女王国までの距離

 

中段:末蘆国、伊都国の位置を推定する:

 

狗邪韓国(丹東、鴨緑江口)からから島を2つ経由し、末蘆国、伊都国へ到着する旅程で、それぞれの島が今日のどの地名なのか推測するのは、実は非常に困難というか不可能である。陳寿自身は魏使の報告をまとめただけだし、証拠として使えるデータは何もない。ただ大まかな方向と里程があるだけである。

したがって以下に述べることは、前提条件や仮説を重ねて、強引に「こんな感じかもしれません」みたいな結論に至る可能性が高そうである。

 

しかも邪馬台国チクシ説やヤマト説のように日本人として日本列島のことが体感的にわかるのと違って、単に旅行者として行ったレベルでは朝鮮半島について全く知らないのと同じである。

したがって頼りになるのは地図だけという情けない状態でチャレンジせざるを得ないのが現状であることを前もってお断りしておく。

それでもチャレンジしてしまうのは、古代史に興味がある人間にとっては、女王国の場所がどこかを知りたい気持ちは抑えるのが難しいということです。

 

 

魏使の旅程:

狗邪韓国~(海)~対海国~(瀚海)~一大国~(海)~末蘆国~(陸行)~伊都国

 

それには以下の3つの条件を満足させる必要がある。

 

①    海行の条件:

・末蘆国までの間に2つの島を経由すること

・対海国と一大国の間には「大海」があること

※瀚海:大海、広い海という意味だが、この径路では「大海」といえば「黄海」のことを指すとも考えられる

 

②    末蘆国の条件:

・船が寄港できる港があること

・東南陸行できること

 

③    伊都国の条件:

・末蘆国に上陸して伊都国まで500里陸路を旅する必要がある

・港が近くにあり、南に水行できること(沿岸だけでなく、河川の可能性もある)

・陸行でも南の邪馬台国に行けること

 

その他の前提条件:

・倭人伝の距離については前段で説明した通り、「5倍誇大説」で計算する

・二つの島を経由するが、各地の間の距離は島が特定できないので、  3等分は意味がないと考え、トータルの距離で判定することにする

・末蘆国―伊都国間の陸行500里は実測値と考える

・使用する地図:

 新詳高等地図初訂版(帝国書院)朝鮮半島

 朝鮮半島全図(パシフィックヴィジョン株式会社)

 

 

まず狗邪韓国(C)―末蘆国までの倭人伝の距離=3000余里の「余里」の範囲を決める。

 

(1)  狗邪韓国(C)-末蘆国までの倭人伝の距離=3000里(5倍説で600里)で計算すると、

600里×0.434=260.4km

魏代の1里=0.434km

 

(2)狗邪韓国(C)から末蘆国の距離に「余里」の分を各500里加算すると、

3000里+500×3=3000+1500=4500里⇒5倍説で900里

900里×0.434=390.6km

 

3000里と4500里の幅は「5倍説」では、260.4km~390.6kmとなる。

この範囲で条件①②③に合致する地点を探してみることとする。

 

その距離を地図上で測定すると、

260.4kmは北朝鮮の黄海南道にある「甕津半島」あたりまで到達する。

390.6kでは韓国の「ソウル」あたりまで到達する。

この2地点の間で、末蘆国、伊都国として可能性のある場所を探ってみよう。

 

 

まず経由した島を仮定できるか調べてみよう。

以前の投稿では、下記のような島を推定していた。その理由は地図上でたまたま大きな島として表示されたところを拾っただけということだった。

 

丹東~大同江の南浦近くにある「チョ(椒)島」~黄海南道テドン(大東)湾近くにある「ペンニョン(白翎島)」~末蘆国推定地(海州)

 

最近あらためて後代に朝鮮半島から中国の都に行くとき、どのような港や地点を利用したか確認するところから始めてみたが、調べれば調べるほど朝鮮半島西岸は小島がやたら散在していて、はっきり言って対海国(対馬国)も一大国(一支国)も該当する島を推測することすら不可能に近いことを思い知らされただけであった。したがってこの2つの島の推定はあきらめることとした。

 

ただし、上記について補足するために李家正文著「「魏志倭人伝」の虚構と真実」から一部引用・要約すると、

 

「ここで唐の地理学者賈耽(730-805)の記録によって再現した唐と渤海国と新羅との関係の海上航行線の図を見ていただきたい。遼東経由の北路の南に、ばい水(大同江)の河口椒島と山東省の成山を結ぶコースと、もう少し南の唐恩浦と成山のコースがある。新羅は慶州の都から陸路で百済の故地の西海岸の唐恩浦にきている。

 

賈耽の地図は失われて(今は)無いが、唐書に残った地名を結んで作図したものがある。この地名は往来者の報告によるもので、明代での地図のような想像上の島はない。(章巽著『我国古代海上交通』1956上海刊所収)」とある。

