邪馬台国候補地

 

いよいよ最後の謎、

伊都国を「ソウル」と」仮定した時、邪馬台国、投馬国、狗奴国はどこか?

 

ここで「伊都国」から先は放射説を思い出してもらいたい。

邪馬台国:伊都国から水行10日、あるいは陸行1月

投馬国:伊都国から水行20日

狗奴国:女王国の南

 

始めに邪馬台国について考えてみよう。

 

伊都国から邪馬台国まで南へ水行10日というが、当時の倭人の船で1日平均どのくらいの距離が航行できるか全くデータがないので、その距離を把握しようがない。さらに、水行が沿岸航行なのか、河川を航行なのか、河川の場合は下りなのか、上流への遡行なのかによっても違う。

 

伊都国(ソウルと仮定)の港から即出発できるのは河川の旅である。ソウルから南に行ける河川は「南漢江」しかないので、ソウルから南漢江を遡ってどこへたどり着けるか、調べてみた。

すると、南漢江は韓国を北東から南西へ斜めに横切る小白山脈にぶつかるが、その手前に忠州市がある。

 

※漢江:

漢江は、韓国の北部を流れる河川。全長494km、流域面積35,770km2。洛東江に続いて韓国2位の長さであるが、流域面積は洛東江より広く、韓国1位である、とある。

ソウル周辺では1kmを超える川幅があったという。

 

忠州について調べてみると、

忠清北道忠州は朝鮮半島の中央に位置する都市で、韓国最大の河川である漢江(ハンガン)を挟んでいることから、水路で朝鮮半島の中南部を結び、陸路でも東西・南北間を繋ぐ交通の要衝であると言われている。

忠州を中心に、嶺南(慶尙道の別名)地域と、内陸がソウルにまでつながる交通路が発達している。もう一つの特徴は、鉄が生産される地域でもある。

 

轟博志氏の論文「新羅国原小京(中原京)の立地に関する歴史地理学的検討」から一部引用させていただくと、「忠州地域の概観」として、

 

「国原小京が立地した忠清北道忠州市は、朝鮮半島中部の内陸、南漢江の中流に位置する。南方には黄海に注ぐ漢江水系と、釜山を河口とする洛東江水系の分水界をなす小白山脈がそびえている。市街地は南漢江と達川が合する広い盆地の南にあり、周囲は穀倉地帯となっている。・・・

南漢江は前近代から日本統治期にかけて河川物流の大動脈であり、忠州地域にも牧渓や可興などの市場機能を兼ねた湾岸集落が存在した。また軍事行動や官吏の移動などにも漢城(ソウル)から忠州までは水路を利用し、忠州から陸路で峠越えをする方式がとられることがあり、忠州は水陸交通の結節点としての機能も果たした。

このように忠州は、内陸交通の要衝であることと、肥沃な盆地であることによって、古代から現代まで、中部内陸地方の拠点都市であり続けた」とあります。

 

歴史に現れる忠州:

 

宝賀寿男著「神功皇后と天日矛の伝承」によると、

高句麗の好太王(広開土王)碑文(414年設立)に、

「百残新羅はもと属民であって由来朝貢してきたが、倭は391年(好太王即位元年)以来海を渡ってきて百残○○新羅を破り、臣民とした。(中略)

399年新羅は遣使して言上し、倭人がその領域内に満ち城を潰破している状況ながら、新羅王は高句麗王に帰順し命に従うと言ったので、太王新羅の忠誠をほめて遣使を還した。

400年新羅救援のため歩兵騎兵5万を派遣したところ、男居城から新羅城に至るまでの地域に倭は満ちていたが、官兵が進むと倭賊は退却したのでこれを追撃して任那加羅に至り、従抜城を帰服させた。倭側の安羅の守備兵が新羅城を落としたので、これを攻めて倭寇

を大敗させたことから新羅の寐錦(みきん:王の称号で尼師今に通じる)は恩義を感じて朝貢した(後略)」とある。

 

