときどき見る民間信仰のための石碑です。広西壮族自治区の桂林市一帯でとくに盛んです。分かれ道に立っています。いくつも立っている賑やかな辻もあります。

  事例1.水源頭村の将軍箭碑(桂林市興安県白石郷水源頭村)
「命長富貴」
「開弓玄(弦)断」(弓の弦が切れますように)
「左開弓水源頭白竹」
「右開弓興安県」
「季君清」
「一九九〇年七月二十二日」


図1.水源頭村の将軍箭碑


  事例2.霊田郷の将軍箭碑(桂林市霊川県)
「左は双潭」「右は霊田」
「児童帯了将軍箭、君子路過念一念、改弓又改箭」
(子供が将軍箭の運命、君子さまはこれを読んで、弓矢の向きが変わりますように)


図2.霊田郷の将軍箭碑

  左右の路の分かれ目のみちしるべになっていますが、じつは子供の厄運を祓うための石碑です。二番目の石碑の文句でわかります。一番目の石碑は個人の名前まで書いています。

図3..霊田郷の擋箭碑


  厄運を放つ将軍箭という矢を、この石碑が防ぐことで子供の健康を守るのです。泰山石敢當ともよく似た魔除けの石碑です。


図4.霊田郷の路上に集中する将軍箭碑
  では将軍箭とはなにかというと、子供の人生で起きるであろう36項目、24項目、12項目の危険があって、これを関門にみたてます。この関門には担当の悪鬼がいて、「関煞」(クワンシャー・かんさつ)といいます。それを占って解除する儀式を民間祈祷師を呼んで行います。



図5.雲南省大理白族自治州巍山彝族回族自治県の「将軍箭」のお札


  他にはやけどをする「燙火関」(タンフゥオクゥアン・とうひかん)、橋が壊れる「断橋関」(トゥアンチャオクゥアン・だんきょうかん)、天狗星の厄運である「天狗関」(ティエンゴウクゥアン・てんぐかん)などがあります。

図6.獅子頭型石敢當(広西壮族自治区桂林市陽朔県旧県村)
  その措置として、石碑を立てるというわけです。石碑の下には子供の生まれた年月日時などの情報が入っているはずです。ある時期に弓で射られるがこどき厄運があり、軽ければ出来物ができたり、酷いときには命を落としかねないのです。暗に弓を射られることで、命が危うくなるという観念は、発想としてなかなか恐ろしいものです。男の子に害があり、女の子の厄運を呼ぶものではないようです。

  また、藁人形で子供の厄運を替わりに転嫁する方法もあります。やはり子供の生まれの年月日時の情報を記します。それを竹の弓矢で射ます。

  しかし石碑の二番目のものは、夜泣きの呪文から来ている文句で、通行人はこれを呼んで子供の厄運を解除してあげることができるらしいです。不思議な内容ですね。

  ちなみに将軍箭の名でイメージされる将軍は、弓の名手の将軍で、前漢の匈奴征伐で活躍した李広(りこう・? - 紀元前119)を指して、李広将軍箭ということもあります。

  
  虎に母を食べられて、虎に似た石を射たところ、その矢は羽ぶくらまでも射通したというので、石虎将軍といわれたといいます(『西京雑記』・漢代の記事を多く記す)。

  また隋代の将軍史万歳(しばんざい・549- 600・私の住む雲南も遠征している)は、弓の名手で、三番目の雁を言ったとおりに射落として、全軍心服したという故事があって、これを将軍箭ともいいます。








越族顔の吊り目石獅
(広西壮族自治区賀州市八步区賀街鎮陳王祠)





  広東・広西地方の古代越族の地らしい一風変わった鋭い目つきの石獅と、廟前の石彫りの立派な香炉があり、南方らしい楽しい雰囲気があります。目玉も表情も、首の下の幾何学模様も、まるでクメール系のシンハみたいです。鈴はでっかいです。

図1.雄獅(向かって右)






  石獅は2匹とも阿形で口を開けています。ガルーダ的な吊り目と突きだした口元で、額もマンゴー形でチャクラ全開です。こういう顔の人、じっさいに広東・広西地方にいます。越族顔といえるでしょう。

図2.雌獅(向かって左)


  眼光がするどく、口も鋭く、たぶん発する声も広東・広西系で「ガウガウ!!」ではないでしょうか?




