旅程の読み方と言葉の定義

 

女王国の国々の地理的位置を検討する前に、倭人伝の旅程の言葉の定義を明確にする必要がある。

 

魏志倭人伝の旅程原文:旅程以外の語句、文章は省く

 

従郡  「倭」

循海岸 水行  

歴韓国 乍南乍東

(従郡)  其(倭)北岸「狗邪韓国」 七千余里

 

文の解釈:「郡を中心地にして南東の方向7000余里にある狗邪韓国に到達した」と郡と狗邪韓国の位置関係を放射状に示した

 

始   度一海 千余里 至 対海国(官名あり)

又 南 渡一海 千余里 至 一大国(官名あり) 

又   渡一海 千余里 至 末盧国(官名なし)

 

文の解釈:この文は「始め、又、又と順序を示しており」、旅程が順番に直列的に進むことを示している。

 

東南 陸行 五百里  伊都国(郡使往来常所駐)

文の解釈:2の文と同じ配列で語句が並んでおり、2の文に直線的につながる形である。「(末盧国に上陸し、)東南に陸行500里で伊都国に到達した」

 

東南 至 奴国 (陸行) 百里

東行 至 不弥国(陸行) 百里

南  至 投馬国 水行  二十日

南  至 邪馬壱国水行  十日陸行一月

文の解釈:郡使往来常所駐の伊都国を中心地にして、それぞれの国との位置関係を示した。

放射状に東西南北のそれぞれの方向にどのような国があるかを明らかにしている。1の文と同じ構成である。後段で詳述する。

 

自郡  女王国     万二千余里

文の解釈:1の始めにある「従郡  「倭」」に合わせてある。

 

 

言葉の定義が重要

「行」について

中島信文著「陳寿『三国志』が語る知られざる驚異の古代日本」によれば

「行」とは、「人間の行い」という意味で、魏志倭人伝では主に「道のり」、「旅、行程」という意味で使用されているという。

氏は、この「行」を「行く」と動詞的に解するのは誤訳だとして、倭人伝では「どこかに行く」は「至」や「到」を使っているとする。

私もこの定義を使って考えてみたい。たとえば、「東南陸行 五百里 到伊都国」は「東南の方向に陸の旅をして、五百里で伊都国に到着する」となるだろう。

                                                                      

水行・陸行について

謝銘仁著「邪馬台国を中国人はこう読む」の該当箇所を要約すると、

「「水行」とは「水の上を行く」の意に取られ、倭人伝の中に出てくる3か所の「水行」は「水路を行く」こと、すなわち、河川や運河・湖沼ならびに沿海・海上を行くすべての場合に使われる。

「海行」とは、「海の上を行く」「航海する」「海原を行く」の事で、「海行」は「水行」の中に入るが、「水行」は「海行」に含まれるとは限らない」とあります。

 

謝氏は、「帯方郡(治)から朝鮮半島(※遼東半島の間違い)の東南端近くの狗邪韓国までの行程は、すべて水行である。倭人伝に「郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し」とはっきり出ているし、中国文の表現法や文脈から判断しても、すべて沿岸航行であることに疑問を抱く余地はあるまい。」とする。

 

謝氏はまた次のように自説を補足する。

「地理的知識がまだ貧弱だった古代の人は、未知の世界に旅立つことは並大抵のことではなかった。山海経やその他の地理書の記載にもある通り、陸地の道中には異物野獣あり、密林峡谷あり、険山急流あり、暴風狂雨あり、神霊悪疾あり、蛮民盗賊ありなどで、その重なる難関と言えば、我々の想像以上のものであろう。それに銅鏡100枚その他の重荷を背負って、所によっては危険を冒して陸路を行くよりも、河川・運河・沿海などの水路を利用したほうが、むしろ道路事情が悪いところよりも、輸送が早く遠地への旅が安全・迅速であった。・・・海岸沿いに水行するのは、当時の朝鮮半島と倭地に限らず古代・中世・近世を通じて、中国大陸にもみられるありふれた現象である。」