この記述を見ると、高句麗の一方的な勝利のように感じられるが、これは好太王の顕彰のための碑文なのでかなり誇張して表現している可能性はある。その証拠に、

宝賀氏は、

「碑文の後半の守墓人の段も、高句麗の実質的な支配領域を示唆する。古田武彦氏は、守墓人の出身地に「任那・加羅」が入れられている形跡がないことから、高句麗は結局、これらの地(任那・加羅)から倭とその同盟軍により撃退されたことが暗示されるとみる(『古代は輝いていたⅡ』)。新来の韓わいの守墓人の地としては、主に京畿道・忠清道の地名が碑文にあげられるにとどまるからである」とする。さらに氏は、

「高句麗の活動は、忠清北道の忠州市近傍の中原高句麗碑にもみられる。この石碑は南鮮唯一の高句麗碑であって歴史的価値が大きい」と述べている。

 

ウィキペディアによると、

中原高句麗碑(ちゅうげんこうくりひ):

「1978年に大韓民国忠清北道中原郡(現在の忠州市。1995年改称)中央塔面龍田里で発見された碑石である。1979年になって5世紀前半の高句麗の碑石であることが判明し、後に韓国の国宝第205号に指定された、とある。

 

高さ2.03メートル、幅0.55メートルの自然石を用いた石柱であり、刻字面を研磨した後に四面に刻字されたものであるが、磨耗が激しい後面及び右面は判読不能な状態となっている。

 

碑文の解釈

高句麗と新羅との関係を兄弟になぞらえながらも、高句麗を「大王」として新羅王を「東夷之寐錦[1]」と位置づけている。また高句麗が寐錦以下の官に衣服を下賜したことや、新羅領内で300人を徴発して高句麗軍官の指揮下に置いたことも記され、朝鮮半島内に勢力を拡大した長寿王の時代、高句麗が新羅を従属させていたことを示す資料である」。

 

宝賀氏は、

「忠州は朝鮮半島を南北に貫く線の中ほどにあり、西北方へは南漢江を通じて4,5世紀当時の百済の都(※)・漢山城(ソウル付近)に至る交通の要衝にあって、倭や伽耶の軍が北へ侵攻するためにも拠点となった。統一新羅時代の五小京の一つ、中原京も忠州に置かれた。

そのうえ、これらの地域一帯には豊富な鉄鉱資源があり、近くには谷那鉄山もある重要地域であった。・・・

こうした事情で、この地域は周囲の諸国からの激しい争奪の対象となってきており、これを高句麗が押さえた意味が大きい。・・・

中原高句麗碑の建立時期は、高句麗が優勢であった5世紀前半ごろとも、5世紀末の長寿王の時期ともみられている。これに関しては、碑文の「高麗太王」は、まさに好太王(牟頭婁墓誌には「好太聖王」と記す)その人であろう。とすると、好大王の治世時期かそこから遠くない時期で5世紀前葉頃の建立と見るのが自然である」と述べる。

※4・5世紀百済の主力は遼西・遼東方面に在り、朝鮮半島には進出していなかった

 

以上、忠州についての概略を調べた感じを言うと、

 

邪馬台国の位置決めには距離は役立たないので、

伊都国(ソウル仮定)から南へ水行または陸行で行ける場所という条件では、忠州市は直感的に女王国の都としてぴったりくる感じである。

 

ということで、今のところ邪馬台国=忠州市と仮定しておくことにする。

 

念のため、ソウルー忠州市の距離を確認しておくと、たった99.7kmだそうな。

高速バスで2時間ちょっとで着くらしい。

約100kmを河川遡りで10日、歩くのに1カ月もかかるだろうか?

3世紀の倭人の舟ならそれくらいかかるだろうか?

グーグル地図の地形図で河筋をたどると、平地だけでなくけっこう山間も通っており、これなら休み休み行くなら10日くらいはかかったかもしれないという気がしたが、証拠となるものが何もないので、保留とする。

 

と書いたところで、あまり期待せずに最後の確認としてグーグルで「朝鮮半島における古代の河川航行、南漢江の漢城・忠州間の河川旅程」を調べたところ、なんと下記の文献を発見しました!

