邪馬台国候補地

 

いよいよ最後の謎、

伊都国を「ソウル」と」仮定した時、邪馬台国、投馬国、狗奴国はどこか?

 

ここで「伊都国」から先は放射説を思い出してもらいたい。

邪馬台国:伊都国から水行10日、あるいは陸行1月

投馬国:伊都国から水行20日

狗奴国:女王国の南

 

始めに邪馬台国について考えてみよう。

 

伊都国から邪馬台国まで南へ水行10日というが、当時の倭人の船で1日平均どのくらいの距離が航行できるか全くデータがないので、その距離を把握しようがない。さらに、水行が沿岸航行なのか、河川を航行なのか、河川の場合は下りなのか、上流への遡行なのかによっても違う。

 

伊都国(ソウルと仮定)の港から即出発できるのは河川の旅である。ソウルから南に行ける河川は「南漢江」しかないので、ソウルから南漢江を遡ってどこへたどり着けるか、調べてみた。

すると、南漢江は韓国を北東から南西へ斜めに横切る小白山脈にぶつかるが、その手前に忠州市がある。

 

※漢江:

漢江は、韓国の北部を流れる河川。全長494km、流域面積35,770km2。洛東江に続いて韓国2位の長さであるが、流域面積は洛東江より広く、韓国1位である、とある。

ソウル周辺では1kmを超える川幅があったという。

 

忠州について調べてみると、

忠清北道忠州は朝鮮半島の中央に位置する都市で、韓国最大の河川である漢江(ハンガン)を挟んでいることから、水路で朝鮮半島の中南部を結び、陸路でも東西・南北間を繋ぐ交通の要衝であると言われている。

忠州を中心に、嶺南(慶尙道の別名)地域と、内陸がソウルにまでつながる交通路が発達している。もう一つの特徴は、鉄が生産される地域でもある。

 

轟博志氏の論文「新羅国原小京(中原京)の立地に関する歴史地理学的検討」から一部引用させていただくと、「忠州地域の概観」として、

 

「国原小京が立地した忠清北道忠州市は、朝鮮半島中部の内陸、南漢江の中流に位置する。南方には黄海に注ぐ漢江水系と、釜山を河口とする洛東江水系の分水界をなす小白山脈がそびえている。市街地は南漢江と達川が合する広い盆地の南にあり、周囲は穀倉地帯となっている。・・・

南漢江は前近代から日本統治期にかけて河川物流の大動脈であり、忠州地域にも牧渓や可興などの市場機能を兼ねた湾岸集落が存在した。また軍事行動や官吏の移動などにも漢城(ソウル)から忠州までは水路を利用し、忠州から陸路で峠越えをする方式がとられることがあり、忠州は水陸交通の結節点としての機能も果たした。

このように忠州は、内陸交通の要衝であることと、肥沃な盆地であることによって、古代から現代まで、中部内陸地方の拠点都市であり続けた」とあります。

 

歴史に現れる忠州:

 

宝賀寿男著「神功皇后と天日矛の伝承」によると、

高句麗の好太王(広開土王)碑文(414年設立)に、

「百残新羅はもと属民であって由来朝貢してきたが、倭は391年(好太王即位元年)以来海を渡ってきて百残○○新羅を破り、臣民とした。(中略)

399年新羅は遣使して言上し、倭人がその領域内に満ち城を潰破している状況ながら、新羅王は高句麗王に帰順し命に従うと言ったので、太王新羅の忠誠をほめて遣使を還した。

400年新羅救援のため歩兵騎兵5万を派遣したところ、男居城から新羅城に至るまでの地域に倭は満ちていたが、官兵が進むと倭賊は退却したのでこれを追撃して任那加羅に至り、従抜城を帰服させた。倭側の安羅の守備兵が新羅城を落としたので、これを攻めて倭寇

を大敗させたことから新羅の寐錦(みきん:王の称号で尼師今に通じる)は恩義を感じて朝貢した(後略)」とある。

 

この記述を見ると、高句麗の一方的な勝利のように感じられるが、これは好太王の顕彰のための碑文なのでかなり誇張して表現している可能性はある。その証拠に、

宝賀氏は、

「碑文の後半の守墓人の段も、高句麗の実質的な支配領域を示唆する。古田武彦氏は、守墓人の出身地に「任那・加羅」が入れられている形跡がないことから、高句麗は結局、これらの地(任那・加羅)から倭とその同盟軍により撃退されたことが暗示されるとみる(『古代は輝いていたⅡ』)。新来の韓わいの守墓人の地としては、主に京畿道・忠清道の地名が碑文にあげられるにとどまるからである」とする。さらに氏は、

