一湾生の備忘録 懐かしい台湾 その6

 新竹中学校は、新竹駅を降りて、
通りを右に進み、台湾電力新竹支店の前を進んで。
新竹高等女学校の手前で右に曲がり、鉄道線路の踏み切りを渡り、
傾斜の緩い砂利道の先のあった。



 学校の裏は山で、その麓には沖縄から来たという
海軍の兵士が鍛冶場で鎹(かすがい)を作っていた。
沖縄の海軍壕のことを話していた。
「鏨(たがね)で掘った」と。


 新竹中学校は元々は、新竹高等女学校のところにあったが、
女学校ができることになったので、
そこを譲って現在のところに移ったとのことだ。



 余談だが、新竹駅は戦前の姿で残っているとのようだ。
駅前で戦時中、米軍のB29の爆撃に遭い、ガラガラという
爆弾の爆弾の落下音を駅前の溝の中で聞きながら、
「14歳で死ぬのか」と思った。
爆弾は海軍飛行場の方に落ちた。


 本題に戻そう。

 州立中学校は新竹州には1校しかなく、
生徒数は、内地人と本島人 半々だった。

 本島人は改姓名をしていた。

 通学方法は次の通りだった。

・北部汽車通学生 桃園(とうえん)から新竹
・南部汽車通学生 苗栗(びょうりつ)から新竹
・バス通学生   それぞれの自宅からバス停まで
・市内通学生   市内の自宅から通学できる生徒
・寮通学生    校内にある寮から通学する生徒


 制服はカーキー色で、ズボンには巻ゲートルを巻いた。
軍服姿だった。

 登校は、4列縦隊で団体登校だった。
自転車に乗った教師が近づくと後尾の生徒が、
「教官」と叫ぶと、指揮者は「歩調取れ 頭~右」と言い
教師が通り過ぎると、「歩調止め」と言った。

 教師の通勤は自転車で、校長は人力車に乗って通勤していた。

 下校は、バラバラだった。

 掃除当番に当たった日は、汽車に乗り居くれないよに気を付けていた。
2時間に1本しかない汽車だったので。

一湾生の備忘録 懐かしい台湾 その6

 新竹中学校は、新竹駅を降りて、
通りを右に進み、台湾電力新竹支店の前を進んで。
新竹高等女学校の手前で右に曲がり、鉄道線路の踏み切りを渡り、
傾斜の緩い砂利道の先のあった。



 学校の裏は山で、その麓には沖縄から来たという
海軍の兵士が鍛冶場で鎹(かすがい)を作っていた。
沖縄の海軍壕のことを話していた。
「鏨(たがね)で掘った」と。


 新竹中学校は元々は、新竹高等女学校のところにあったが、
女学校ができることになったので、
そこを譲って現在のところに移ったとのことだ。



 余談だが、新竹駅は戦前の姿で残っているとのようだ。
駅前で戦時中、米軍のB29の爆撃に遭い、ガラガラという
爆弾の爆弾の落下音を駅前の溝の中で聞きながら、
「14歳で死ぬのか」と思った。
爆弾は海軍飛行場の方に落ちた。


 本題に戻そう。

 州立中学校は新竹州には1校しかなく、
生徒数は、内地人と本島人 半々だった。

 本島人は改姓名をしていた。

 通学方法は次の通りだった。

・北部汽車通学生 桃園(とうえん)から新竹
・南部汽車通学生 苗栗(びょうりつ)から新竹
・バス通学生   それぞれの自宅からバス停まで
・市内通学生   市内の自宅から通学できる生徒
・寮通学生    校内にある寮から通学する生徒


 制服はカーキー色で、ズボンには巻ゲートルを巻いた。
軍服姿だった。

 登校は、4列縦隊で団体登校だった。
自転車に乗った教師が近づくと後尾の生徒が、
「教官」と叫ぶと、指揮者は「歩調取れ 頭~右」と言い
教師が通り過ぎると、「歩調止め」と言った。

 教師の通勤は自転車で、校長は人力車に乗って通勤していた。

 下校は、バラバラだった。

 掃除当番に当たった日は、汽車に乗り居くれないよに気を付けていた。
2時間に1本しかない汽車だったので。

 

