当初、卑弥呼のいた都は伊都国だった?

 

女王国の都は邪馬台国だと倭人伝に書いてあるが、魏使は伊都国までしか行っていないという説がある。その可能性について妄想してみたい。

この説は支持する人と否定する人がいて、決着していない。だから面白い。

 

数々の疑問

1 魏略では魏使は伊都国止まりで、その先へ行っていない

 

魏志より先に書かれたと思われる魚豢の魏略(逸文)には、

伊都国までの行程しか書いていない。その後の国として出てくるのは「女王の南、また狗奴国があり、男子を王としている」である。

奴国も不弥国も投馬国も邪馬台国も一切出てこない。伊都国の戸数は万余戸とある。

 

魏略逸文(翰苑、唐、雍公叡注)

「東南五百里。伊都国に到る。万余戸。(官を)置く。爾支といい、副は洩渓觚、柄渠觚という。その国王はみな女王に属すなり。」

「女王の南、また狗奴国があり、男子を王としている。その官は拘右智卑狗という。女王には属さない。」

 

2 ところが魏志になると、伊都国の戸数は千余戸と激減している。そして奴国・投馬国・邪馬台国と万余戸の国が続出する。

伊都国は大率を一人置き、郡使の往来し常駐するところで王が治めているところなのに、千余戸は少なすぎないか?

魏略から魏志の間に女王国に大きな変化が起きたとも考えられる。

 

3 対海国、一大国、末盧国、伊都国はその国情を詳しく説明しているが、その後の国はいずれも戸数と官の名称をあげているだけで、説明がない。

ましてや邪馬台国は女王の都なのに都のありさまについては何の説明もない。邪馬台国の名前も1回出ただけである。

これらは非常に不審である。

なぜ草木の生い茂る末盧国や小さな島ばかり詳しい描写があるのか?

 

4 倭国の状況や風俗が詳しく報告されているが、これらは女王国全体の国情の報告であって、各国ごとの報告ではない。その中には卑弥呼の宮殿や墓についての記事もあるが、それらは伊都国での話なのか、邪馬台国での話なのか判別できない。

 

5 郡から不弥国までは里数で距離を示しているのに、不弥国から先の投馬国、邪馬台国への道程は水行の日数で表しているのはなぜか?

魏使らは伊都国止まりだったので、邪馬台国までの距離を、倭人が説明する水行の日数で示したのではないか?

投馬国、邪馬台国の戸数も「おおよそ○○」と記載されている。実際に行った場所ならもっと正確に記載できるはずである。

 

6 到と至の違いについて

どちらも同じ意味とする説が優勢だが、本仮説では両者は違う意味を持つと考えたい。詳しくは後述するが、「至」は単にどこからどこまでという2点間の距離を示すが、「到」は主要目的地への「到着」を表すとする。そうすると「到」が使われているケースは、郡から「狗邪韓国」に到着の時と、狗邪韓国から「伊都国」到着の2つしかない。

王都邪馬台国には「至」としか書かれていない。すると伊都国が魏使の終着地と考えられないか?

狗邪韓国は「郡から初めて到着した倭国の北岸」であり、伊都国は狗邪韓国から初めて海を3回も渡り、着いた末ろ国から今度は上陸して道なき道を延々苦労して歩行してやっと到着した最終到着地である。

 

結論

これらの事から、魏略の書かれた時代には伊都国が女王の都だったのではないかという疑問が強くわく。

魏からの最初の使、梯儁(ていしゅん)は卑弥呼に会って、皇帝からの贈り物を手渡ししたことは間違いないのであるが、その時の卑弥呼は伊都国に宮殿を構えていたのではないか?

そして配下に一人の大率を置き、郡使の往来や交易を監察させていたと考えたほうがはるかに納得性が高いように思えるが。人口も万余戸あっておかしくない。

 

以上の謎を解き明かす仮説として、私は加治木義博著「卑弥呼を攻めた神武天皇」の仮説に賛同するので、該当する部分を要約して紹介したい。

 

確実にヒミコに会った帯方郡使の梯儁:

倭人伝には、ヒミコの第1回目の使者派遣に対する答礼の使者として、240年に帯方郡の役人である梯儁がやってきたと記録されている。彼はその時ヒミコに会っている。「詔書と印綬をささげて倭国に到

着し倭王に拝仮した」と書いてある。・・・この倭王をヒミコではないという説もあったが、彼女は正式に親魏倭王に任命されているのだから「女王ではなく、倭王と呼ばなければならない」のである。

 

魏使梯儁らは確かに卑弥呼を見た言う証拠

徐氏によれば、

原文:「正始元年、太守弓遵は、建中校尉梯儁らを遣わし、詔書・印綬を奉じて倭国にいたり、倭王に拝仮し、あわせて詔を齎し、金帛・錦罽・刀・鏡・采物を賜わしむ」

「奉詔書」は、詔書を「ささげもつ」ことであって、詔書を「たてまつる」ことではない。

齎詔の齎は「もたらす」ではない。「わたす」ことである。しかも手渡しである。「齎」という字の第一義は、確かに「持っていく、持ってくる」という「もたらす」であるが、第二義は「与える、付する、渡す」ことで、「わたす」と訓読する」とある。