「高句麗の活動は、忠清北道の忠州市近傍の中原高句麗碑にもみられる。この石碑は南鮮唯一の高句麗碑であって歴史的価値が大きい」と述べている。

 

ウィキペディアによると、

中原高句麗碑(ちゅうげんこうくりひ):

「1978年に大韓民国忠清北道中原郡(現在の忠州市。1995年改称)中央塔面龍田里で発見された碑石である。1979年になって5世紀前半の高句麗の碑石であることが判明し、後に韓国の国宝第205号に指定された、とある。

 

高さ2.03メートル、幅0.55メートルの自然石を用いた石柱であり、刻字面を研磨した後に四面に刻字されたものであるが、磨耗が激しい後面及び右面は判読不能な状態となっている。

 

碑文の解釈

高句麗と新羅との関係を兄弟になぞらえながらも、高句麗を「大王」として新羅王を「東夷之寐錦[1]」と位置づけている。また高句麗が寐錦以下の官に衣服を下賜したことや、新羅領内で300人を徴発して高句麗軍官の指揮下に置いたことも記され、朝鮮半島内に勢力を拡大した長寿王の時代、高句麗が新羅を従属させていたことを示す資料である」。

 

宝賀氏は、

「忠州は朝鮮半島を南北に貫く線の中ほどにあり、西北方へは南漢江を通じて4,5世紀当時の百済の都(※)・漢山城(ソウル付近)に至る交通の要衝にあって、倭や伽耶の軍が北へ侵攻するためにも拠点となった。統一新羅時代の五小京の一つ、中原京も忠州に置かれた。

そのうえ、これらの地域一帯には豊富な鉄鉱資源があり、近くには谷那鉄山もある重要地域であった。・・・

こうした事情で、この地域は周囲の諸国からの激しい争奪の対象となってきており、これを高句麗が押さえた意味が大きい。・・・

中原高句麗碑の建立時期は、高句麗が優勢であった5世紀前半ごろとも、5世紀末の長寿王の時期ともみられている。これに関しては、碑文の「高麗太王」は、まさに好太王(牟頭婁墓誌には「好太聖王」と記す)その人であろう。とすると、好大王の治世時期かそこから遠くない時期で5世紀前葉頃の建立と見るのが自然である」と述べる。

※4・5世紀百済の主力は遼西・遼東方面に在り、朝鮮半島には進出していなかった

 

以上、忠州についての概略を調べた感じを言うと、

 

邪馬台国の位置決めには距離は役立たないので、

伊都国(ソウル仮定)から南へ水行または陸行で行ける場所という条件では、忠州市は直感的に女王国の都としてぴったりくる感じである。

 

ということで、今のところ邪馬台国=忠州市と仮定しておくことにする。

 

念のため、ソウルー忠州市の距離を確認しておくと、たった99.7kmだそうな。

高速バスで2時間ちょっとで着くらしい。

約100kmを河川遡りで10日、歩くのに1カ月もかかるだろうか?

3世紀の倭人の舟ならそれくらいかかるだろうか?

グーグル地図の地形図で河筋をたどると、平地だけでなくけっこう山間も通っており、これなら休み休み行くなら10日くらいはかかったかもしれないという気がしたが、証拠となるものが何もないので、保留とする。

 

と書いたところで、あまり期待せずに最後の確認としてグーグルで「朝鮮半島における古代の河川航行、南漢江の漢城・忠州間の河川旅程」を調べたところ、なんと下記の文献を発見しました!

 

森平雅彦「朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から―「朝鮮半島の水環境とヒトの暮らし」に関する予備的考察(1)からー

 

この文献に載っている実例から、漢江における水行の旅程とはどのようなものかを推測することができると考え、その一部を引用・要約して紹介したい。

但し年代は1823年で、卑弥呼の時代とは大幅にずれているが、舟による河川航行は自然に左右されることが多いので、航行の大変さは昔も今もそれほど変わらないと考え、この内容は参考にできると考えた。

 

ちなみに1823年の日本は、将軍家斉の時代で文政6年、シーボルトが来朝した。1825年には異国船打ち払い令が出された。

国内は伝染病・災害、飢饉などで大混乱の時代:

