名門の獅子はやっぱり欲張り
─山西西文興村司馬第の石獅型門墩と抱鼓型門石
(山西省沁水県土沃郷西文興村)




   山西省南部の西文興村(さいぶんこうむら)は、唐代の政治家・文学者柳宋元(りゅうそうげん・773-819・いまの山西最南部の人)の末裔の村の1つとされています。明初の1406年(永楽四)に、柳琛(りゅうちん)という人物が、科挙の最終試験の殿試で、三番目のグループの成績を収めて、現在の地に立村しています。


図1.石獅型門墩と抱鼓石(向かって左・19世紀初)



   司馬第(しばだい)は、明代に建てられ、清代に改修しています。邸宅の門前に、堂号で「司馬第」と書いています。司馬は、先祖の爵位を表しています。柳琳という人物が、科挙の最終試験の殿試で一位で合格して「状元」(じょうげん)となったので、4代続けて遡って官位を追封されています。柳琳は正二品の官位で、侯爵に封じられています。

図2.石獅型門墩と抱鼓石(向かって右・19世紀初)




   門楼は嘉慶六年の建立ですから1801年、19世紀になったばかりの時に建てられました。

図3.門楼全体





   門の軸受け石である「門墩」(漢語:メントゥン・もんとん)は、門石と左右二重に組になっていて、石獅のいる方が、門墩で、その外側に抱鼓型(ほうこがた)の門石を置いています。これは山西省南部の豪邸の門前スタイルの組み合わせです。


図4.九層組の斗拱

   これだけ豪華な石彫の構成にするのは、やはり中国北方では、門墩は貴族・官僚の家の象徴として、威風堂々建てるという観念があるからです。「太師・少保」(たいし・しょうほう、皇帝の子弟を教える正職と副職)の「師」(シー)は、獅子の「獅」(シー)を掛けています。また、石獅の気魄は、「神獅鎮宅」といい、「神」(シェン)=「縄」(ション)で、獅子を門前に繋げて家を鎮める意味とします。







  石獅は鼻が極端に大きな半月状で、山西省の石獅の特徴があります。左右の石獅は、鞠の紋様を除いて左右対称ですが、ともに鞠と仔獅をもつ欲張り獅子で、両方の持ち物をもつ石獅は珍しいです。雄獅と雌獅の区別は、だからまったくつきません。








  その上、左右の抱鼓石上にも、左右2頭、合計4頭の仔獅が遊んでいます。したがって合計6頭の子だくさんです。





  子だくさんはもちろん家門繁栄の意味があります。これは豪邸の石獅に多い造作です。門の鴨居に「門釘」(漢語:メンディン・もんてい)が4個も並んでいますが、「門丁興旺」(漢語:メンティンシンワン・もんていこうおう)で、子孫繁栄の意味で、門扉の上下を対応させているのです。






  家門の地位は、門楼最上部の九層組の斗拱(ときょう・枡組の支え部材)に現れていますが、プライドの表現は徹底していて、「自慢して良い」中国の伝統文化の特質が良く表れています。この名門の豪邸石獅も同様のアイテムです。






  そして徹底した縁起担ぎの象徴論で満たされた門楼の宇宙のなかでは、石獅もその一部でしかないため、石獅を門楼全体の象徴世界の中に位置づけから見ていく必要があるという典型的な事例と思います。









「ムグダはん、怪体(ケッタイ)どすえ!!」
─ムグダハンのワット・シ・モンコル・タイの人面獅子像
(タイ王国ムクダハン県ムアンムグダハン郡)





   FB「狛犬さがし隊」で、海老原眞澄さんが2014年9月13日掲載記事に、タイ北部のチェンマイのワット・プラシンの石獅をご紹介されています。その獅子がどうも人面獅子のようにみえました(とくに前方の仔獅つきの方)。そこで参考までに人面獅子の事例を1体と1組、私も掲載しましてご紹介します。