 

森平雅彦「朝鮮後期における漢江舟運の運航実例から―「朝鮮半島の水環境とヒトの暮らし」に関する予備的考察(1)からー

 

この文献に載っている実例から、漢江における水行の旅程とはどのようなものかを推測することができると考え、その一部を引用・要約して紹介したい。

但し年代は1823年で、卑弥呼の時代とは大幅にずれているが、舟による河川航行は自然に左右されることが多いので、航行の大変さは昔も今もそれほど変わらないと考え、この内容は参考にできると考えた。

 

ちなみに1823年の日本は、将軍家斉の時代で文政6年、シーボルトが来朝した。1825年には異国船打ち払い令が出された。

国内は伝染病・災害、飢饉などで大混乱の時代:

1822年西国にコレラ流行/1823年諸国干害/1828年越後大地震/1829年江戸大火/1830年京畿大地震/1832年この年より全国的大飢饉続く/1837年大塩平八郎の乱

 

この文献で取り上げられている旅行記は、「入峡記」といい、撰者の韓鎮■(IMEパッドで該当漢字が見当たらない)は本書に記された旅行の後、同年9月に科挙に及第し、その後官職は工曹参判に至ったという。

 

韓鎮■が漢江上流部へ旅するきっかけ:

「1823年4月国の慶事を記念して臨時に実施された科挙のためソウルの彼の邸宅に上流の諸名士が集まったが、結局みな落第してしまい、彼らはむなしく帰路につくことになった。また外舅の丁義準が六品に昇進したものの実職が得られないため、やはり帰京することになった。そこで韓鎮■はこの機会を利用して素願であった漢江上流部の景勝地への旅を決意、・・・」

彼は帰郷する丁義準らを同道して、4月12日ソウルから漢江を遡り、上流の丹陽(現・忠清北道丹陽郡)へ向かうが、船便を利用したのは漢江中流の驪州の白巌村まででそこから丹陽までは堤川、忠州を経て陸路をたどった。

 

したがって驪州から忠州までの水行の記録はないが、その部分は距離の比例配分で考えることとする。

 

次に河川遡行の旅とはどのようなものかその一例を上記文献より引用する。

ソウルを出発して2日目の記録である。

「4月13日(航行距離40里=約16km):

7,8時台に発船。5里の行程を緩行、餅譚(現・南楊州市)に停泊して朝食をとる。船を曳いて進むが、昼前に逆風となり遡航に苦しむ。八堂灘(現・南楊州市)を通過。当精苫(旧・広州郡)がある。斗尾峡に入り昼食をとる。

昼過ぎに多少の便風が吹き、帆をあげる。斗尾峡の終端で下船し、馬峴(現・南楊州市)にある丁若鏞の邸宅を訪問。

その後船に戻り、井灘(南漢江・北漢江の合流点)を通過。急流のため遡行に苦しみ、夕刻近くに簇尺島を通過して夕食を取る。下船して月明かりのなか汀を進み、二水頭村(現・楊平郡)に到着、南氏家に投宿。」

 

これを読むと、何となく当時の河の上流への遡行の旅の雰囲気がつかめると思う。但し卑弥呼の時代はこれよりはるかに条件が悪かったと思われるので、このままを当てはめることはできないが、それでもある程度は推測できるものと考える。

 

この後、韓鎮■の一向は4月18日昼頃に驪州郡の中心地を通過した。ソウルを出てからここまで6日の行程であった。

翌4月19日昼前に白巌村(現・驪州郡)前に到着。下船して陸路を進んだ。

ちなみに同時代の英国の旅行家イザベラ・バードは同じ距離を5日で通過しているとのこと。

すなわちソウルから驪州までの遡行は5日~6日と考えてよいということである。

なお、上記文献によれば驪州からソウルまでの下りはたったの2日である。

 

以上を踏まえて驪州~忠州間の水行の日程を推測すると、

現在の道路距離及び河筋距離の比は大まかに言って、

ソウル―驪州を1とすれば、驪州-忠州は0.6である。

この数値で計算すると、驪州-忠州間の行程は3~4日である。

即ちソウル―忠州は水路で8日~10日かかることになる。

水路だけでいえば、伊都国から水行10日の範囲に入ると言えよう。

 

結論

ということで、地理的にも距離的にも妥当な線が出たことで、忠州市は邪馬台国の候補となる可能性があると考えたい。

 

なお投馬国は錦江周辺、狗奴韓国は全羅南道の甕棺国(仮名)を想定しているが、これらについては根拠も少なく、保留としておきたい。

 

以上で「卑弥呼あれこれ」シリーズはいったん終了とさせていただきます。

閲読ありがとうございました。