旅程の読み方と言葉の定義

 

女王国の国々の地理的位置を検討する前に、倭人伝の旅程の言葉の定義を明確にする必要がある。

 

魏志倭人伝の旅程原文:旅程以外の語句、文章は省く

 

従郡  「倭」

循海岸 水行  

歴韓国 乍南乍東

(従郡)  其(倭)北岸「狗邪韓国」 七千余里

 

文の解釈:「郡を中心地にして南東の方向7000余里にある狗邪韓国に到達した」と郡と狗邪韓国の位置関係を放射状に示した

 

始   度一海 千余里 至 対海国(官名あり)

又 南 渡一海 千余里 至 一大国(官名あり) 

又   渡一海 千余里 至 末盧国(官名なし)

 

文の解釈:この文は「始め、又、又と順序を示しており」、旅程が順番に直列的に進むことを示している。

 

東南 陸行 五百里  伊都国(郡使往来常所駐)

文の解釈:2の文と同じ配列で語句が並んでおり、2の文に直線的につながる形である。「(末盧国に上陸し、)東南に陸行500里で伊都国に到達した」

 

東南 至 奴国 (陸行) 百里

東行 至 不弥国(陸行) 百里

南  至 投馬国 水行  二十日

南  至 邪馬壱国水行  十日陸行一月

文の解釈:郡使往来常所駐の伊都国を中心地にして、それぞれの国との位置関係を示した。

放射状に東西南北のそれぞれの方向にどのような国があるかを明らかにしている。1の文と同じ構成である。後段で詳述する。

 

自郡  女王国     万二千余里

文の解釈:1の始めにある「従郡  「倭」」に合わせてある。

 

 

言葉の定義が重要

「行」について

中島信文著「陳寿『三国志』が語る知られざる驚異の古代日本」によれば

「行」とは、「人間の行い」という意味で、魏志倭人伝では主に「道のり」、「旅、行程」という意味で使用されているという。

氏は、この「行」を「行く」と動詞的に解するのは誤訳だとして、倭人伝では「どこかに行く」は「至」や「到」を使っているとする。

私もこの定義を使って考えてみたい。たとえば、「東南陸行 五百里 到伊都国」は「東南の方向に陸の旅をして、五百里で伊都国に到着する」となるだろう。

                                                                      

水行・陸行について

謝銘仁著「邪馬台国を中国人はこう読む」の該当箇所を要約すると、

「「水行」とは「水の上を行く」の意に取られ、倭人伝の中に出てくる3か所の「水行」は「水路を行く」こと、すなわち、河川や運河・湖沼ならびに沿海・海上を行くすべての場合に使われる。

「海行」とは、「海の上を行く」「航海する」「海原を行く」の事で、「海行」は「水行」の中に入るが、「水行」は「海行」に含まれるとは限らない」とあります。

 

謝氏は、「帯方郡(治)から朝鮮半島(※遼東半島の間違い)の東南端近くの狗邪韓国までの行程は、すべて水行である。倭人伝に「郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し」とはっきり出ているし、中国文の表現法や文脈から判断しても、すべて沿岸航行であることに疑問を抱く余地はあるまい。」とする。

 

謝氏はまた次のように自説を補足する。

「地理的知識がまだ貧弱だった古代の人は、未知の世界に旅立つことは並大抵のことではなかった。山海経やその他の地理書の記載にもある通り、陸地の道中には異物野獣あり、密林峡谷あり、険山急流あり、暴風狂雨あり、神霊悪疾あり、蛮民盗賊ありなどで、その重なる難関と言えば、我々の想像以上のものであろう。それに銅鏡100枚その他の重荷を背負って、所によっては危険を冒して陸路を行くよりも、河川・運河・沿海などの水路を利用したほうが、むしろ道路事情が悪いところよりも、輸送が早く遠地への旅が安全・迅速であった。・・・海岸沿いに水行するのは、当時の朝鮮半島と倭地に限らず古代・中世・近世を通じて、中国大陸にもみられるありふれた現象である。」

水行・海行については謝氏の見解を選択する。

 

至と到について

まず謝氏の見解を要約して紹介しよう。

「「(従郡)  其(倭)北岸「狗邪韓国」 七千余里」

水行によっての道程で、一番初めにたどり着いた地点が狗邪韓国である。しかも船行の里程から見ると、一番長い七千余里であるから、他と区別して「到」を用いた。

「東南 陸行 五百里  伊都国」

「これは船行で末盧国に着き、末盧国から初段階の陸行で伊都国に着いた行程記事である。その里程五百里という距離は、日程を除き、陸行の道程で、最も長い道のりであるから、やはり「到」を用いて、趣を変えたのである。

つまり康煕字典に「到るは、遠きより至るなり」とあるように、陳寿はこの紀行文の中で、水行・陸行の第一段階であり、最長道程である到達地(狗邪韓国と伊都国)には、「到」の文字をもって、「至」に置き換えたのである。これは用語を豊かならしめ、かつ文章の変化を求めたのにほかならない」。

つまり陳寿は全文「至」だけで表示してもよかったが、文章に変化をつけるために特別なところだけ強調するために「到」に変えたということになる。

 

たしかにそれもあると思うが、私見では前回の投稿文でも示したが、両者は違う意味も持つと考えたい。

すなわち、「至」は単にどこからどこまでという2点間の距離を示すが、「到」は「主要目的地への到着」を表すと考える。

そうすると「到」が使われているケースは、郡から「狗邪韓国」に到着の時と、狗邪韓国から「伊都国」到着の2つしかない。

王都邪馬台国には「至」としか書かれていない。すると伊都国が魏使の終着地と考えられないか? 