  向かって右が雄獅は玉を踏み、向かって左の雌獅は、仔獅を逆さにしてあやしています。





  一つ残念なのは、大香炉同様、コンクリ製なので、最近の作品であるはずだということです。でも、デザインも造形技術も、上手ですよね。




  陳王祠は、開漳聖王(かいしょうせいおう)を祭祀しますが、実在の人物で、陳元光将軍(ちんげんこう・625-711・河南の人)で、唐代に今の広東省東部の潮州、恵州などの賊を平らげ、漳州の政治を40年にわたり司り、のち戦死した人物です。宋代に開漳主聖王に追封(ついほう)され、明朝・清朝もこれにならって追封したことがこの神号の由来です。



図3.陳王祠全景


  福建省漳州の移民の廟堂だと思います。廟堂の歴史は不明ですが、現在のものは、清末くらいの建物でしょうか。


図4.川辺の埠頭で洗濯するご婦人たち

  賀州市は、平地には客家(ハッカ)系漢族の村落が伝統的な集合住宅に住み、広西系の人たちのみならず、多数の系統の人々がいます。

  街には「抱鼓型門墩」(ほうこがだもんとん)がやたらと多いですが、かつての移民した折りに移動した車輪をあらわすといわれ、各地の移民が集まった中国の南端の街「「であることを物語っています。



  山間部は山地民のヤオ族(漢字:瑤族・ミャオ・ヤオ語群ヤオ語系)が住んでいます。漢族文化の影響を受けて、ヤオ族も学問が得意な人が多いです。


図5.「抱鼓型門墩」(ほうこがだもんとん)がやたらと多い街ですが、かつての移民した折りに移動した車輪をあらわすといわれ、各地の移民が集まった中国の南端の街です。

韓国の「ヘテ」─朝鮮半島の角なしカイチ

(大韓民国ソウル特別市徳寿宮中和殿)





   朝鮮半島での狛犬的霊獣では、「ヘテ」(海駱・Haetae)が知られています。韓国で門前や殿前の両側を対で守る霊獣です。




図1.徳寿宮中和殿前のヘテ全身像(左右対称なので1体しか撮りませんでした・反省)




  ヘテは犬ではないし、獅子でもありません。その起源は中国の独角獣(どっかくじゅう)の「獬豸」(シィエチー・Xiezhi・かいち)から来ています。獬豸は、麒麟は角二本、石虎・石獅は角がなく、そこで区別できる霊獣です。正邪を見分ける能力を持つといわれ、お裁きの場に現れればとても有り難いです。その性格から、中華民国国軍の憲兵の肩章には、獬豸が刺繍されています。

図2.中華民国国軍憲兵の肩章にかかれた「獬豸」(カイチ)



  韓国のヘテは、姿かたちは獅子に似た霊獣です。獬豸の朝鮮語読みのヘチ(Haechi)から来ています。独角獣の獬豸は、牛か羊に似るとされます。しかし有名なソウル景福宮の光化門前のヘテは、角がなく、巻き毛で獅子の系統を濃厚に感じます。ヘテは火を食べるので、宮殿を守る火伏せの役割があります。能力は正邪を見分ける能力を持つとされて、獬豸の血統を感じます。しかし角がないのが、朝鮮半島のヘテ独特の姿です。





  朝鮮半島では、5・6世紀の古墳に独角獣像があり、新羅の官服には獬豸があったといいます。李朝時代は、19世紀になってから、景福宮前の光化門に設置され、20世紀初頭に、徳寿宮内にヘテの像が対で設置されています。