水行・海行については謝氏の見解を選択する。

 

至と到について

まず謝氏の見解を要約して紹介しよう。

「「(従郡)  其(倭)北岸「狗邪韓国」 七千余里」

水行によっての道程で、一番初めにたどり着いた地点が狗邪韓国である。しかも船行の里程から見ると、一番長い七千余里であるから、他と区別して「到」を用いた。

「東南 陸行 五百里  伊都国」

「これは船行で末盧国に着き、末盧国から初段階の陸行で伊都国に着いた行程記事である。その里程五百里という距離は、日程を除き、陸行の道程で、最も長い道のりであるから、やはり「到」を用いて、趣を変えたのである。

つまり康煕字典に「到るは、遠きより至るなり」とあるように、陳寿はこの紀行文の中で、水行・陸行の第一段階であり、最長道程である到達地(狗邪韓国と伊都国)には、「到」の文字をもって、「至」に置き換えたのである。これは用語を豊かならしめ、かつ文章の変化を求めたのにほかならない」。

つまり陳寿は全文「至」だけで表示してもよかったが、文章に変化をつけるために特別なところだけ強調するために「到」に変えたということになる。

 

たしかにそれもあると思うが、私見では前回の投稿文でも示したが、両者は違う意味も持つと考えたい。

すなわち、「至」は単にどこからどこまでという2点間の距離を示すが、「到」は「主要目的地への到着」を表すと考える。

そうすると「到」が使われているケースは、郡から「狗邪韓国」に到着の時と、狗邪韓国から「伊都国」到着の2つしかない。

王都邪馬台国には「至」としか書かれていない。すると伊都国が魏使の終着地と考えられないか? 

狗邪韓国は「郡から初めて到着した倭国の北岸」であり、伊都国は「狗邪韓国から初めて海を3回も渡り、着いた末盧国から今度は上陸して道なき道を延々苦労して歩行してやっと到着した最終到着地」である。

つまり魏使にとっての旅程における「到」の意味は、「倭国の入り口」と「倭国の最終到着地」という最重要地点を示したものと考える。

 

最終到着地伊都国からの先の国々への道程はすべて放射状に解釈することについて

国都を中心に東西南北の各国の位置を放射状に説明する前漢書の例を説明する。

牧健二氏の論文「原文に忠実な魏志倭人伝の解読-後漢書の倭国観の誤謬を重点とする研究―」から該当部分を引用して紹介したい。

牧氏は、前提として陳寿は前漢書の書き方を踏襲しているとしている。

「・・・(4の文について)ただすでに私が考えていたように最後の邪馬台国にも他の三国同様に至の字を用い、伊都国の場合のように到の字を使用していないことが注意を要する点で、邪馬台国が対馬からの航路の最後の到達地であるならば、ここで到の字を用いること、 伊都国で特に到にしたのと同様でなければならないのに、この場合にも他の三国と同様に至の字を用いたのは、邪馬台国が最後の到達地ではなかったからだと思う。

いま至の字を新たに距離を示す文字として解釈するとき、ここが倭人伝の解読において最も留意を要する点だと思うのであるが、

距離を意味するこの場合の至の字と同一の用字法は前漢書の西域伝には頻繁に見受けられ、しかも倭人伝の場合と同様に同一形式の文が繰り返されているのである

たとえば

「大宛国、王治 貴山城。去長安 万二千五百五十里云々。

東至 都護治所  四千三十一里

北至 康居卑〇城 千五百一十里(※〇字は判読不能)

西南至 大月氏 六百九十里

北与 康居

南与 大月氏 接」

とあるがごとく、西域地方に散布した大小約50に及ぶ諸国のそれぞれについて、この形式による距離の列挙がある。これらの場合において各方面への起点が頭書の公明であることは、言葉を用いずして明白だが、倭人伝の場合は上の西域伝のような里程表ではなく、間に官名や戸数を挿入した地誌の体裁になっているので、邪馬台国の部分も至であり到の字が使われていないという理由だけではそうたやすく4国への距離の起点をすべて伊都国だとは言えない。ただ伊都国が帯方郡使の常に駐まる所であるとされているから、それから先は前漢書西域伝において西域都護府からの距離を記載した例に倣って、いちおう伊都国からの距離が列記されているものだと考えることができよう。」