狗邪韓国は「郡から初めて到着した倭国の北岸」であり、伊都国は「狗邪韓国から初めて海を3回も渡り、着いた末盧国から今度は上陸して道なき道を延々苦労して歩行してやっと到着した最終到着地」である。

つまり魏使にとっての旅程における「到」の意味は、「倭国の入り口」と「倭国の最終到着地」という最重要地点を示したものと考える。

 

最終到着地伊都国からの先の国々への道程はすべて放射状に解釈することについて

国都を中心に東西南北の各国の位置を放射状に説明する前漢書の例を説明する。

牧健二氏の論文「原文に忠実な魏志倭人伝の解読-後漢書の倭国観の誤謬を重点とする研究―」から該当部分を引用して紹介したい。

牧氏は、前提として陳寿は前漢書の書き方を踏襲しているとしている。

「・・・(4の文について)ただすでに私が考えていたように最後の邪馬台国にも他の三国同様に至の字を用い、伊都国の場合のように到の字を使用していないことが注意を要する点で、邪馬台国が対馬からの航路の最後の到達地であるならば、ここで到の字を用いること、 伊都国で特に到にしたのと同様でなければならないのに、この場合にも他の三国と同様に至の字を用いたのは、邪馬台国が最後の到達地ではなかったからだと思う。

いま至の字を新たに距離を示す文字として解釈するとき、ここが倭人伝の解読において最も留意を要する点だと思うのであるが、

距離を意味するこの場合の至の字と同一の用字法は前漢書の西域伝には頻繁に見受けられ、しかも倭人伝の場合と同様に同一形式の文が繰り返されているのである

たとえば

「大宛国、王治 貴山城。去長安 万二千五百五十里云々。

東至 都護治所  四千三十一里

北至 康居卑〇城 千五百一十里(※〇字は判読不能)

西南至 大月氏 六百九十里

北与 康居

南与 大月氏 接」

とあるがごとく、西域地方に散布した大小約50に及ぶ諸国のそれぞれについて、この形式による距離の列挙がある。これらの場合において各方面への起点が頭書の公明であることは、言葉を用いずして明白だが、倭人伝の場合は上の西域伝のような里程表ではなく、間に官名や戸数を挿入した地誌の体裁になっているので、邪馬台国の部分も至であり到の字が使われていないという理由だけではそうたやすく4国への距離の起点をすべて伊都国だとは言えない。ただ伊都国が帯方郡使の常に駐まる所であるとされているから、それから先は前漢書西域伝において西域都護府からの距離を記載した例に倣って、いちおう伊都国からの距離が列記されているものだと考えることができよう。」

私の仮説では、以上のような例に倣って4の文を解釈することにする。

 

水行10日陸行1月の読み方

これは邪馬台国への旅程だが、大体3通りの解釈がある。

・水行10日後、さらに陸行1月と直列的に読む解釈

・水行10日が本来の旅程で、もし陸行すると1月かかるとする解釈

・旅程の中に水行する部分と陸行する部分がごたまぜに在り、それらを合計すると水行が10日、陸行が1月になり、旅程は両者の合計という解釈

私は水行が本来の旅程説を採用してきたが、明確な証拠がないままだった。

これについても牧氏は前漢書西域伝によって正しい解釈を提出されたので、その部分を要約・引用して紹介する。

「西域伝上巻の最後の尉頭国の条に、「西至 損毒 千三百一十四里径道 馬行二日」とある。千三百一十四里と馬行二日とではあまりにも大差があるので、誰でも連続的に読みたい文である。しかるに清朝の漢書の注釈書を読むと、徐松・王先謙・丁謙は皆これを「普通の歩道なら千三百一十四里だが、山道なら二日で行けると読んでいる。

したがって両路の会合点に損毒国があったのである。

私は邪馬台国の位置を表示する「南水行十日陸行一月」もまた、この前漢書の書例に従って伊都国の南で「水行なら十日陸行なら一月」の位置に、邪馬台国があることを表示したものと思うのである。」

水行十日陸行1月は、この牧氏の説に従って解釈することとする。

 

またこれ以外にも論議しなければならないテーマ(台と壱、女王国以北)があるが、それはまた後日に投稿したい。

次回からは上記定義に従って、魏使の旅程を実際の地図に基づいて推測に再チャレンジしてみたい。

 

ここまで