一湾生の備忘録の備忘録 18 下駄作り 西表島へ NEW!2024年05月01日(水) テーマ:ブログ

下駄作り
 石垣には“アブラギリ”と言う、下駄作りに適した木があった。
それを、山に行くに人に頼んで、60センチ程の長さに切って貰って買った。
 それをリヤカーで製材所に運び下駄作りに適した寸法に製材した。

 下駄作りに使う工具は、下駄を作る場所で見た物を、描いて
鍛冶屋に頼んだ。
 作った下駄は、以前に水屋を買って貰った”儀間商店”の、
おばあさんに買って貰った。仕事は楽しくて張り合いが有った。

 下駄は、最初は良く売れたが、靴が手に入り易くなり、
徐々に売れなくなった。

西表へ さて、どうしようかなと考える時に、西表に行ったらどうかと、
母方の親戚に誘われて、"FS"と呼ばれていた千トン程の船に乗って、
西表に向かったが、暴風雨に遇い船は名蔵湾(なぐらわん)に避難した。

「米軍西表伐採事業所」
 2日程経って暴風雨は収まり船は、白浜に着いた。
直ぐに「米軍西表伐採事業所」行き就職の手続きをして、
配給所で寝具と葉巻煙草1箱を受け取った。
19歳だが煙草をもらっても良いかなと思った。
 そこに石垣中学校の同級生だったのが居たが
先方は、私を知ってか、知らないのか黙っていた。

 独身の宿舎は80名程がはいる1棟で、
中央が通路で左右か通路から約50センチ上がって、
床が作られていた。

 配置先は建築課に決まった

まずは、ブログを見ませんか

一湾生の備忘録 その2 造橋の自宅付近の様子


造橋駅は、鉄道の縦貫線が台中線に分岐する
竹南駅の次の駅だ。


造橋は人口は定かではないが、
小学校も無い人口の少ないとところだった。
住んでいるたいる台湾人は、広東語を使っていた。



当時の初等教育制度は、
台湾人の子どもは、公学校で、
内地人の子どもは、小学校で教育を受けるようになっていた。


後に、小学校は第一国民学校に、
公学校は第ニ国民学校に改称された。




原住民の児童は”蕃童教育所”で行い、
教師は、駐在所の巡査だった。


”♫サヨンの鐘”はこれに基づいている。


公学校の授業は日本語で行い、教師は内地人だ。
授業受けていた児童は苦しかっただろう。


でも、当時の教育を受けた台湾人は、日本語は上手だ。

「勝っちゃんのお父さんは、陸軍一等兵だったね」とは、
近所の人台湾人のおばさんの言葉だ。


公共のた建物は、庄役場、警察官駐在署 公会堂 公学校の校舎の程度だった。


警察官駐在署の建物は、正面玄関から見て、
中央が事務所 左側が内地人の右側が台湾人の宿舎になっていた。  
巡査はそれぞれ三八式歩兵銃を所持していた。


私が住んでいた間は事件もなく、近所の屠殺場で処理された」
台湾人二人が棒で担いできた豚に、青い検印を、
ペタペタと押すのが仕事のように思えた。


内地人の私の年頃の男の子は居なかった。
公学校の校長の娘さんは居たが、
「男女七歳にて席を同じゆせず。」の時代だ。



友達は、必然的に台湾人の男の子だ。
いろいろと教えて貰った。
「長幼序あり」のようなことも言っていた。



私の家には、銃が3丁あった。
村田銃、外国製の中折れ式の銃 いずれも散弾銃の猟銃。
ドイツ製の空気銃。





父親の仕事は「台湾電力 造橋散宿所」
特別高圧電線路巡視が主な仕事。


巡視の時は猟銃を持って行った。
獲物は、山鳩 ペタコ(白頭)雀。


ぶつぶつ言いながら、母親は鳥の毛をむしった。
調理は父親がした。

「これらは、台北だは値段は高いんだよ」とも言っていた。
私は雀の頭を美味しいと思ったりした。

一湾生の備忘録 懐かしい台湾その7新竹中学校に入学

 新竹中学校は、十八仙山(標高約400メートルの麓に位置している。
当時は、学校の軍の要塞があり海軍の兵士が、鍛冶場で、かすがいを作っていた。
トンネルの坑木に使用するためだ。