1822年西国にコレラ流行/1823年諸国干害/1828年越後大地震/1829年江戸大火/1830年京畿大地震/1832年この年より全国的大飢饉続く/1837年大塩平八郎の乱

 

この文献で取り上げられている旅行記は、「入峡記」といい、撰者の韓鎮■(IMEパッドで該当漢字が見当たらない)は本書に記された旅行の後、同年9月に科挙に及第し、その後官職は工曹参判に至ったという。

 

韓鎮■が漢江上流部へ旅するきっかけ:

「1823年4月国の慶事を記念して臨時に実施された科挙のためソウルの彼の邸宅に上流の諸名士が集まったが、結局みな落第してしまい、彼らはむなしく帰路につくことになった。また外舅の丁義準が六品に昇進したものの実職が得られないため、やはり帰京することになった。そこで韓鎮■はこの機会を利用して素願であった漢江上流部の景勝地への旅を決意、・・・」

彼は帰郷する丁義準らを同道して、4月12日ソウルから漢江を遡り、上流の丹陽(現・忠清北道丹陽郡)へ向かうが、船便を利用したのは漢江中流の驪州の白巌村まででそこから丹陽までは堤川、忠州を経て陸路をたどった。

 

したがって驪州から忠州までの水行の記録はないが、その部分は距離の比例配分で考えることとする。

 

次に河川遡行の旅とはどのようなものかその一例を上記文献より引用する。

ソウルを出発して2日目の記録である。

「4月13日(航行距離40里=約16km):

7,8時台に発船。5里の行程を緩行、餅譚(現・南楊州市)に停泊して朝食をとる。船を曳いて進むが、昼前に逆風となり遡航に苦しむ。八堂灘(現・南楊州市)を通過。当精苫(旧・広州郡)がある。斗尾峡に入り昼食をとる。

昼過ぎに多少の便風が吹き、帆をあげる。斗尾峡の終端で下船し、馬峴(現・南楊州市)にある丁若鏞の邸宅を訪問。

その後船に戻り、井灘(南漢江・北漢江の合流点)を通過。急流のため遡行に苦しみ、夕刻近くに簇尺島を通過して夕食を取る。下船して月明かりのなか汀を進み、二水頭村(現・楊平郡)に到着、南氏家に投宿。」

 

これを読むと、何となく当時の河の上流への遡行の旅の雰囲気がつかめると思う。但し卑弥呼の時代はこれよりはるかに条件が悪かったと思われるので、このままを当てはめることはできないが、それでもある程度は推測できるものと考える。

 

この後、韓鎮■の一向は4月18日昼頃に驪州郡の中心地を通過した。ソウルを出てからここまで6日の行程であった。

翌4月19日昼前に白巌村(現・驪州郡)前に到着。下船して陸路を進んだ。

ちなみに同時代の英国の旅行家イザベラ・バードは同じ距離を5日で通過しているとのこと。

すなわちソウルから驪州までの遡行は5日~6日と考えてよいということである。

なお、上記文献によれば驪州からソウルまでの下りはたったの2日である。

 

以上を踏まえて驪州~忠州間の水行の日程を推測すると、

現在の道路距離及び河筋距離の比は大まかに言って、

ソウル―驪州を1とすれば、驪州-忠州は0.6である。

この数値で計算すると、驪州-忠州間の行程は3~4日である。

即ちソウル―忠州は水路で8日~10日かかることになる。

水路だけでいえば、伊都国から水行10日の範囲に入ると言えよう。

 

結論

ということで、地理的にも距離的にも妥当な線が出たことで、忠州市は邪馬台国の候補となる可能性があると考えたい。

 

なお投馬国は錦江周辺、狗奴韓国は全羅南道の甕棺国(仮名)を想定しているが、これらについては根拠も少なく、保留としておきたい。

 

以上で「卑弥呼あれこれ」シリーズはいったん終了とさせていただきます。

閲読ありがとうございました。

女王国までの距離

 

中段:末蘆国、伊都国の位置を推定する:

 

狗邪韓国(丹東、鴨緑江口)からから島を2つ経由し、末蘆国、伊都国へ到着する旅程で、それぞれの島が今日のどの地名なのか推測するのは、実は非常に困難というか不可能である。陳寿自身は魏使の報告をまとめただけだし、証拠として使えるデータは何もない。ただ大まかな方向と里程があるだけである。

したがって以下に述べることは、前提条件や仮説を重ねて、強引に「こんな感じかもしれません」みたいな結論に至る可能性が高そうである。

 