私の仮説では、以上のような例に倣って4の文を解釈することにする。

 

水行10日陸行1月の読み方

これは邪馬台国への旅程だが、大体3通りの解釈がある。

・水行10日後、さらに陸行1月と直列的に読む解釈

・水行10日が本来の旅程で、もし陸行すると1月かかるとする解釈

・旅程の中に水行する部分と陸行する部分がごたまぜに在り、それらを合計すると水行が10日、陸行が1月になり、旅程は両者の合計という解釈

私は水行が本来の旅程説を採用してきたが、明確な証拠がないままだった。

これについても牧氏は前漢書西域伝によって正しい解釈を提出されたので、その部分を要約・引用して紹介する。

「西域伝上巻の最後の尉頭国の条に、「西至 損毒 千三百一十四里径道 馬行二日」とある。千三百一十四里と馬行二日とではあまりにも大差があるので、誰でも連続的に読みたい文である。しかるに清朝の漢書の注釈書を読むと、徐松・王先謙・丁謙は皆これを「普通の歩道なら千三百一十四里だが、山道なら二日で行けると読んでいる。

したがって両路の会合点に損毒国があったのである。

私は邪馬台国の位置を表示する「南水行十日陸行一月」もまた、この前漢書の書例に従って伊都国の南で「水行なら十日陸行なら一月」の位置に、邪馬台国があることを表示したものと思うのである。」

水行十日陸行1月は、この牧氏の説に従って解釈することとする。

 

またこれ以外にも論議しなければならないテーマ(台と壱、女王国以北)があるが、それはまた後日に投稿したい。

次回からは上記定義に従って、魏使の旅程を実際の地図に基づいて推測に再チャレンジしてみたい。

 

ここまで

卑弥呼の王都遷都の謎

 

まず先に魏使張政の女王国訪問にいたるまでの経緯を説明する。

 

243年倭王、また使大夫伊声耆らを遣わし、朝貢(2回目)

245年詔して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮授せしむ

 

247年(正始8年)1年間に起きた倭国の大事

・倭国と狗奴国が戦争状態

・卑弥呼、載斯烏越らを遣わして郡に詣り、狗奴国と相攻撃する状況を説明した

「倭人伝原文:<その8年(247年)、・・・。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼素と不和なり、倭の載斯烏越を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説かしむ」

・卑弥呼死す

・大いに冢を作る。奴婢の循葬者百余人

・男王を立てたるも、国中服せず、相誅殺す。死者千余人

・再び女王を立つ。女王は卑弥呼の宗(同族)女にして年13歳、国中遂に定まる

・郡使張政が、正始6年(245年)以来預かっていた、難升米への詔書を奉じ、「黄幢」を携えて邪馬台に到着。檄を作りて難升米に告喩した

 

 黄幢:「黃幢」とは、「黄」が魏の皇帝の色であり「幢」が旗指物で、魏の正規軍を示す旗で、軍の指揮に用いる。

 

・卑弥呼すでに死せる後にして、時の女王は台与なり

・張政ら檄をもって女王台与に告喩す

・台与の遣使。洛陽への朝貢かたがた張政の帰国(帯方郡への)を護送させた

ここまでが1年間のうちに起きた。

 

仮説1:卑弥呼に遷都する緊急の理由はなかった

 

卑弥呼は高齢であり、住み慣れた伊都国を離れ、新都に遷るだけの体力・気力はなかった

狗奴国と戦闘中であり、遷都する余裕はなかった

仮に狗奴国からの攻撃を避けるために距離をとるのであれば、新都は伊都国の南ではなく北に遷る必要があった。

 

とすれば、遷都の理由は卑弥呼の死後起きた可能性が高いと思われる。

特に卑弥呼が死んだことで、男王が継ぐことに反対して内乱が起きたこと、宗女の台与が新たな国王に選ばれたことは、国々の民の気分を一新する出来事であり、その祝賀を表す手段として遷都が衆議一決したのではないか?