 

※拝假倭王の儀式:

徐氏によれば、

「・・・この拝仮の儀式は、「もろもろの侯王・公に拝するの儀」になぞらえて行われただろう。魏使が邪馬壱国(※徐氏は卑弥呼が邪馬壱国で魏使に会った説)に到着する前に、すでに伊都国からの急報があり、いろいろな礼節についてはあらかじめ教わった通りの知らせがあったに違いない。

「拝仮」の儀式において、魏使梯儁が、ひれ伏した女王卑弥呼の前で、「制詔親魏倭王卑弥呼云々」と詔書を朗読した後に、金印紫綬や策書(詔書の一種)や錦・帛などの賜与品が、定まった方式に従って、次々に卑弥呼に渡されたに違いない。そして卑弥呼は教わった通りに「再拝三頓首」をなし、倭語で「親魏倭王臣卑弥呼」という意味の言葉をとなえ、謝恩の辞を述べたであろう。しかる後に、卑弥呼は立ち上がり、王位に就く。この時点で卑弥呼ははじめて「親魏倭王」になったわけである」とする。

 

再び加治木氏の著書に戻る。

魏志倭人伝の原著者は二人だけ:

倭人伝は、もう一人帯方郡使が来たことを記録している。「張政」だ。ヒミコが狗奴国男王と不和になり、それをヒミコの使者が帯方郡に訴え出たために、247年にやってきた。しかし彼はヒミコとは会えずに、難升米にだけ拝仮して、詔書と黄色の旗とを手渡ししている。

だからヒミコに会って記録したのは梯儁だけなのだ。

この二人は魏の正式の外交官としてやってきたのだから、当然報告書を書いて提出する。…倭人伝に書かれていることは皆、この二人が書いたものが芯になっているのである。過去の説が言う著者はこの二人で、陳寿や魚豢はそれを切り貼りしてつないだだけの「事務屋」に過ぎない」

 

魏志と異なる魏略の謎:

次は倭人伝のどの部分を誰が書いたか?ということだ。それは陳寿のものと魚豢のものとの相違点を観察するとわかる。

魚豢のものは、困ったことに原文は残っていないが、ありがたいことに清の時代に張鵬一があちらこちらに少しずつバラバラに残っていた逸文を集めて、魏略輯本25巻を作った。それがあるので一応の比較ができる。

その魏略逸文をみると、面白いことがいくつも分かる。

まず第一は、帯方郡からのコースが伊都国に到着したところで終わっていることである。魏志ではその後に奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国があるのに、この魏力逸文にはそれがない。

第二は、この魏略には伊都国の戸数が万余戸あると書いてあるのに、魏志では千余戸しかない。この二つは一体どう考えたらいいのだろう・・・」。

 

ヒミコは「伊都国」で帯方郡使と会った:

これは伊都国までで切れている方が先に書かれ、それを補うために伊都国以後の国々が後で書き入れられたことは間違いない。では先に書いたのは誰か?それは先にやってきた梯儁だった。ということは魏略は、初回の帯方郡使梯儁の書いた記事だけしか収録していなかったということなのだ。

すると梯儁は伊都国までしか来なかったのだから、彼がヒミコに会ったのは伊都国だ、ということになる。

ではもう一人の張政は邪馬壱国まで行ったのだろうか?

※邪馬壱国か邪馬台国かについては後述

彼がそこまで行ったのなら、・・・(途中の)コースのことを少なくともある程度は書き残していたはずである。

しかし記事を見ると、そんなことは一言も書いていない。その代わりに伊都国のところに「ここは郡使が行き来するとき、<常=いつも>駐在する土地だ」と書いてある。

郡使は二度しか来ていないのだから、最初に来た梯儁は「いつも」などとは絶対書かない。最初の梯儁がそこに駐在し、今また自分も駐在していると思うのは張政だけである。それなら彼も邪馬壱国までは行っていない。どこから見ても郡使は伊都国止まりだったのである。だとすれば梯儁が見たヒミコの宮室、楼、観、城、柵などは伊都国のものだったのである。

 

「梯儁が帰った後で遷都したヒミコ:

その伊都国が7年後に張政が来た時には、人工1000余戸の小さな町になってしまっていた。そしてそこにいたのは女王でなくて、難升米だった。これはだれが考えても都が移動したのである。そこで張政が聞いたのは、女王のいる都は、南へ水行10日、陸行1カ月もかかる遠方だということだった。だから彼はそこで止まって先へは行かなかったのである。・・・」

 

※陳寿が編集を終えたのが285年頃とされるので、であれば台与の266年の朝貢後なので、266年時までの倭国情報も参考にできたと考えられる。

※魚豢(ぎょけん)は魏略50巻(逸文)で明帝(226-239)までの歴史を撰述したとされる。

 

私には加治木氏が述べた仮説が一番納得性が高かったので、この前提で先に話を進めたいと思う。

第2の魏使、張政の来訪と王都の遷都の謎については、長くなるので次回に回したい。

 

ここまで