しかも邪馬台国チクシ説やヤマト説のように日本人として日本列島のことが体感的にわかるのと違って、単に旅行者として行ったレベルでは朝鮮半島について全く知らないのと同じである。

したがって頼りになるのは地図だけという情けない状態でチャレンジせざるを得ないのが現状であることを前もってお断りしておく。

それでもチャレンジしてしまうのは、古代史に興味がある人間にとっては、女王国の場所がどこかを知りたい気持ちは抑えるのが難しいということです。

 

 

魏使の旅程:

狗邪韓国~(海)~対海国~(瀚海)~一大国~(海)~末蘆国~(陸行)~伊都国

 

それには以下の3つの条件を満足させる必要がある。

 

①    海行の条件:

・末蘆国までの間に2つの島を経由すること

・対海国と一大国の間には「大海」があること

※瀚海:大海、広い海という意味だが、この径路では「大海」といえば「黄海」のことを指すとも考えられる

 

②    末蘆国の条件:

・船が寄港できる港があること

・東南陸行できること

 

③    伊都国の条件:

・末蘆国に上陸して伊都国まで500里陸路を旅する必要がある

・港が近くにあり、南に水行できること(沿岸だけでなく、河川の可能性もある)

・陸行でも南の邪馬台国に行けること

 

その他の前提条件:

・倭人伝の距離については前段で説明した通り、「5倍誇大説」で計算する

・二つの島を経由するが、各地の間の距離は島が特定できないので、  3等分は意味がないと考え、トータルの距離で判定することにする

・末蘆国―伊都国間の陸行500里は実測値と考える

・使用する地図:

 新詳高等地図初訂版(帝国書院)朝鮮半島

 朝鮮半島全図(パシフィックヴィジョン株式会社)

 

 

まず狗邪韓国(C)―末蘆国までの倭人伝の距離=3000余里の「余里」の範囲を決める。

 

(1)  狗邪韓国(C)-末蘆国までの倭人伝の距離=3000里(5倍説で600里)で計算すると、

600里×0.434=260.4km

魏代の1里=0.434km

 

(2)狗邪韓国(C)から末蘆国の距離に「余里」の分を各500里加算すると、

3000里+500×3=3000+1500=4500里⇒5倍説で900里

900里×0.434=390.6km

 

3000里と4500里の幅は「5倍説」では、260.4km~390.6kmとなる。

この範囲で条件①②③に合致する地点を探してみることとする。

 

その距離を地図上で測定すると、

260.4kmは北朝鮮の黄海南道にある「甕津半島」あたりまで到達する。

390.6kでは韓国の「ソウル」あたりまで到達する。

この2地点の間で、末蘆国、伊都国として可能性のある場所を探ってみよう。

 

 

まず経由した島を仮定できるか調べてみよう。

以前の投稿では、下記のような島を推定していた。その理由は地図上でたまたま大きな島として表示されたところを拾っただけということだった。

 

丹東~大同江の南浦近くにある「チョ(椒)島」~黄海南道テドン(大東)湾近くにある「ペンニョン(白翎島)」~末蘆国推定地(海州)

 

最近あらためて後代に朝鮮半島から中国の都に行くとき、どのような港や地点を利用したか確認するところから始めてみたが、調べれば調べるほど朝鮮半島西岸は小島がやたら散在していて、はっきり言って対海国(対馬国)も一大国(一支国)も該当する島を推測することすら不可能に近いことを思い知らされただけであった。したがってこの2つの島の推定はあきらめることとした。

 

ただし、上記について補足するために李家正文著「「魏志倭人伝」の虚構と真実」から一部引用・要約すると、

 

「ここで唐の地理学者賈耽(730-805)の記録によって再現した唐と渤海国と新羅との関係の海上航行線の図を見ていただきたい。遼東経由の北路の南に、ばい水(大同江)の河口椒島と山東省の成山を結ぶコースと、もう少し南の唐恩浦と成山のコースがある。新羅は慶州の都から陸路で百済の故地の西海岸の唐恩浦にきている。

 

賈耽の地図は失われて(今は)無いが、唐書に残った地名を結んで作図したものがある。この地名は往来者の報告によるもので、明代での地図のような想像上の島はない。(章巽著『我国古代海上交通』1956上海刊所収)」とある。

 