 

この図を見ると、濃い太線の破線---が賈耽が記した海上航路の線で、薄いーーーはその他の海上航路である。

濃い太線の海上航路をたどってみると、

 

新羅国の唐恩浦(唐浦)―〇田島―崇王石橋―長口鎮―椒島氵貝江(大同江)口―鳥牧島―鴨緑江口―〇駝河(大洋河)―石人汪―杏花浦(碧流河)―桃花浦-青泥浦―都里鎮(旅順)-(渡海)―登州―洛陽まで陸行 

 

となる。(※地図の地名の字がつぶれていて読めない文字は〇としてある)

 

この海上航行図を見ると、唐代に至っても半島の沿岸を島伝いに航行しているのがわかる。

 

末蘆国の謎:

 

海路を経てようやく到達した末蘆国だが、山が迫っている狭い海岸で、なんと歩くのにも草木が茂っていて前が見えないというとんでもない場所であった。

そしてそこから陸路を500里も歩いてやっと伊都国に着いたのである。

 

ここでおかしいのは、

①    なぜ伊都国への入り口であるはずなのに、辺鄙な場所なのか?途中の2つの小島には官がいたのに、なぜ末蘆国には同じくらいの戸数なのに官がいないのか?

②    伊都国は近くから南に水行できる場所にあるはずで、当然港も備わっていると考えられるのに、なぜそこへ直接寄港しなかったのか?

さらに次の文を読んでいただければ、なぜ末蘆国で上陸しなければならなかったのか?の謎がさらに深まることだろう

 

徐堯輝著「女王卑彌呼と躬臣の人びと」から一部引用する。

「魏志倭人伝の原文の解釈:

女王国から以北には、女王は特に「大率」と称する武官を一人置き、諸国を検察させた。諸国は大率を畏懼した。大率は常に伊都国に駐在し、ここに政府を置いた。伊都国に常駐して諸国を検察するという有り方は、中国の「刺史」に似ているところがある(第一任務)。第二の任務は、女王派遣の使者が魏の京都(洛陽)に、あるいは帯方郡に、あるいは諸韓国(馬韓・辰韓・弁韓などの国々)に往く場合、および帯方郡から使者が来た場合には、いつでもそのたびに港に行き、そこで伝送の文書や、魏朝から賜るもの、または郡から遺贈のものをいちいち、明るみに出させて検査し、特に後者の場合においては、女王に謁見するとき、危険や間違いがあってはならないのを期する、ということである」。

 

伊都国の港で郡使を迎え、賜りものを検察するように定められているのだから、当然伊都国の港に到着するのが当然と考えられる。

 

この謎については中島信文氏が「陳寿『三国志』が語る知られざる驚異の古代史」で一つの解答を出しておられるので、その引用・要約」をご紹介しよう。

 

魏使節は海難事故に遭っている

①    先に論証した里数の語順で理解できるのだが、千余里は「方向+距離+(述語)+場所」の順序で「一大国」から「末蘆国」までは潮や風に影響されてコースは定まらず距離千余里というのは不正確である。この事実より、魏使節は目的の船着き場に着いたとは言えない。

②    「末蘆国」記述には、他の国とは違い、方位が記されていない。この点は①と同様にコースが定まらず魏使節が目的の船着き場についていないことを傍証している。

③    「末蘆国」記述では官の名前が存在しておらず、多くの方は「末蘆国」は重要ではなく官(役人、首長)がいなかったのではないか程度に理解している。

 

しかしこの点については「ついた場所は予定地でなかったため魏使節を迎える官がいなかった」と解釈でき、使節は思いがけぬ場所に着き、官に会えなかった。「末蘆国」より小さい3千戸ほどの対馬と壱岐島でも官がいることを考慮すると、四千戸の「末蘆国」に官が存在しなかったのではない。

 

使節が着いた場所というのは「道はけもの道のようなもので周囲は密林に近く、辺鄙な海岸沿いで、断崖絶壁的浜」の険しい地理的条件の所で、「末蘆国」の中心地ではない。

 

これら重要な内容から推察できるのは、

「魏使節の船は航海の途中で海難事故に遭うか、または天候不順などで海が荒れていたかで目的の船着き場についていないことが明白で、・・・

 

すなわち、魏使がついた場所は予定の到着地ではなかった、そしてその理由は天候や座礁などの海難事故によるものである可能性が高いということである。

たしかに中島氏の指摘は一理あると思われ、私もこの推察に賛意を表する。

 

しかし郡からの使節が本当に末蘆国から陸路をとったかについては、孫栄健氏や徐氏は疑問を呈しておられる。

徐氏は「・・・ところで、荒波を越えて辛うじて女王国の国門(末蘆国)に着いた魏使たちは、末蘆国では上陸せずにまた出航し、糸島水道(※女王国日本説)を経て伊都国の港に到着し、そこから上陸したという説が提出されている(孫栄健氏)。