さらに言えば、台与のために新たな都を造営し、台与の「台」を都の名に組み込んで、邪馬台国と命名したのかも。

 

仮説2:張政は247年のいつの時点で伊都国に到着したか?

 

徐氏は247年のうちにこれらすべてのことが起きたと結論付け、台与が次代の女王に立てられた後、つまり国内のゴタゴタがすべて片付いた時点で張政が到着したと説く。

確かに国内が内乱状態のときでは無事に伊都国まで到着できたかといえば、当時の状況から見て生命の保証はなかったと思われる。往復するだけでも危険なのに、戦乱とあれば、なおさらである。

このあたりはこれ以上明確にできないので、保留としておく。

 

仮説3:張政は伊都国に駐在して、邪馬台国までは行っていない。新女王の台与を伊都国まで呼びつけて拝謁させた

 

魏使と倭国にとって最重要拠点は魏使の常に駐在する伊都国である。

邪馬台国にいた台与は伊都国に呼び出され、そこで魏使に会ったと考えておかしくない。

何といっても魏使(魏帝の代理)が主役で、倭王は従である。

魏使(張政)は、あくまで女王卑弥呼の懇請があって伊都国まで来たわけだが、肝心の卑弥呼がすでに死んでしまっていたことと王都が伊都国からさらに南の邪馬台国というところに遷ったことを聞いて、どのように思ったことであろうか?

国中が内乱になり、ようやく台与が共立されて収まったばかりの倭国の新都にまで足を延ばす義理を感じたであろうか?

また伊都国から南へ行くことは卑弥呼と戦争中の狗奴国に近くなることである。身の安全を考えたら、ここは慎重に対処すべきところである。倭国側からも同じような提案があったのではないか?

とすれば、邪馬台国を都とする台与が自ら伊都国まで出向いて魏使に拝謁するのが筋というものであろう。

 

仮説4:内乱中も張政が来た時も狗奴国との戦闘は相変わらず継続中だった

 

卑弥呼が2度目の朝貢の使を送る⇒難升米でないのは、狗奴国との戦争で軍司令官を引き受けており、女王国を離れられなかったからと推測する。この時卑弥呼はすでに狗奴国との戦争について魏の応援をお願いしていた可能性がある。その結果として、以下が起きたと推測する。

翌々年、魏帝は女王軍の総司令官と考えた難升米に黄幢(錦の御旗)を送った。すなわち女王軍は魏の軍と同じであることを示すために。

このことは難升米が魏から黄幢を授けられるくらいの実力者と認められており、おそらく魏使の駐在する伊都国の王であったと考えたい。難升米は卑弥呼が初めて朝貢した時の使節のトップであり、魏の朝廷の面識もあり、信頼されていたと思われる。魏は、卑弥呼は倭国女王で、倭人の国々から共立された盟主ではあるが、主な役割は巫女であり、日常の政務や軍事は伊都国王と考えられる難升米が務めていると認識していたのかもしれない。

 

ところが黄幢が帯方郡に届けられた時、韓人らの叛乱が勃発し、なんと太守が戦死してしまった。結局叛乱は平定されたが、その間黄幢は帯方郡に保管されたままとなってしまった。

そして2年後、新たな太守が帯方郡に着任した。それを知った卑弥呼は再度狗奴国との戦争への応援の依頼を送った。

 

これに応えて新太守は張政に命じて保管していた黄幢を携えさせ、女王国に届けさせた。

張政は伊都国に到着後早速難升米に黄幢を授けた。

すなわち、247年卑弥呼が帯方郡に救援依頼した後その年のうちに張政到着したこと、張政が難升米に旗を授けたこと、張政らが檄をもって女王台与に告諭したこと から奴国との戦闘は継続状態だったと推測する。

 

仮説5:卑弥呼からの依頼記事もないのに、突然魏帝は黄幢を難升米に賜るとして帯方郡治に託したのはなぜか?