この図を見ると、濃い太線の破線---が賈耽が記した海上航路の線で、薄いーーーはその他の海上航路である。

濃い太線の海上航路をたどってみると、

 

新羅国の唐恩浦(唐浦)―〇田島―崇王石橋―長口鎮―椒島氵貝江(大同江)口―鳥牧島―鴨緑江口―〇駝河(大洋河)―石人汪―杏花浦(碧流河)―桃花浦-青泥浦―都里鎮(旅順)-(渡海)―登州―洛陽まで陸行 

 

となる。(※地図の地名の字がつぶれていて読めない文字は〇としてある)

 

この海上航行図を見ると、唐代に至っても半島の沿岸を島伝いに航行しているのがわかる。

 

末蘆国の謎:

 

海路を経てようやく到達した末蘆国だが、山が迫っている狭い海岸で、なんと歩くのにも草木が茂っていて前が見えないというとんでもない場所であった。

そしてそこから陸路を500里も歩いてやっと伊都国に着いたのである。

 

ここでおかしいのは、

①    なぜ伊都国への入り口であるはずなのに、辺鄙な場所なのか?途中の2つの小島には官がいたのに、なぜ末蘆国には同じくらいの戸数なのに官がいないのか?

②    伊都国は近くから南に水行できる場所にあるはずで、当然港も備わっていると考えられるのに、なぜそこへ直接寄港しなかったのか?

さらに次の文を読んでいただければ、なぜ末蘆国で上陸しなければならなかったのか?の謎がさらに深まることだろう

 

徐堯輝著「女王卑彌呼と躬臣の人びと」から一部引用する。

「魏志倭人伝の原文の解釈:

女王国から以北には、女王は特に「大率」と称する武官を一人置き、諸国を検察させた。諸国は大率を畏懼した。大率は常に伊都国に駐在し、ここに政府を置いた。伊都国に常駐して諸国を検察するという有り方は、中国の「刺史」に似ているところがある(第一任務)。第二の任務は、女王派遣の使者が魏の京都(洛陽)に、あるいは帯方郡に、あるいは諸韓国(馬韓・辰韓・弁韓などの国々)に往く場合、および帯方郡から使者が来た場合には、いつでもそのたびに港に行き、そこで伝送の文書や、魏朝から賜るもの、または郡から遺贈のものをいちいち、明るみに出させて検査し、特に後者の場合においては、女王に謁見するとき、危険や間違いがあってはならないのを期する、ということである」。

 

伊都国の港で郡使を迎え、賜りものを検察するように定められているのだから、当然伊都国の港に到着するのが当然と考えられる。

 

この謎については中島信文氏が「陳寿『三国志』が語る知られざる驚異の古代史」で一つの解答を出しておられるので、その引用・要約」をご紹介しよう。

 

魏使節は海難事故に遭っている

①    先に論証した里数の語順で理解できるのだが、千余里は「方向+距離+(述語)+場所」の順序で「一大国」から「末蘆国」までは潮や風に影響されてコースは定まらず距離千余里というのは不正確である。この事実より、魏使節は目的の船着き場に着いたとは言えない。

②    「末蘆国」記述には、他の国とは違い、方位が記されていない。この点は①と同様にコースが定まらず魏使節が目的の船着き場についていないことを傍証している。

③    「末蘆国」記述では官の名前が存在しておらず、多くの方は「末蘆国」は重要ではなく官(役人、首長)がいなかったのではないか程度に理解している。

 

しかしこの点については「ついた場所は予定地でなかったため魏使節を迎える官がいなかった」と解釈でき、使節は思いがけぬ場所に着き、官に会えなかった。「末蘆国」より小さい3千戸ほどの対馬と壱岐島でも官がいることを考慮すると、四千戸の「末蘆国」に官が存在しなかったのではない。

 

使節が着いた場所というのは「道はけもの道のようなもので周囲は密林に近く、辺鄙な海岸沿いで、断崖絶壁的浜」の険しい地理的条件の所で、「末蘆国」の中心地ではない。

 

これら重要な内容から推察できるのは、

「魏使節の船は航海の途中で海難事故に遭うか、または天候不順などで海が荒れていたかで目的の船着き場についていないことが明白で、・・・

 

すなわち、魏使がついた場所は予定の到着地ではなかった、そしてその理由は天候や座礁などの海難事故によるものである可能性が高いということである。

たしかに中島氏の指摘は一理あると思われ、私もこの推察に賛意を表する。

 