 


校庭に入ると花壇に金盞花が咲いていた。


 その後ろには、馬に乗った鎧姿の楠木正成と
薪を負いながら本を読んでいる二宮金次郎の、
銅像が建立されていた。


 校庭の一角に栴檀の大木がありその下には、
体操器具を収納する建物があった。


 
校庭の一辺はガジュマル(榕樹)が、
約5メートルの間隔で植えられていた。



 ガジュマルの下は、運動会などの時の、
保護者たちの応援席になった。

ガジュマルはテントの役目をしていた。


 他の一辺は、道路と、田んぼに接していた。


 校舎は尋常科が入る1棟、高等科の1棟、
教員が入る1棟、湯沸室1棟だった。


 奉安殿(教育勅語や天皇の写真を収めている建物)は、
何処にあったのか覚えていない。


 四大節(四方拝 1月1日、紀元節 2月11日、
天長節 4月29日、明治節 11月3日)には、
小学生は登校して、校長先生が読み上げる
教育勅語を低頭して聴いた。


 その日は授業は無く、紅白の饅頭を貰って下校した。
今考えれば、変な休日だった。


 当時の台湾における、中等学校の受験は州立(内地の県立)が、
先に行われ、私立はその後に行われた。


 私は、州立新竹中学校を受験し合格した。
受験番号は9だった。


 浅香先生は、受験願書を早く出していたのだな~と
感謝した。


  先生は、「新竹中学校には、谷口先生がいるので頑張れよ。」

ともおっしゃって下さった。


 

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一湾生の備忘録 懐かしい台湾 その4




竹南小学校は、竹南駅から左側に進み、
和食の店の前、竹南郵便局の前、郡役所の前を
進んだところにあった。


児童数は、尋常科 高等科合わせて約250名の
小さな学校だった。


当時の台湾の初等教育制度は、
内地人は小学校で、本島(台湾)人は公学校で
教育を受けることになっていた。



公学校での授業は日本語で行われていたので、
日本語の分からない児童は苦痛だっただろう。


小学校の児童は原則として内地人だが、
1クラスに2名ほど本島人が居た。

巡査や商人の児童だ。
改姓名をしていた。

例えば湯南山であれば、
湯本 和男。


原住民(いわゆる、高砂族)授業は
蕃童教育所で、巡査派出所の巡査が教師となり行っていた。

「♫サヨンの鐘」は、これに基づいている。


後に小学校は、第一国民学校 公学校は第ニ国民学校と
改称された。



内台融和政策皇民化政策の一環として行われたのだろう。


竹南小学校の門前には、幅約4メールのクリークのような
川があって、学校の敷地にはコンクリート製の橋を渡って入った。


川には、近くにある製糖工場の排水だと思われるものが、
甘酸っぱい香りを、漂わせ湯気を上げながら流れていた。


 

 

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一湾生の備忘録 懐かしい台湾 その4




竹南小学校は、竹南駅から左側に進み、
和食の店の前、竹南郵便局の前、郡役所の前を
進んだところにあった。

 

児童数は、尋常科 高等科合わせて約250名の
小さな学校だった。


当時の台湾の初等教育制度は、
内地人は小学校で、本島(台湾)人は公学校で
教育を受けることになっていた。



公学校での授業は日本語で行われていたので、
日本語の分からない児童は苦痛だっただろう。


小学校の児童は原則として内地人だが、
1クラスに2名ほど本島人が居た。

巡査や商人の児童だ。
改姓名をしていた。

例えば湯南山であれば、
湯本 和男。


原住民(いわゆる、高砂族)授業は
蕃童教育所で、巡査派出所の巡査が教師となり行っていた。

「♫サヨンの鐘」は、これに基づいている。


後に小学校は、第一国民学校 公学校は第ニ国民学校と
改称された。



内台融和政策皇民化政策の一環として行われたのだろう。


竹南小学校の門前には、幅約4メールのクリークのような
川があって、学校の敷地にはコンクリート製の橋を渡って入った。


川には、近くにある製糖工場の排水だと思われるものが、
甘酸っぱい香りを、漂わせ湯気を上げながら流れていた。