 

これについては魏帝が黄幢を難升米に賜った時点(245年)より前に卑弥呼から狗奴国との戦争について連絡が帯方郡に届けられていたとしか考えられない。

 

247年卑弥呼が狗奴国と交戦状態であると魏国に救援依頼をだしたが、その2年前(245年)、何の記事もなく突然魏帝は黄幢を難升米に賜るとして帯方郡治に託し、太守の弓遵からそれを授けることにした。

ところが韓人の叛乱が起きて、平定に向かった太守の弓遵は戦死してしまうという事態が起きた。黄幢は渡すことができなくなり、帯方郡で保管されたままになった。韓人の叛乱が平定された後、247年になってようやく後任の太守王頎が帯方郡に着任した。そこへ卑弥呼から救援のお願いが届けられ、張政が派遣されることになったのである。

 

ではなぜその2年前突然魏帝は黄幢を難升米に授けるため帯方郡に届けたのか?

その理由は書かれていないので推測するしかないが、魏の黄幢は魏軍のシンボルであり、その用途は戦争に使われるものである。理由もなく魏から黄幢が授けられるわけもなく、何らかの女王国からの働き掛けがあってのことだと考える。すなわち247年卑弥呼が狗奴国との戦争を訴えたとあるが、その2年前にも帯方郡に狗奴国との戦争について連絡が行き、それを受けて帯方郡が動いて魏帝から黄幢が難升米に下されたということではないだろうか?

 

黄幢

「黃幢」とは、「黄」が魏の皇帝の色であり「幢」が旗指物で、魏の正規軍を示す旗で、軍の指揮に用いる。

 

ここまで

次回は、狗邪韓国、伊都国、邪馬台国の位置についての再再考を

述べたい。

 

 

 

当初、卑弥呼のいた都は伊都国だった?

 

女王国の都は邪馬台国だと倭人伝に書いてあるが、魏使は伊都国までしか行っていないという説がある。その可能性について妄想してみたい。

この説は支持する人と否定する人がいて、決着していない。だから面白い。

 

数々の疑問

1 魏略では魏使は伊都国止まりで、その先へ行っていない

 

魏志より先に書かれたと思われる魚豢の魏略(逸文)には、

伊都国までの行程しか書いていない。その後の国として出てくるのは「女王の南、また狗奴国があり、男子を王としている」である。

奴国も不弥国も投馬国も邪馬台国も一切出てこない。伊都国の戸数は万余戸とある。

 

魏略逸文(翰苑、唐、雍公叡注)

「東南五百里。伊都国に到る。万余戸。(官を)置く。爾支といい、副は洩渓觚、柄渠觚という。その国王はみな女王に属すなり。」

「女王の南、また狗奴国があり、男子を王としている。その官は拘右智卑狗という。女王には属さない。」

 

2 ところが魏志になると、伊都国の戸数は千余戸と激減している。そして奴国・投馬国・邪馬台国と万余戸の国が続出する。

伊都国は大率を一人置き、郡使の往来し常駐するところで王が治めているところなのに、千余戸は少なすぎないか?

魏略から魏志の間に女王国に大きな変化が起きたとも考えられる。

 

3 対海国、一大国、末盧国、伊都国はその国情を詳しく説明しているが、その後の国はいずれも戸数と官の名称をあげているだけで、説明がない。

ましてや邪馬台国は女王の都なのに都のありさまについては何の説明もない。邪馬台国の名前も1回出ただけである。

これらは非常に不審である。

なぜ草木の生い茂る末盧国や小さな島ばかり詳しい描写があるのか?

 

4 倭国の状況や風俗が詳しく報告されているが、これらは女王国全体の国情の報告であって、各国ごとの報告ではない。その中には卑弥呼の宮殿や墓についての記事もあるが、それらは伊都国での話なのか、邪馬台国での話なのか判別できない。

 

5 郡から不弥国までは里数で距離を示しているのに、不弥国から先の投馬国、邪馬台国への道程は水行の日数で表しているのはなぜか?