しかし郡からの使節が本当に末蘆国から陸路をとったかについては、孫栄健氏や徐氏は疑問を呈しておられる。

徐氏は「・・・ところで、荒波を越えて辛うじて女王国の国門(末蘆国)に着いた魏使たちは、末蘆国では上陸せずにまた出航し、糸島水道(※女王国日本説)を経て伊都国の港に到着し、そこから上陸したという説が提出されている(孫栄健氏)。

わたしは、この説に従いたい。

というのは、末蘆国の上陸地点から、東南に走る道があり、この小径を五百里行けば、伊都国に到達するというけれども、「草木茂盛し、行くに前を見ず」とあるように、ジャングルの中を行かねばならぬ。魏使たち一行は探検隊ではない。上陸したからには、大魏の威儀を保つ必要がある。少なくとも梯儁が歩行するわけにはいかない。轎(※輿,かご)に乗るか、馬に騎るかの必要がある。ジャングルの中では、轎や馬は無用の長物である。しかも人員は数人だけではなく、半数が上陸したとしても数十人であり、また蛮荒の地を行くのであるから、食料の携帯が必要となる(※魏帝からの賜り品も大量にある)。

魏使は当初、末蘆国の港で上陸する予定であったらしいが、現地の倭人の進言に依ったものか、それとも部下が先に上陸し,実地に踏査した結果の報告に基づいたのかは知らないが、ともかくも予定を変更して、船上で一夜を明かし、翌日古代糸島水道に向かって航行した、と考えるのが事理に合っているように思う・・・」。

 

確かにそれも一理だと思うが、海難事故で船が座礁したり、破損したりして使えない状態であれば(※車の事故でJAFが駆けつけてくれるわけではないので、笑)、何としてでもその場で手作りの輿を作ってでも魏使を乗せて山道を踏破しなければならなかったと考える。

 

ここでもう一度元に戻って、魏使一行が遭難したと推定する末蘆国の位置を考えてみる。

 

狗邪韓国-末蘆国3千里(260.4km)では北朝鮮の黄海南道にある「甕津半島」あたりまで到達する。

余里を加えた4千5百里(390.6km)では韓国の「ソウル」あたりまで到達する。

 

 

この2地点の間で、末蘆国、伊都国として可能性のある場所を探ってみると、

朝鮮半島西岸を南に航行してきて長山串を回りこみ、東に航行すると、「甕津半島」に突き当たる。

 

ウィキペディアによると

甕津半島は全体に低い丘陵地で、海岸は複雑なリアス式海岸となっており、7mもの潮差で良港には恵まれないが、漁場としては良好でありイシモチなど魚類の絶好の産卵地となっている」とある。

 

倭人伝の「山海に沿いて居す 草木茂盛して行くに前を見ず 人は魚鰒を捕らえるを好み 水の深浅を問わず 皆沈没してこれを取る」にも該当しそうであるし、なんとなく海難事故にも遭いそうな環境ではないだろうか。

 

という前提に立って、甕津半島の「甕津」あたりで事故に遭い、上陸して500里、東南に歩いたところ(伊都国)はどのあたりか探ってみよう。

 

卑弥呼の時代の道路網わからないので、地図から現代の鉄道径路を使

甕津-ソウル間の距離をマップ上で大雑把に測定してみると、

 

長山串(A)ー甕津湾近くで海難事故(×印)ー甕津(B)―碧城―海州(D)―青丹-延安(E)―白川-開豊-開城(G)-板門-(韓国)-金村―ソウル(H)の経路で、

198km=456.2里となり、

500里に近い数値となる。

 

 

ということで、「ソウル」は、

①    狗邪韓国から末蘆国までの距離と末蘆国から東南陸行500里という条件を満足する場所だから

②    ソウルから南の女王国の都邪馬台国や投馬国への水行も陸行も容易にできるから

③    漢江流域には、旧石器時代、(ただし12000-4000年前の間は無遺跡、半島には人が住んでいなかった?)新石器時代(約4000年前韓国人の祖先が到来―)、青銅器時代の遺物が出土している。青銅器時代の墓である支石墓も多く発見されている。すなわち、古代から多くの人が居住していた場所であるから

 

という理由で、ソウルを「伊都国」ととりあえず仮定しておくことにする。

 

では魏使一行は500里(217km)を何日かけて踏破したのであろうか?

