魏使の旅程と距離前段

 

本論に入る前に陳寿は帯方郡や三韓の位置を把握していた可能性があるということについて説明したい。

 

岡田英弘著「倭国」から引用・要約すると、

「三国志の著者の陳寿(233-297)は、魏の旧敵国の蜀の出身で、蜀に仕えて官職についていたが、故あって失職した。蜀が滅びて魏の世となり、魏が晋と変わっても浮かび上がれなかったが、この陳寿の才能を愛して引き立ててくれたのが、「張華」である。

張華(232-300)は北京の近くの固安県の出身で、縁あって司馬懿の次男の司馬昭の私設秘書室に勤めるようになったが、その優秀さを上に疎まれ、中央から外されて一時故郷の北京(幽州)に赴任し、東北方面総司令官(持節・都督幽州諸軍事・領護烏桓校尉安北将軍)の要職について、大いに成績を挙げた。

 

晋書の「張華列伝」に、このことを「東夷の馬韓の新弥の諸国の、山に依り海を帯び、州(幽州)を去ること四千余里で、歴世未だ附したことのなかった者の二十余国が、並びに使を遣わして朝献した」と言っている。

つまり張華は朝鮮半島(※遼東半島の間違い)の開拓に力を入れたのである。その後の張華の人生は政争に巻き込まれて波乱万丈(上下)であったが、最後はクーデターの巻き添えを喰らって殺されてしまうという悲劇的結末を迎える。

 

陳寿を拾ってくれた恩人はこの張華だった。張華の推薦のおかげで陳寿は官吏の資格を回復し、晋朝の著作郎となって三国志を書き上げたのである」。

 

私見:

陳寿の恩人である張華は馬韓を魏に引き入れる役目を果たした人だから、馬韓がどこにあるか当然知っていたと思われる。

当然その薫陶を受けた陳寿も馬韓の地理も馬韓の隣に辰韓・弁辰があり、弁辰に倭がつながっているという地理は頭に入っていたものと考えられる。すなわち陳寿は知っていたが、魏の勢威を高めるためには誇大な数字を並べ立てざるを得なかったのである。

 

岡田氏の引用を続ける。

「晋書の「張華」列伝に「幽州から馬韓まで4千余里」と書いてある。

幽州刺史は薊(北京)にいたが、応劭の『漢官』には「薊(北京)」は「洛陽の東北2千里」という。

鉄道のマイレージでも、隴海線の洛陽―鄭州間が74.5マイル、京漢線の鄭州-北京間が431.2マイルで、合計505.7マイル(809,1㎞)を換算すると、1864里ほどになる」。

 

この数値は2千里に近いので、洛陽―北京間の距離は誇大化されておらず、実測値と考えてよいと思う。

そこで考えたのが幽州・馬韓間の距離も実測値に近いのではないかという期待だった。つまり実測値に近ければ、馬韓が遼東半島にあることが証明できると思ったのだったが、さて実際は?

 

幽州-馬韓4000余里の検証:

 

馬韓は帯方郡(遼東半島)に在り、馬韓の王都は遼東半島の「雄岳」に仮定することとした。

山形明郷著「古代史犯罪」から引用すると、

「一般に帯方郡とは、楽浪郡の南部都尉治(※管轄する役所)を切り離し、西暦208年ごろ遼東の覇者公孫康(あるいはその父・度の時代ともいわれる)が、設置した私設の「郡県」であり、漢帝国の直轄地ではない。楽浪郡そのものが今日の朝鮮半島方面に設けられたものではないのであるから、その南部と言えば、そこは当然ながら、今日の海城市以南の遼東半島方面になる。

 

ちなみに、中国歴史地図を調べていくと、この帯方郡最後の時期は、くすしくも百済が強勢期に入る後燕の世祖成武帝の建康十年、すなわち西暦395年であり、その治所は「熊岳」である。

何故にこの時代が帯方郡最後の時期となったのか、これも簡単で帯方郡は百済の併合するところとなり終焉を告げることになる。またその治所が「熊岳城」に置かれたということは何を意味するのか。ここがいわゆる百済の都した「熊津城」だったのである。今日現在語られているような韓国の忠清北道や北朝鮮の黄海道方面に存在したものではない」とある。