図1.人面獅子像

図2.象像

  タイ東北部イサーン地方のメコン川西岸の街・ムグダハンは、対岸のラオス側のサワンナケートとを結ぶ国際埠頭で、ヴェトナムとタイをラオスを夾んで結ぶ東西回廊の要衝です。



  その渡し船乗り場斜め向かいにあるワット・シー・モンコル・タイ(Wat Si Mongkol Tai)では、お堂の前を象像(ぞうぞう!!)と人面獅子像が組になって守っています。怪体(けったい)を極めていますが、どうも年代は古くはないかにみえます。

図3.お付きの人拡大図

  象像も変わったお姿で、頭の上まで鼻があるようで、たてがみのような毛が鼻に走っています。これだけみても、金輪が皮膚に喰い込んでいたりして、相当パンキッシュです。




  それと組になる人面獅子像は、もう訳がわかりません。日本人が馴染みが薄いからかもしれませんが、南伝上座部仏教の世界は、「わからん!!」とお手上げしてしまう図案や意匠が乱舞していて、まったく凄い世界ですね。

図4.生首拡大図



  人面獅子さまは、顔も人間かどうかわからないグロな雰囲気です。




   ケンタウロスみたいに四本足の上に、胸を張っていますが、肩はあるのに腕はありません。




  仔細に見ますと、人面獅子さまの背後には、やっぱり鳥人さまがトリ憑いておられるようです。鳥脚が確認出来て、目玉が横から見えます。これはなかなかに重い構図ですね。「子泣きガルダ」みたいなものですから、人面獅子は、じつは背後のガルダみたいなお方に操られているだけなのかもしらんです。


  図5.背後の人拡大図 

  人面獅子の背後から様子を窺うその目線は、神保町の某喫茶店の嫉妬深いマスターが、柱の陰からいちゃつくカップルを眺める目とそっくりで、私としては望郷の想いに駆られるわけです(笑)。


  しかし前の黄金マスクの人も、目が光って知的に見えます。故大島渚監督を彷彿(ほうふつ)させます。

図6.おさるさん生首拡大図


  前面にお付きの武者らしきものがいますが、その両脇はトガゲが這い上がっています。
なにか人面獅子の生け贄のようにみえますが、そうではなくて部下でしょう。お付きの者はさらに生首を踏みしめていますが、この生首、フツーの顔をして痛くも痒くもなんともないようです。台座にはそのほか、二種類の全く表情の違う猿の生首があって、一匹は知的で考えているような表情なのに、もう一匹はひょっとこ猿でひょうきんなお猿さんで、しかし生首です。



  田村愛明さんのコメントでは、青面金剛(しょうめんこんごう)がショケラ(人像)の髪を引っ張って吊したり、邪鬼を踏んだりといった造作みたいとの感想ですが、金面ですが、青い身体でもありますし、猿があったりすることもあり、庚申塔のそれに似ていないこともないというところは確かに面白いです。
 

 人面獅子といえば、思い出すのは、ヒンズー教のビシュヌ神の6番目の化身である「人獅子」(ヌリシンハ)ですが、あれは顔がライオンで身体が人です。それに象像の相方としては格が高いかなと思います。

図7.人面獅子らしき像(向かって右)

  しかし人面獅子は、上座仏教の世界ではままみられますから(それらしき像が14-15世紀頃には出現しています)、やはり伝統的な意匠なのだと思います。わからないものはわからないままに、記述してご紹介いたします。

図8.人面獅子らしき像(向かって左)


  思うにあの相方は、これ以上無い強力な魔除けを造りたかったのではないかと思います。しかしタイとラオスとミャンマーとカンボジアと合わせてあれくらい強力な狛シンハが、一個連隊分くらい存在するとしたら凄いです。こちらのゾウさんも、リングが皮膚に食い込んで、そうとうパンクなお方なのに、目立ちませんね。





  そう思ってもう一度みやると、お堂の入り口左右には、さらに覆面レスラーみたいな狛獅子がもう一組左右に立っています。ミル・マスカラスかデストロイヤーか(あるいは仏法に帰依した2人のショッカーか)、といった感じで、こちらも小柄ながら強そうです。

図9.オールスターズ─お堂の全景


  ショッカー似といえども、ちゃんと巻き毛もあり,耳もありますね。ただ、身体の線の弱さが、覆面レスラーよりも、ショッカー似といわれてしまうわけですが、しかしその分表情で威嚇しているという感じでしょうか?