江戸時代、成人男性は1日で平坦な道なら40km、山道なら30kmを毎日歩いてもペースダウンしない体力を有していたという。

 

この前提で、末蘆国-伊都国間の経路を山道半分、平坦な道半分と仮定して計算すると、

山道:108.5÷30=3.6日

平坦な道:108.5÷40=2.7日

3.6+2.7=6.3日

 

魏使は、途中何もなければ毎日歩いて1週間ほどで伊都国に到着したことになるが、途中に難所や大河の横断などが入ること、天候不順などを考えて1~2週間でようやく目的地にたどり着いたということではないだろうか?

もし海難事故に遭ってのことであれば、魏使一行は艱難辛苦の長旅を終えて、やっと一息ついたことであろう。

 

ここまで

次はラストとなる予定だが、邪馬台国と投馬国の位置の推測を述べてみたい。

魏使の旅程と距離前段

 

本論に入る前に陳寿は帯方郡や三韓の位置を把握していた可能性があるということについて説明したい。

 

岡田英弘著「倭国」から引用・要約すると、

「三国志の著者の陳寿(233-297)は、魏の旧敵国の蜀の出身で、蜀に仕えて官職についていたが、故あって失職した。蜀が滅びて魏の世となり、魏が晋と変わっても浮かび上がれなかったが、この陳寿の才能を愛して引き立ててくれたのが、「張華」である。

張華(232-300)は北京の近くの固安県の出身で、縁あって司馬懿の次男の司馬昭の私設秘書室に勤めるようになったが、その優秀さを上に疎まれ、中央から外されて一時故郷の北京(幽州)に赴任し、東北方面総司令官(持節・都督幽州諸軍事・領護烏桓校尉安北将軍)の要職について、大いに成績を挙げた。

 

晋書の「張華列伝」に、このことを「東夷の馬韓の新弥の諸国の、山に依り海を帯び、州(幽州)を去ること四千余里で、歴世未だ附したことのなかった者の二十余国が、並びに使を遣わして朝献した」と言っている。

つまり張華は朝鮮半島(※遼東半島の間違い)の開拓に力を入れたのである。その後の張華の人生は政争に巻き込まれて波乱万丈(上下)であったが、最後はクーデターの巻き添えを喰らって殺されてしまうという悲劇的結末を迎える。

 

陳寿を拾ってくれた恩人はこの張華だった。張華の推薦のおかげで陳寿は官吏の資格を回復し、晋朝の著作郎となって三国志を書き上げたのである」。

 

私見:

陳寿の恩人である張華は馬韓を魏に引き入れる役目を果たした人だから、馬韓がどこにあるか当然知っていたと思われる。

当然その薫陶を受けた陳寿も馬韓の地理も馬韓の隣に辰韓・弁辰があり、弁辰に倭がつながっているという地理は頭に入っていたものと考えられる。すなわち陳寿は知っていたが、魏の勢威を高めるためには誇大な数字を並べ立てざるを得なかったのである。

 

岡田氏の引用を続ける。

「晋書の「張華」列伝に「幽州から馬韓まで4千余里」と書いてある。

幽州刺史は薊(北京)にいたが、応劭の『漢官』には「薊(北京)」は「洛陽の東北2千里」という。

鉄道のマイレージでも、隴海線の洛陽―鄭州間が74.5マイル、京漢線の鄭州-北京間が431.2マイルで、合計505.7マイル(809,1㎞)を換算すると、1864里ほどになる」。

 

この数値は2千里に近いので、洛陽―北京間の距離は誇大化されておらず、実測値と考えてよいと思う。

そこで考えたのが幽州・馬韓間の距離も実測値に近いのではないかという期待だった。つまり実測値に近ければ、馬韓が遼東半島にあることが証明できると思ったのだったが、さて実際は?

 

幽州-馬韓4000余里の検証:

 

馬韓は帯方郡(遼東半島)に在り、馬韓の王都は遼東半島の「雄岳」に仮定することとした。

山形明郷著「古代史犯罪」から引用すると、

「一般に帯方郡とは、楽浪郡の南部都尉治(※管轄する役所)を切り離し、西暦208年ごろ遼東の覇者公孫康(あるいはその父・度の時代ともいわれる)が、設置した私設の「郡県」であり、漢帝国の直轄地ではない。楽浪郡そのものが今日の朝鮮半島方面に設けられたものではないのであるから、その南部と言えば、そこは当然ながら、今日の海城市以南の遼東半島方面になる。

 