 

また「百済の所在地について言うならば、「史記正義括地志」に「百済の西南・渤海中…」云々なる語がみられ・・・」とあることから、百済の西南には渤海があったということになる。

したがって帯方郡にあった三韓を吸収したと思われる百済が遼東半島にあったことは、三韓が遼東半島にあったことを証明するものと考える。

幽州(北京)-馬韓=4000余里

魏の時代の1里=0.434㎞

4000里=1736㎞

 

マップメーターによって地図上の距離を測定してみると:

※古代の道は不明なので、現代の道路に従って測定した

 

北京-山海関⇒100mm⇒(100÷33)×100km=303.0km

山海関-熊岳⇒110mm⇒(110÷14)×50km= 392.9km

 

北京-熊岳=695.9km=1603.5里にしかならず、4000余里は実際値の2.5倍誇大化されているといえる。

 

残念!ながら、北京-馬韓間の距離は実際値ではなかった。

ということは、北京-馬韓間を旅した魏の役人はおらず、したがってその旅程の記録もなかったといえるだろう。

しかし北京から帯方郡への役人の赴任や往来はそれなりにあったはずなので、北京―帯方郡間の実際の距離の記録が見つからないのは多分時代経過とともに逸失してしまったと思われ、今残っていないのは真に残念である。

 

次に魏使の旅した帯方郡の郡治から倭の北岸とされる狗奴韓国までの2国の位置を明確にしたい。

 

1.帯方郡の郡治は「熊岳」とされるが、実際の出発地は古来良港と言われる「営口」とする。なぜなら旅程がいきなり水行とあり、陸行はないことと、「熊岳」に港があったか否か不明だからである。

 

2.次の到着地「狗奴韓国」はどこか?

 

遼東半島は大陸の端に逆三角形を張り付けた形をしている。逆三角形の西側の底辺の頂点(A)が「営口」である。そして逆三角形の頂点(B)が旅順・大連となる。逆三角形に東側の底辺の頂点(C)が鴨緑江の河口にあたる「丹東」である。

 

大雑把に言えば、逆三角形の左側から右へ2/3が馬韓、残り1/3が辰韓・弁辰と仮定できる(山形氏)。

倭国は辰韓・弁辰に一部接しているとあるので、辰韓・弁辰の沿岸部から朝鮮半島西部の沿岸にかけて散在していた(黄色の帯)と考えられる。

狗邪韓国は倭国から見て北の方位にある岸にあるとあるので、地図上ではC地点がそれに一致する。

なお、この「北岸」という意味は、図の黄色の帯が倭国の国々とすると、黄色帯の最も北にあたる地点という意味に捉えることとする。

すると、狗邪韓国は辰韓・弁辰のもっとも東に位置して、倭と接していたことになる。

 

なお、参考のために、

「西北微東至 大海北岸 都里鎮五百三十五里」という表現があり、これはすなわち、

「都里鎮(遼東半島旅順)は大海(黄海)の北岸に位置する」 とする例があることを挙げておく。

 

次に営口(A)-旅順・大連(B)-丹東(C)の地図上の実際値と倭人伝の「里」とを比較して、どのくらい誇大化されているか見てみよう。

 

帯方郡治-狗邪韓国=7000余里

戦前の関東州(遼東半島)地図によると、

営口―旅順=180海里=333.36km

大連―龍岩浦(丹東)=160海里=296.3km

1浬(海里)=1.852キロメートル

↓実際の距離

営口―龍岩浦(丹東)=629.7km=1451里」

 

倭人伝記載の距離:

7000里×0.434km/里=3038.0km

 

誇大倍率の計算

実際の距離629.7÷倭人伝の距離3038(7000里)=0.2072⇒約2/10⇒5倍誇大化されていることになる。

仮説:陳寿の誇大倍率は実際の距離の5倍と仮定する。

 

ここまで

次回からは丹東以降の旅程について検討してみたい。