  最後にお堂の前のオールスターをみて考えました。なにか庚申塔とシンクロしたりするようなところでも、感性は違うわけですから、なかなか理解とはいきません。









  たとえば、ラオスの狛犬も、かなり宇宙的なところがあって、その感性のありかたが、ちょっと夢の世界みたいな幻獣ワールドみたいになります。メコン川の両岸のラオス側ビエンチャン郊外と、タイ側ノンカーイ郊外に、同じお坊さんが造った通称ブッダ・パークがあって、やっぱりかなり自由な想像力を展開していて、深層心理的にある原型イメージの世界の妙というか、流れ出てくるものの不思議さは強く感じます。






  私たちがふつうみえないピーとかを、その場にいるが如くみてしまう人たちだから、こういう世界をみているのかななんて思ったりします(結局わからないから、コメントが長くなるだけですが・笑)。
屋根の上の鎮宅風獅爺「瓦将軍」(金門県・澎湖県・台湾南部)




   屋根の上の風獅爺と呼ばれる「瓦将軍」(漢語:ワージャンチン・がしょうぐん)は、金門島や澎湖島にもあります。素焼きの赤陶製で、獅子像が口を開けています。特徴は獅子に武将や太子像が騎るものが主流ということです。この点が獅子のみの沖縄シーサーと違いますが、獅子のみのもあります。


図1.金門島古崗村の瓦将軍(武人像が破損する物が多いです)

手を前方に向けているのは、弓矢を射ているからです。しかしじっさいの弓はもたず、空弓を射ています。だから四方の魔除け「制煞」(漢語:チーシャー・せいさつ)が役職です。


図2.烈嶼の瓦将軍(太子像のようにみえます)


  台湾人の連横『台湾通史』(台北:台湾銀行経済研究室、1962年・原著、台北:台湾通史社、1920-1921)「風俗志」に「屋の上にあるいは土偶を立つ。馬にのり、弓をそらせて、状甚だ威猛。これを蚩尤(しゆう)という。厭勝(まよけ)となるいう」とあります。




   魔除けではあるけれどもは火の神でもあるから、火避けの意味もあるのとの説もあります。そうすると、武人が騎る以外は、シーサーと意味が変わらなくなってしまいます。火伏せの呪物としての性格は、風鎮めとも深く関わりますから、これを風獅爺と呼ぶ言い方もそれなりに根拠があるかもれしません。隣の「小金門」こと、烈嶼では村落の風鎮めの呪物である「風鶏」(漢語:フォンジー・ふうけい)は個人のお宅の屋根の上にも乗りますから、瓦将軍も風鎮めの意味はあると考えた方がよいと思います。


図3.烈嶼の瓦将軍(肛門の穴は瓦猫と共通)

  

  じっさい向きは東北か北向きが多いですから、風鎮めの役割を期待されています。良い作品は口から尻穴にかけて風が吹き抜けて音がするそうです。風の強さも測れます。ですから、鎮宅風獅爺と呼ぶことができます。




  なお、蚩尤は黄帝と涿鹿(たくろく)の野で戦ったとされ、銅の頭に鉄の額、砂鉄や鉄石を食べるという金属獣人そのものですから、じつは瓦将軍の武人姿とは離れているのが難点です。このイメージは武器を製造する神さまだからです。しかし、雨を呼び風を呼ぶのは、風伯・雨師(ふうはく・うし)の二人の神を味方につけ、天候や火災への対応は万全です。ですから、蚩尤は家を守る神さまとしてはうってつけなのです。