ちなみに、中国歴史地図を調べていくと、この帯方郡最後の時期は、くすしくも百済が強勢期に入る後燕の世祖成武帝の建康十年、すなわち西暦395年であり、その治所は「熊岳」である。

何故にこの時代が帯方郡最後の時期となったのか、これも簡単で帯方郡は百済の併合するところとなり終焉を告げることになる。またその治所が「熊岳城」に置かれたということは何を意味するのか。ここがいわゆる百済の都した「熊津城」だったのである。今日現在語られているような韓国の忠清北道や北朝鮮の黄海道方面に存在したものではない」とある。

 

また「百済の所在地について言うならば、「史記正義括地志」に「百済の西南・渤海中…」云々なる語がみられ・・・」とあることから、百済の西南には渤海があったということになる。

したがって帯方郡にあった三韓を吸収したと思われる百済が遼東半島にあったことは、三韓が遼東半島にあったことを証明するものと考える。

幽州(北京)-馬韓=4000余里

魏の時代の1里=0.434㎞

4000里=1736㎞

 

マップメーターによって地図上の距離を測定してみると:

※古代の道は不明なので、現代の道路に従って測定した

 

北京-山海関⇒100mm⇒(100÷33)×100km=303.0km

山海関-熊岳⇒110mm⇒(110÷14)×50km= 392.9km

 

北京-熊岳=695.9km=1603.5里にしかならず、4000余里は実際値の2.5倍誇大化されているといえる。

 

残念!ながら、北京-馬韓間の距離は実際値ではなかった。

ということは、北京-馬韓間を旅した魏の役人はおらず、したがってその旅程の記録もなかったといえるだろう。

しかし北京から帯方郡への役人の赴任や往来はそれなりにあったはずなので、北京―帯方郡間の実際の距離の記録が見つからないのは多分時代経過とともに逸失してしまったと思われ、今残っていないのは真に残念である。

 

次に魏使の旅した帯方郡の郡治から倭の北岸とされる狗奴韓国までの2国の位置を明確にしたい。

 

1.帯方郡の郡治は「熊岳」とされるが、実際の出発地は古来良港と言われる「営口」とする。なぜなら旅程がいきなり水行とあり、陸行はないことと、「熊岳」に港があったか否か不明だからである。

 

2.次の到着地「狗奴韓国」はどこか?

 

遼東半島は大陸の端に逆三角形を張り付けた形をしている。逆三角形の西側の底辺の頂点(A)が「営口」である。そして逆三角形の頂点(B)が旅順・大連となる。逆三角形に東側の底辺の頂点(C)が鴨緑江の河口にあたる「丹東」である。

 

大雑把に言えば、逆三角形の左側から右へ2/3が馬韓、残り1/3が辰韓・弁辰と仮定できる(山形氏)。

倭国は辰韓・弁辰に一部接しているとあるので、辰韓・弁辰の沿岸部から朝鮮半島西部の沿岸にかけて散在していた(黄色の帯)と考えられる。

狗邪韓国は倭国から見て北の方位にある岸にあるとあるので、地図上ではC地点がそれに一致する。

なお、この「北岸」という意味は、図の黄色の帯が倭国の国々とすると、黄色帯の最も北にあたる地点という意味に捉えることとする。

すると、狗邪韓国は辰韓・弁辰のもっとも東に位置して、倭と接していたことになる。

 

なお、参考のために、

「西北微東至 大海北岸 都里鎮五百三十五里」という表現があり、これはすなわち、

「都里鎮(遼東半島旅順)は大海(黄海)の北岸に位置する」 とする例があることを挙げておく。

 

次に営口(A)-旅順・大連(B)-丹東(C)の地図上の実際値と倭人伝の「里」とを比較して、どのくらい誇大化されているか見てみよう。

 

帯方郡治-狗邪韓国=7000余里

戦前の関東州(遼東半島)地図によると、

営口―旅順=180海里=333.36km

大連―龍岩浦(丹東)=160海里=296.3km

1浬(海里)=1.852キロメートル

↓実際の距離

営口―龍岩浦(丹東)=629.7km=1451里」

 

倭人伝記載の距離:

7000里×0.434km/里=3038.0km

 

誇大倍率の計算

実際の距離629.7÷倭人伝の距離3038(7000里)=0.2072⇒約2/10⇒5倍誇大化されていることになる。

仮説:陳寿の誇大倍率は実際の距離の5倍と仮定する。

 

ここまで

次回からは丹東以降の旅程について検討してみたい。