魏使らは伊都国止まりだったので、邪馬台国までの距離を、倭人が説明する水行の日数で示したのではないか?

投馬国、邪馬台国の戸数も「おおよそ○○」と記載されている。実際に行った場所ならもっと正確に記載できるはずである。

 

6 到と至の違いについて

どちらも同じ意味とする説が優勢だが、本仮説では両者は違う意味を持つと考えたい。詳しくは後述するが、「至」は単にどこからどこまでという2点間の距離を示すが、「到」は主要目的地への「到着」を表すとする。そうすると「到」が使われているケースは、郡から「狗邪韓国」に到着の時と、狗邪韓国から「伊都国」到着の2つしかない。

王都邪馬台国には「至」としか書かれていない。すると伊都国が魏使の終着地と考えられないか?

狗邪韓国は「郡から初めて到着した倭国の北岸」であり、伊都国は狗邪韓国から初めて海を3回も渡り、着いた末ろ国から今度は上陸して道なき道を延々苦労して歩行してやっと到着した最終到着地である。

 

結論

これらの事から、魏略の書かれた時代には伊都国が女王の都だったのではないかという疑問が強くわく。

魏からの最初の使、梯儁(ていしゅん)は卑弥呼に会って、皇帝からの贈り物を手渡ししたことは間違いないのであるが、その時の卑弥呼は伊都国に宮殿を構えていたのではないか?

そして配下に一人の大率を置き、郡使の往来や交易を監察させていたと考えたほうがはるかに納得性が高いように思えるが。人口も万余戸あっておかしくない。

 

以上の謎を解き明かす仮説として、私は加治木義博著「卑弥呼を攻めた神武天皇」の仮説に賛同するので、該当する部分を要約して紹介したい。

 

確実にヒミコに会った帯方郡使の梯儁:

倭人伝には、ヒミコの第1回目の使者派遣に対する答礼の使者として、240年に帯方郡の役人である梯儁がやってきたと記録されている。彼はその時ヒミコに会っている。「詔書と印綬をささげて倭国に到

着し倭王に拝仮した」と書いてある。・・・この倭王をヒミコではないという説もあったが、彼女は正式に親魏倭王に任命されているのだから「女王ではなく、倭王と呼ばなければならない」のである。

 

魏使梯儁らは確かに卑弥呼を見た言う証拠

徐氏によれば、

原文:「正始元年、太守弓遵は、建中校尉梯儁らを遣わし、詔書・印綬を奉じて倭国にいたり、倭王に拝仮し、あわせて詔を齎し、金帛・錦罽・刀・鏡・采物を賜わしむ」

「奉詔書」は、詔書を「ささげもつ」ことであって、詔書を「たてまつる」ことではない。

齎詔の齎は「もたらす」ではない。「わたす」ことである。しかも手渡しである。「齎」という字の第一義は、確かに「持っていく、持ってくる」という「もたらす」であるが、第二義は「与える、付する、渡す」ことで、「わたす」と訓読する」とある。

 

※拝假倭王の儀式:

徐氏によれば、

「・・・この拝仮の儀式は、「もろもろの侯王・公に拝するの儀」になぞらえて行われただろう。魏使が邪馬壱国(※徐氏は卑弥呼が邪馬壱国で魏使に会った説)に到着する前に、すでに伊都国からの急報があり、いろいろな礼節についてはあらかじめ教わった通りの知らせがあったに違いない。

「拝仮」の儀式において、魏使梯儁が、ひれ伏した女王卑弥呼の前で、「制詔親魏倭王卑弥呼云々」と詔書を朗読した後に、金印紫綬や策書(詔書の一種)や錦・帛などの賜与品が、定まった方式に従って、次々に卑弥呼に渡されたに違いない。そして卑弥呼は教わった通りに「再拝三頓首」をなし、倭語で「親魏倭王臣卑弥呼」という意味の言葉をとなえ、謝恩の辞を述べたであろう。しかる後に、卑弥呼は立ち上がり、王位に就く。この時点で卑弥呼ははじめて「親魏倭王」になったわけである」とする。

