卑弥呼の王都遷都の謎
まず先に魏使張政の女王国訪問にいたるまでの経緯を説明する。
243年倭王、また使大夫伊声耆らを遣わし、朝貢(2回目)
245年詔して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮授せしむ
247年(正始8年)1年間に起きた倭国の大事
・倭国と狗奴国が戦争状態
・卑弥呼、載斯烏越らを遣わして郡に詣り、狗奴国と相攻撃する状況を説明した
「倭人伝原文:<その8年(247年)、・・・。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼素と不和なり、倭の載斯烏越を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説かしむ」
・卑弥呼死す
・大いに冢を作る。奴婢の循葬者百余人
・男王を立てたるも、国中服せず、相誅殺す。死者千余人
・再び女王を立つ。女王は卑弥呼の宗(同族)女にして年13歳、国中遂に定まる
・郡使張政が、正始6年(245年)以来預かっていた、難升米への詔書を奉じ、「黄幢」を携えて邪馬台に到着。檄を作りて難升米に告喩した
黄幢:「黃幢」とは、「黄」が魏の皇帝の色であり「幢」が旗指物で、魏の正規軍を示す旗で、軍の指揮に用いる。
・卑弥呼すでに死せる後にして、時の女王は台与なり
・張政ら檄をもって女王台与に告喩す
・台与の遣使。洛陽への朝貢かたがた張政の帰国(帯方郡への)を護送させた
ここまでが1年間のうちに起きた。
仮説1:卑弥呼に遷都する緊急の理由はなかった
卑弥呼は高齢であり、住み慣れた伊都国を離れ、新都に遷るだけの体力・気力はなかった
狗奴国と戦闘中であり、遷都する余裕はなかった
仮に狗奴国からの攻撃を避けるために距離をとるのであれば、新都は伊都国の南ではなく北に遷る必要があった。
とすれば、遷都の理由は卑弥呼の死後起きた可能性が高いと思われる。
特に卑弥呼が死んだことで、男王が継ぐことに反対して内乱が起きたこと、宗女の台与が新たな国王に選ばれたことは、国々の民の気分を一新する出来事であり、その祝賀を表す手段として遷都が衆議一決したのではないか?
さらに言えば、台与のために新たな都を造営し、台与の「台」を都の名に組み込んで、邪馬台国と命名したのかも。
仮説2:張政は247年のいつの時点で伊都国に到着したか?
徐氏は247年のうちにこれらすべてのことが起きたと結論付け、台与が次代の女王に立てられた後、つまり国内のゴタゴタがすべて片付いた時点で張政が到着したと説く。
確かに国内が内乱状態のときでは無事に伊都国まで到着できたかといえば、当時の状況から見て生命の保証はなかったと思われる。往復するだけでも危険なのに、戦乱とあれば、なおさらである。
このあたりはこれ以上明確にできないので、保留としておく。
仮説3:張政は伊都国に駐在して、邪馬台国までは行っていない。新女王の台与を伊都国まで呼びつけて拝謁させた
魏使と倭国にとって最重要拠点は魏使の常に駐在する伊都国である。
邪馬台国にいた台与は伊都国に呼び出され、そこで魏使に会ったと考えておかしくない。
何といっても魏使(魏帝の代理)が主役で、倭王は従である。
魏使(張政)は、あくまで女王卑弥呼の懇請があって伊都国まで来たわけだが、肝心の卑弥呼がすでに死んでしまっていたことと王都が伊都国からさらに南の邪馬台国というところに遷ったことを聞いて、どのように思ったことであろうか?
国中が内乱になり、ようやく台与が共立されて収まったばかりの倭国の新都にまで足を延ばす義理を感じたであろうか?
また伊都国から南へ行くことは卑弥呼と戦争中の狗奴国に近くなることである。身の安全を考えたら、ここは慎重に対処すべきところである。倭国側からも同じような提案があったのではないか?