   人物については他にも、片岡巌の『台湾風俗誌』が、『封神演義』で東嶽大帝に封じられた黄飛虎(こうひこ)であるとし、実際に「黄飛虎在此」(黄飛虎ここにあり)と木版に書いて像の前に掛けてあるとしています。
 


  また、『封神演義』の主人公、姜子牙(きょうしが)の師弟である申公豹(しんこうひひょう)ともいわれます。五色神牛が乗騎なので、獅子に騎る姿とはいささか離れます。




  
  金門島では村落を守る単立の村落風獅爺が有名ですが、屋根上の個人宅の瓦将軍=鎮宅風獅も、とても大切な意味があります。4つほど列挙してみます。





   1つ目は沖縄のシーサーとの関係です。シーサーも元は村落を守る単立獅子で、屋根に登るタイプも登場してから、同様の2種があります。しかも、沖縄の村落シーサーも、屋根上シーサーも、金門島の風獅爺の2つのタイプも、姿かたちはそれぞれ似ています。






  2つ目は、中国の西南辺疆の雲南省にある「瓦猫」(漢語:ワーマオ・がびょう)と、金門島の屋根上風獅爺は、やっぱり形が通じ、中国沿海部と、内陸辺疆とを結ぶ糸がないわけではない点を挙げます。猫みたいとか、獅子みたいとか、顔立ちの違いはあるものの、口を大きく開けて魔除けとし、肛門に穴が開いている形態が共通する猫科の呪物です。


図4.昆明市呈貢県の瓦猫





   3つ目は澎湖島にもあったり、台湾南部の台南市にもありますから、分布が広いことで、浸透力もあるから、沖縄のシーサーとの近さも倍増します。





   4つ目は、金門島でも、地上に立たせる石像に、風獅爺だけでなく、石将軍があり、烈嶼にも、風鎮めの北風爺がいるということで、屋根の上の武人像が、獅子から離れて地上に降りているという考え方もできます。石将軍は、金沙郷六甲地区の鶯山廟に立つものは、弓矢の名手として知られています。




  このような意味から、この小さな瓦将軍、福建から内陸、あるいは澎湖・台湾・沖縄に到る民間信仰のありかたを考える上で、大事な呪物であるといえるのです。





参考文献:
連横1962『台湾通史』台湾銀行経済研究室、1962年(原著、台湾通史社、1920-1921)
片岡巌1983『台湾風俗誌』青史社,(原著、台湾日日新報社、1921)

狛犬は日本人町の夢をみるか?
─ヴェトナム・ホイアン日本橋の「狛犬」と「狛猿」
(ヴェトナムクゥアンナム省ホイアン市)



日本橋の狛犬(入り口から向かって右)


  ホイアン(Thành phố Hội An・タンフーホアイン・漢字::城舖會安)の日本橋の橋の守りは、狛犬と狛猿です。




日本橋の狛犬(入り口から向かって右)

  狛犬は蹲踞していて、左右見分けが難しいですが、しかし眼が可愛いらしく、愛着がわく表情です。日本人好みのスタイルの犬です。飼い犬の鈴もあります。ちんちんはついているようです。紅頭巾を載せています。

日本橋の狛犬(入り口から向かって左


 狛猿はお決まりの仙桃をもった屈託のない表情で、左右の違いは手の合わせ方で左手が上か右手が上かくらいの区別しかありません。やはり紅頭巾です。ひょっとしてひょっとすると、橋の西側が日本人町との言い伝えに基づいて、消失した日本人町のオマージュとして、狛犬をわざわざこちらに置いたのだとしたらたいへん面白いです。



日本橋の狛猿(向かって右)


  
  かつて日本人町があったヴェトナム中部のホイアンは、チャンパー時代からの古い港町で、フエの広南阮氏政権時代の16世紀末から阮朝(グゥエンちょう)期の19世紀にかけて、国際貿易都市として発展しました。


日本橋の狛猿(向かって左)