 

再び加治木氏の著書に戻る。

魏志倭人伝の原著者は二人だけ:

倭人伝は、もう一人帯方郡使が来たことを記録している。「張政」だ。ヒミコが狗奴国男王と不和になり、それをヒミコの使者が帯方郡に訴え出たために、247年にやってきた。しかし彼はヒミコとは会えずに、難升米にだけ拝仮して、詔書と黄色の旗とを手渡ししている。

だからヒミコに会って記録したのは梯儁だけなのだ。

この二人は魏の正式の外交官としてやってきたのだから、当然報告書を書いて提出する。…倭人伝に書かれていることは皆、この二人が書いたものが芯になっているのである。過去の説が言う著者はこの二人で、陳寿や魚豢はそれを切り貼りしてつないだだけの「事務屋」に過ぎない」

 

魏志と異なる魏略の謎:

次は倭人伝のどの部分を誰が書いたか?ということだ。それは陳寿のものと魚豢のものとの相違点を観察するとわかる。

魚豢のものは、困ったことに原文は残っていないが、ありがたいことに清の時代に張鵬一があちらこちらに少しずつバラバラに残っていた逸文を集めて、魏略輯本25巻を作った。それがあるので一応の比較ができる。

その魏略逸文をみると、面白いことがいくつも分かる。

まず第一は、帯方郡からのコースが伊都国に到着したところで終わっていることである。魏志ではその後に奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国があるのに、この魏力逸文にはそれがない。

第二は、この魏略には伊都国の戸数が万余戸あると書いてあるのに、魏志では千余戸しかない。この二つは一体どう考えたらいいのだろう・・・」。

 

ヒミコは「伊都国」で帯方郡使と会った:

これは伊都国までで切れている方が先に書かれ、それを補うために伊都国以後の国々が後で書き入れられたことは間違いない。では先に書いたのは誰か?それは先にやってきた梯儁だった。ということは魏略は、初回の帯方郡使梯儁の書いた記事だけしか収録していなかったということなのだ。

すると梯儁は伊都国までしか来なかったのだから、彼がヒミコに会ったのは伊都国だ、ということになる。

ではもう一人の張政は邪馬壱国まで行ったのだろうか?

※邪馬壱国か邪馬台国かについては後述

彼がそこまで行ったのなら、・・・(途中の)コースのことを少なくともある程度は書き残していたはずである。

しかし記事を見ると、そんなことは一言も書いていない。その代わりに伊都国のところに「ここは郡使が行き来するとき、<常=いつも>駐在する土地だ」と書いてある。

郡使は二度しか来ていないのだから、最初に来た梯儁は「いつも」などとは絶対書かない。最初の梯儁がそこに駐在し、今また自分も駐在していると思うのは張政だけである。それなら彼も邪馬壱国までは行っていない。どこから見ても郡使は伊都国止まりだったのである。だとすれば梯儁が見たヒミコの宮室、楼、観、城、柵などは伊都国のものだったのである。

 

「梯儁が帰った後で遷都したヒミコ:

その伊都国が7年後に張政が来た時には、人工1000余戸の小さな町になってしまっていた。そしてそこにいたのは女王でなくて、難升米だった。これはだれが考えても都が移動したのである。そこで張政が聞いたのは、女王のいる都は、南へ水行10日、陸行1カ月もかかる遠方だということだった。だから彼はそこで止まって先へは行かなかったのである。・・・」

 

※陳寿が編集を終えたのが285年頃とされるので、であれば台与の266年の朝貢後なので、266年時までの倭国情報も参考にできたと考えられる。

※魚豢(ぎょけん)は魏略50巻(逸文)で明帝(226-239)までの歴史を撰述したとされる。

 

私には加治木氏が述べた仮説が一番納得性が高かったので、この前提で先に話を進めたいと思う。

第2の魏使、張政の来訪と王都の遷都の謎については、長くなるので次回に回したい。

 

ここまで