  光化門のヘテは、角がなく、獅子のようで、巻き毛がありますが、麒麟のように鱗もあります。身体はずんぐりと胴長で、足も太いです。鼻が大きく、口は牙が2本出ています。


 

 徳寿宮の中和殿と中和門にあるヘテは、階段状に置く構え型の霊獣で、タイ王国チェンマイのワット・プッパラムの狛トガゲ同様の、龍か獅子かという当惑に似た、圧倒的な印象を与えます。






   徳寿宮は元は王族の邸宅で、文禄の役で王宮が焼失したため一時的に正宮の代わりになり、19世紀後半に、第26代の高宗は1897年に改装し、再び王宮とされました。徳寿宮の多くの建物は、ヘテの居る中和殿・中和門なども含めて1902年竣工ですが、1904年に焼失し、1906年に再建されています。中和殿のヘテは1902年からの歴史だといえます。

図3.徳寿宮中和殿前殿階下のヘテ頭像




  中和殿は徳寿宮の正殿です。広場には品階石(ひんかいせき)があって、官僚の官位毎に整列します。


図4.中和殿前の双龍石板

  中和殿に上がる石段は、中央に双龍を刻印した石板があり、その両脇をヘテが守っていますが、ここには2対の全身像、2対の首像の合計8体のヘテがいます。中和門にも同種の全身像があります。じつはヘテ像は、左右同一形で、どれも区別なく彫られています。

図5.中和殿とヘテの配置


  全身像のヘテは、石段上に長く構えているので、一見は龍のようにみえます。長い全身はうろこに覆われており、背面には巻き毛もあります。頭部は巻き毛があり、両目も鼻も大きいですが、とくに鼻の穴が大きくて、目を惹きます。やはり角はありません。口は牙は2本出ていますが、閉じています。でも、鼻息が荒いので、それで充分のようです。


図6.中和門とヘテ
   頭像は、殿階下に首を出しているのですが,鈴をぶら下げているので、王室に飼われた存在であることを表しています。やはり牙が二本出ています。





  ヘテは、慶福宮脇の民俗博物館にも李朝時代のものが展示されています。一頭は四つ足で立つ獅子のような角なしヘテですが、麒麟や獬豸にみられる火形紋があります。水を飲もうする姿と思います。



図7.民俗博物館内のヘテ


  木彫の左右一組の屋根部材の装飾品のものは、龍身のようにみえますが、独角獣です。水にかかわる瑞獣らしく、腹部に水紋が刻印されています。へてによくある背中あたりの細かい円紋もあります。この木彫ヘテは、李朝時代にも独角獣タイプのものがあったことを示しています。

図8.民俗博物館内の木彫ヘテ(向かって左)

図9.民俗博物館内の木彫ヘテ(向かって右) 

  ヘテはソウル市のキャラクターやマスコットとなっています。このマークは、光化門のヘテのようです。下のハングルは、ヘチ・ソウルと書いており、獬豸の音訳を使うので、近年では、ヘテでもヘチでもともに使えるようです。



図10.ソウルのキャラクターとなったヘテ



   また、ロッテに次ぐ勢いの製菓会社、ヘテ社の社名とマスコットになっています。韓国にいけない方は、「トッポッギスナック」(トッポッギは韓国風モチで、甘辛ソースで煮込まれている)を買ってみてください。そこにヘテの可愛いキャラクターが描かれています。


(2009年3月28日取材)


   日本でのヘテは、東京世田谷の多摩川のほとりにある善養寺に一対の朝鮮半島系の角なしヘテが門前に座しています。火伏せのヘテは、仏寺では煩悩の火を消す宗教的な聖獣となっているのです。頭は牛、胴は獅子、足は駱駝、身は鱗をまとうとされています。





   兵庫県加東市の新興宗教系の念仏宗無量寿寺の手水舎には、最近制作された独角ヘテが水を飲もうとしています。阿吽の一組もおられるようです。