    17世紀初頭の約30年間(1604-1635)、江戸幕府との国交で長崎から出港する朱印船貿易が盛んで、それ以前に形成されていた日本人町も繁栄します。江戸幕府の鎖国政策で衰退するまで、日本人町は活気がありました(1635年のいわゆる第3次鎖国令では、すべての日本人の東南アジア方面への海外渡航と帰国を禁止した)。

ホイアン日本橋



  朱印船全部の71隻から73隻が広南国の港に寄港したとされ、朱印船の5隻のうち1隻はホイアンかダナンに寄港したといえます。1623年にはオランダ商館も設置され、ポルトガル人・オランダ人・日本人・中国人が往来する国際色豊かな賑わいでした。

ホイアン日本橋


   ホイアンの日本橋は、正式には「来遠橋」(らいえんきょう)といい、当時は西と東に日本人街と華人街があり(どちらが日本人街かはまだ定説をみない)、2つの居留地を結ぶために1593年(文禄二)から1595年にかけて造られたとされます。これが申年にはじまり、戌年に完成したため、橋の東端の左右に猿が座り、橋の西端の左右に犬が座るのだといわれます。橋の入り口に仏手柑(ぶっしゅかん・仏の手と福に近い発音〈仏=フォー・福=フー〉で吉祥の果物)が左右に彫ってある方が猿、ザクロ(多産の象徴で吉祥果)が彫ってある方が犬です。



橋の中央北側に祠があります

   しかし日本には少ない屋根付き橋で、現在みる様式は中国式の廓橋(かくきょう・屋根付き橋の漢語名称)に近いです。ヴェトナムでも他の屋根付き橋はフエ郊外にある程度です。






   ですから、後の世紀に、中国人が再建に関わった際に今日の形になったと考えた方がいいと思います。広南国の1763年、阮朝の1817年・1875年と重修されていて,それ以前の様式を窺うのは難しそうです。






   両端の狛犬と狛猿ですが、様式の変化を考えれば、当初の状態と考えるのは難しいので、当初からあったと考えるのは無理があります。猿と犬は、着工と竣工を表すというより、猿も犬も魔除けの類で、ともに橋を守る役目で座っているのだと思います。





   猿は中国・日本でもそうであるように、馬を守る猿像である可能性もあります。あるいは猿の漢語が、「猴」なので、「侯」に封じられるという栄達の意味があることもあります。





   ですから、橋上の狛犬は、日本橋の狛犬でもあるものの、確たる証拠がない以上、日本式の狛犬と考えるのは難しいと思います。
  
 


   なお、ヴェトナム人は、この橋をチュア=カウ(chùa cầu)、つまり「寺橋」と呼んでいます。中央が祠となっているため、「寺と橋」の複合体という感覚で見ているようです。 
   

  附記:世界でも最南端の狛犬は、旧日本委任統治領で、玉砕地であるペリュリュー島に再建されたペリュリュー島神社の狛犬ではないかと思います。しかしミクロネシアはアジアではなく、太平洋地域だから、ひょっとしてひょっとすると、こちらの狛犬がアジア最南端かも知れません。マレーシアのムアーに何故か石狗がいますが、こちらは単立です。
 (2014年5月31日取材)
中国浙江・江蘇地方の泥人形「蚕猫」(ツァンマオ)
ー養蚕守護の日本狛猫とのつながりから
(江蘇省無錫市恵山区・浙江省嘉興市余新鎮)






   FB「狛犬さがし隊」吉見直高さんの2014年9月9日の記事で、京都丹後の峰山金毘羅神社の木嶋社にある狛猫のご紹介がありました。養蚕が盛んだったために蚕を守る猫として狛猫となっているとのことでした。





   それで思い出したのが、同じく養蚕が盛んな中国江蘇省や浙江省での「蚕猫」(漢語:ツァンマオ・さんびょう)の泥人形のことです。





   狛犬や石獅のように、対偶で門前を守る呪物という訳ではないのですが、魔除け猫つながりということで、みなさまどうぞご海容ください。

 