 その兵士は、沖縄の海軍壕を、たがねと金槌で掘ったことを話していた。
戦局はそれ程、ひっ迫していたのだった。



 新竹中学校は、現在は「国立国立高級中学」と呼ぶそうだ。
少し誇らしく思う。
校庭からは新竹海軍飛行場が一望出来た。


  朝礼時に、海軍の97式陸上攻撃機が、頭上を飛んだ。
胴体の中程にある扉を開けて、搭乗員が地上を見ていることがあった。



  その扉は、落下傘兵の飛び降り口である事を、後で知った。

  朝礼は、校庭に、学年ごとに 4列縦隊に並び、
ラッパを担当する、5名ほどの生徒は、朝礼台向かって右に並んだ。


 普段は、校長と教頭の訓示で終わったが、
たまに全校生徒居残って、上着ポケットを裏返して、
タバコの粉の有無を、教師が調べた。




 ズボンにはポケットは無かった。
「生徒必携」定められていた。




 校舎は、瓦屋根 平屋建て2棟 コンクリート3階1棟だった。
1,2生は平屋建て 3年以上はコンクリート製の建物(教室)で授業を受けた。



 武道館の建物があった。
剣道は、必須科目だった。


 後日、学校が武部隊の兵舎になった時、
武道館は、将校食堂として使用されていて
テーブルの上には、ご飯茶碗が伏せてずらりと並べられていた。


  軍人になるのであれば、将校ならなくてはと思った。



  私は、1年1組で授業を受けた。
担任は富山先生。海軍兵学校中退。広島高等師範学校卒業。
専門は英語  あだ名はるっしゃん。
あだ名は、るっしゃん「ロシヤの発音は、るっしゃんという」のが由来。



 2組の国語の谷口先生は「ビヤ樽」 体型に由来。
 3組漢文の一見完史郎先生の「三四郎」は、映画「姿三四郎」に由来。



  必須科目は、数学、英語、国語、漢文、武道(剣道だけ)、
物象(物理と化学)、軍事教練(配属将校1名、退役軍人2名)
美術と習字は1年生の時だけだったと思う。

一湾生の備忘録 懐かしい台湾 その6 新竹中学校に入学
学校の位置
 新竹中学校は、新竹駅を降りて、
通りを右に進み、台湾電力新竹支店の前を進んで。
新竹高等女学校の手前で右に曲がり、鉄道線路の踏み切りを渡り、
傾斜の緩い砂利道の先のあった。

裏山の海軍兵士

 学校の裏は山で、その麓には沖縄から来たという
海軍の兵士が鍛冶場でブログ設定鎹(かすがい)を作っていた。
沖縄の海軍壕のことを話していた。
「鏨(たがね)で掘った」と。


 新竹中学校は元々は、新竹高等女学校のところにあったが、
女学校ができるとになったので、
そこを譲って現在のところに移ったとのことだ。

 

新竹駅前の想い出
駅前で戦時中、米軍のB29の爆撃に遭い、ガラガラという
爆弾の爆弾の落下音を駅前の溝の中で聞きながら、
「14歳で死ぬのか」と思った。
爆弾は海軍飛行場の方に落ちた。


 本題に戻そう。

 州立中学校は新竹州には1校しかなく、
生徒数は、内地人と本島人 半々だった。

 本島人は改姓名をしていた。


通学方法
 通学方法は次の通りだった。

・北部汽車通学生 桃園(とうえん)から新竹
・南部汽車通学生 苗栗(びょうりつ)から新竹
・バス通学生   それぞれの自宅からバス停まで
・市内通学生   市内の自宅から通学できる生徒
・寮通学生    校内にある寮から通学する生徒

制服
 制服はカーキー色で、ズボンには巻ゲートルを巻いた。
軍服姿だった。

 

 

登校下校方法

 登校は、4列縦隊で団体登校だった。
自転車に乗った教師が近づくと後尾の生徒が、
「教官」と叫ぶと、指揮者は「歩調取れ 頭~右」と言い
教師が通り過ぎると、「歩調止め」と言った。

 教師の通勤は自転車で、校長は人力車に乗って通勤していた。

 下校は、バラバラだった。

 掃除当番に当たった日は、汽車に乗り居くれないよに気を付けていた。
2時間に1本しかない汽車だったので。

一湾生の備忘録 懐かしい台湾 その16 終戦直後の中学校の授業

  終戦直後の中学校の授業
 私の記憶では、午前中 本島人(台湾人のこと)
 午後 内地人


  掲げられて国旗は、晴天白日旗、
  国歌斉唱は、三民主義


  日本人には、耐え難いものだった。
  午後の授業を受けるため、駅の改札口を出ると、

  台湾人の生徒待ち構えていて、日本人生徒に
  暴行を加えた。



  これではいけないと思い、翌日は改札口を
  通らないで駅の構外に出ようとしたが、そこでも、
  台湾人生徒がいて、腕立ての姿勢をさせられ、
  顎を足蹴にされた。


  悔しかった。幼友達は台湾人。
  台湾人生徒を虐めたこともない。





  そのような事のもあって
  学校に行かなくななった。
  時期は、覚えていない。