わたしは、この説に従いたい。

というのは、末蘆国の上陸地点から、東南に走る道があり、この小径を五百里行けば、伊都国に到達するというけれども、「草木茂盛し、行くに前を見ず」とあるように、ジャングルの中を行かねばならぬ。魏使たち一行は探検隊ではない。上陸したからには、大魏の威儀を保つ必要がある。少なくとも梯儁が歩行するわけにはいかない。轎(※輿,かご)に乗るか、馬に騎るかの必要がある。ジャングルの中では、轎や馬は無用の長物である。しかも人員は数人だけではなく、半数が上陸したとしても数十人であり、また蛮荒の地を行くのであるから、食料の携帯が必要となる(※魏帝からの賜り品も大量にある)。

魏使は当初、末蘆国の港で上陸する予定であったらしいが、現地の倭人の進言に依ったものか、それとも部下が先に上陸し,実地に踏査した結果の報告に基づいたのかは知らないが、ともかくも予定を変更して、船上で一夜を明かし、翌日古代糸島水道に向かって航行した、と考えるのが事理に合っているように思う・・・」。

 

確かにそれも一理だと思うが、海難事故で船が座礁したり、破損したりして使えない状態であれば(※車の事故でJAFが駆けつけてくれるわけではないので、笑)、何としてでもその場で手作りの輿を作ってでも魏使を乗せて山道を踏破しなければならなかったと考える。

 

ここでもう一度元に戻って、魏使一行が遭難したと推定する末蘆国の位置を考えてみる。

 

狗邪韓国-末蘆国3千里(260.4km)では北朝鮮の黄海南道にある「甕津半島」あたりまで到達する。

余里を加えた4千5百里(390.6km)では韓国の「ソウル」あたりまで到達する。

 

 

この2地点の間で、末蘆国、伊都国として可能性のある場所を探ってみると、

朝鮮半島西岸を南に航行してきて長山串を回りこみ、東に航行すると、「甕津半島」に突き当たる。

 

ウィキペディアによると

甕津半島は全体に低い丘陵地で、海岸は複雑なリアス式海岸となっており、7mもの潮差で良港には恵まれないが、漁場としては良好でありイシモチなど魚類の絶好の産卵地となっている」とある。

 

倭人伝の「山海に沿いて居す 草木茂盛して行くに前を見ず 人は魚鰒を捕らえるを好み 水の深浅を問わず 皆沈没してこれを取る」にも該当しそうであるし、なんとなく海難事故にも遭いそうな環境ではないだろうか。

 

という前提に立って、甕津半島の「甕津」あたりで事故に遭い、上陸して500里、東南に歩いたところ(伊都国)はどのあたりか探ってみよう。

 

卑弥呼の時代の道路網わからないので、地図から現代の鉄道径路を使

甕津-ソウル間の距離をマップ上で大雑把に測定してみると、

 

長山串(A)ー甕津湾近くで海難事故(×印)ー甕津(B)―碧城―海州(D)―青丹-延安(E)―白川-開豊-開城(G)-板門-(韓国)-金村―ソウル(H)の経路で、

198km=456.2里となり、

500里に近い数値となる。

 

 

ということで、「ソウル」は、

①    狗邪韓国から末蘆国までの距離と末蘆国から東南陸行500里という条件を満足する場所だから

②    ソウルから南の女王国の都邪馬台国や投馬国への水行も陸行も容易にできるから

③    漢江流域には、旧石器時代、(ただし12000-4000年前の間は無遺跡、半島には人が住んでいなかった?)新石器時代(約4000年前韓国人の祖先が到来―)、青銅器時代の遺物が出土している。青銅器時代の墓である支石墓も多く発見されている。すなわち、古代から多くの人が居住していた場所であるから

 

という理由で、ソウルを「伊都国」ととりあえず仮定しておくことにする。

 

では魏使一行は500里(217km)を何日かけて踏破したのであろうか?

江戸時代、成人男性は1日で平坦な道なら40km、山道なら30kmを毎日歩いてもペースダウンしない体力を有していたという。

 

この前提で、末蘆国-伊都国間の経路を山道半分、平坦な道半分と仮定して計算すると、

山道:108.5÷30=3.6日

平坦な道:108.5÷40=2.7日

3.6+2.7=6.3日

 

魏使は、途中何もなければ毎日歩いて1週間ほどで伊都国に到着したことになるが、途中に難所や大河の横断などが入ること、天候不順などを考えて1~2週間でようやく目的地にたどり着いたということではないだろうか?

もし海難事故に遭ってのことであれば、魏使一行は艱難辛苦の長旅を終えて、やっと一息ついたことであろう。

 

ここまで

次はラストとなる予定だが、邪馬台国と投馬国の位置の推測を述べてみたい。