 

   個人的には雲南の鎮宅魔除けの「瓦猫」(がびょう)や、金門島の「風獅爺」(ふうしや)や、大陸の「石獅」(せきし)同様、ネコ科の呪物として同系列で眺めております。狛犬とは犬と猫でつながりが薄いので、恐縮です(犬も猫ももとの先祖は同一ですが・笑)。







   蚕猫は、蚕室のなかで、蚕猫を籠に入れて置いておいて、「鼠避け」のまじないにするものです。猫が鼠を食べる木版画も、窓に貼ったりしました(鼠避けの木版画そのものは、中国では「鼠の嫁入り」〈「老鼠嫁女」〉の版画が、中国でもヴェトナム北部でもあります)。





   部屋の外にも鼠避けの石像を作って設置する習俗もあり、単身だけれども、少し狛猫にも似たところもあります。

 

 

   新暦4月の清明節(墓参の節句)の前後、婦人たちは杭州の養蚕守護の女神である、半山娘娘(漢語:パンサンニャンニャン・はんざんじょうじょう)に行って、蚕の無事を祈願する「蚕香」(さんこう)の線香を捧げます。そのとき、「蚕猫」の泥人形が縁日の屋台で売られます






   シルクで有名な浙江省杭州の風俗誌である清・范祖述(はんそじゅつ)『杭俗遺風』(こうぞくいふう)では、「半山では泥猫を生産する。大小の塑像は生けるが如しである。蚕房におき、あるいは親戚・友人に送る。およそ半山にいたる者は、泥猫を買わぬものはいない、たこの時だけの縁日だからである」と記しています。







  それで以下、日本の狛猫にちなんで、中国江蘇・浙江両省の蚕猫をイラストで紹介します。






  手元に現物がないので、描き起こしましたが、まあ笑って見てやってください(笑)。






  江蘇省無錫市の恵山区(けいざん)の泥人形での清代の蚕猫は、黄猫で、首に紅リボンを巻き、耳も赤く、尻尾だけ黒に赤ぶちが入っていて、目立ちます。とくに目玉は青丸を大きく描いてよく目立ちます。現在でもこの目立つ黄色の蚕猫は、基本的なスタイルを変えずに製作されつづけています。

図1.無錫市恵山区の蚕猫(清代)


   浙江省嘉興市(かこうし)余新鎮(よしんちん)の蚕猫は、頭部の色の具合が有名な江戸張り子の猫のようです。しかしそれよりも顔は怖くて、口を開けているところが鼠避けみたいですし、体毛の表現はどうも中国的に三毛猫を表現したかったかなと思わせます。



図2.嘉興市余新鎮の蚕猫(現代)



   最後に現代的な蚕猫を挙げておきます。生産地は不明ですが、青と黒のブチが両目の周りにそれぞれ入っていて、白猫なのに黄色い目玉と尻尾がよく目立ちます。現代的なセンスを感じさせる蚕猫も見られるようです。



図3.現代蚕猫


   差し当たり、三種の蚕猫をご紹介しました。本来は鼠避けの呪物ですが、やはり民間玩具や民芸品の類として、長江下流域の人々に喜ばれております。






    日本の狛猫は熊本県球磨地方にある生善院に化け猫伝説に因む狛猫があったり、
新潟県長尾市の栃尾地区の南部神社、別名は猫又権現の狛猫などがあるようです。やはり。養蚕関係で猫又権現さまを守護神としています。




   ほかにも、石猫の像は、狛猫ではなく、単独ですが、関東でも東京都立川市内の「阿豆佐味天神社」(あずさみてんじんじゃ)」の 「蚕影神社」(こかげじんじゃ)が有名で、ピアニスト山下洋輔氏が祈願したら、飼い猫が戻ってきたという霊験あらたかな「おかえり猫」があります。日本では狛猫は幾つかの寺社でみられるようです。