とすれば、邪馬台国を都とする台与が自ら伊都国まで出向いて魏使に拝謁するのが筋というものであろう。
仮説4:内乱中も張政が来た時も狗奴国との戦闘は相変わらず継続中だった
卑弥呼が2度目の朝貢の使を送る⇒難升米でないのは、狗奴国との戦争で軍司令官を引き受けており、女王国を離れられなかったからと推測する。この時卑弥呼はすでに狗奴国との戦争について魏の応援をお願いしていた可能性がある。その結果として、以下が起きたと推測する。
翌々年、魏帝は女王軍の総司令官と考えた難升米に黄幢(錦の御旗)を送った。すなわち女王軍は魏の軍と同じであることを示すために。
このことは難升米が魏から黄幢を授けられるくらいの実力者と認められており、おそらく魏使の駐在する伊都国の王であったと考えたい。難升米は卑弥呼が初めて朝貢した時の使節のトップであり、魏の朝廷の面識もあり、信頼されていたと思われる。魏は、卑弥呼は倭国女王で、倭人の国々から共立された盟主ではあるが、主な役割は巫女であり、日常の政務や軍事は伊都国王と考えられる難升米が務めていると認識していたのかもしれない。
ところが黄幢が帯方郡に届けられた時、韓人らの叛乱が勃発し、なんと太守が戦死してしまった。結局叛乱は平定されたが、その間黄幢は帯方郡に保管されたままとなってしまった。
そして2年後、新たな太守が帯方郡に着任した。それを知った卑弥呼は再度狗奴国との戦争への応援の依頼を送った。
これに応えて新太守は張政に命じて保管していた黄幢を携えさせ、女王国に届けさせた。
張政は伊都国に到着後早速難升米に黄幢を授けた。
すなわち、247年卑弥呼が帯方郡に救援依頼した後その年のうちに張政到着したこと、張政が難升米に旗を授けたこと、張政らが檄をもって女王台与に告諭したこと から狗奴国との戦闘は継続状態だったと推測する。
仮説5:卑弥呼からの依頼記事もないのに、突然魏帝は黄幢を難升米に賜るとして帯方郡治に託したのはなぜか?
これについては魏帝が黄幢を難升米に賜った時点(245年)より前に卑弥呼から狗奴国との戦争について連絡が帯方郡に届けられていたとしか考えられない。
247年卑弥呼が狗奴国と交戦状態であると魏国に救援依頼をだしたが、その2年前(245年)、何の記事もなく突然魏帝は黄幢を難升米に賜るとして帯方郡治に託し、太守の弓遵からそれを授けることにした。
ところが韓人の叛乱が起きて、平定に向かった太守の弓遵は戦死してしまうという事態が起きた。黄幢は渡すことができなくなり、帯方郡で保管されたままになった。韓人の叛乱が平定された後、247年になってようやく後任の太守王頎が帯方郡に着任した。そこへ卑弥呼から救援のお願いが届けられ、張政が派遣されることになったのである。
ではなぜその2年前突然魏帝は黄幢を難升米に授けるため帯方郡に届けたのか?
その理由は書かれていないので推測するしかないが、魏の黄幢は魏軍のシンボルであり、その用途は戦争に使われるものである。理由もなく魏から黄幢が授けられるわけもなく、何らかの女王国からの働き掛けがあってのことだと考える。すなわち247年卑弥呼が狗奴国との戦争を訴えたとあるが、その2年前にも帯方郡に狗奴国との戦争について連絡が行き、それを受けて帯方郡が動いて魏帝から黄幢が難升米に下されたということではないだろうか?
黄幢:
「黃幢」とは、「黄」が魏の皇帝の色であり「幢」が旗指物で、魏の正規軍を示す旗で、軍の指揮に用いる。
ここまで
次回は、狗邪韓国、伊都国、邪馬台国の位置についての再再考を
述べたい。