イエスはイエスの弟子を「花嫁」にたとえている。
マタイ9:15
「するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう」
ここで、「花婿」は「イエス」を指している。では、その「花嫁」は誰を指しているのか。
それは「イエスの弟子達」のことである。
イエスの再臨について語る「黙示録」において、再臨を待つ信徒のことを「花嫁」にたとえている。
黙19:7
「わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである」
黙21:2
「また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って 来るのを見た」
黙21:9
「最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、
きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう」。
黙22:17
「御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」
弟子たちはイエスに対して花婿を待つ花嫁の立場に立つべきである。
その立場は、一番近しい立場、一番緊密な立場ということである。
一番近しい立場は、花婿と花嫁の関係である。更には、夫婦の関係である。
なにもこれは新約以降に限定されたものではない。
旧約の時代において、イスラエルの神ヤハウェと、その民イスラエルの関係は
極めて緊密な愛情関係になるべきであると預言者ホセアやエレミヤは語っている。
彼らは、それを新婚生活にたとえている。
エレミヤはエルサレムに住む者へのヤハウェの言葉として、
エレ2:2
「行って、エルサレムに住む者の耳に告げよ、主はこう言われる、わたしはあなたの若い時の純情、花嫁の時の愛、荒野なる、種まかぬ地で/わたしに従ったことを覚えている」
と告げている。
エレ2:32
「おとめはその飾り物を忘れることができようか。花嫁はその帯を忘れることができようか。ところが、わたしの民の、わたしを忘れた日は数えがたい」
「講論」は「イエスは全人類の新郎としてこられた」と証している。
アブラハムの象徴献祭のところで、
「イエスは、全人類の新郎として来られたので、彼が再臨なさるまでの信徒たちは、来られる新郎の前に新婦とならなければならない。 しかし、新婦なる信徒たちが再臨される新郎イエスと小羊の宴を終えたのちには、新婦ではなく妻となり、夫であるイエスと共に、天国生活をするようになるのである。それゆえに、イエス再臨以後の完成成約時代は、妻の時代、すなわち、雌牛の時代であることを知らなければならない。」
初臨のイエスはすでに「全人類の新郎」の立場にあったのである。
これはイエスの証言と一致している。
イエスは自分の弟子を「花嫁」にたとえているからだ。
「するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう」
では、洗礼ヨハネはどうであったか。
彼はイエスに対して自分のことを「花婿の友人」としたのである。
ヨハネ3:29
「花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている」
洗礼ヨハネもまた、ペテロたちと同じように、イエスの「花嫁」となって、イエスが行かれるところ、どこにでもついて行くべきであった。しかし、彼は自分のことを「花婿の友人」だとして、イエスと別行動を取ったのである。
これはあってはならないことであった。
それとも、イエスは「全人類の新郎」として来られたのに、洗礼ヨハネだけは「新婦」の立場に立つことが許されなかったのか。
そうではない。洗礼ヨハネ自身が「花嫁」のような緊密な立場に立つことを拒否したのである。
あれほど自分よりあとからくるお方が尊いと宣言しながら、洗礼活動をしていたのにもかかわらず、神が教示して下さったそのお方が現われて、そのお方が誰であるかも教示されて、それでもそのお方に付いて行かないのは、それは彼自らがイエスに付いて行くことを拒否したからである。
これは洗礼ヨハネのイエスに対する不信のあらわれである。
このことをいままで誰も指摘して来なかった。隠されていた真実である。
では果たして、この洗礼ヨハネのイエスに対する不信は、神が願い、神ご自身が仕組んだことであるのだろうか。
「予定説」を信じている人は、そうだと答えるかもしれない。
そのとき、私たちは「総序」からはじめて「再臨論」にいたる「統一原理」全体を示してあげ、説明してあげるしかない。
反駁する人は、原理全体に取って替わる論理一貫した体系を提示しなければならない。
それもできない。しかし、統一教会組織に属するのは嫌だという人は、以下に挙げる言葉をかみしめるべきである。
(すでにこのブログで掲載済みであるが)
■「霊界五大教団代表の統一原理セミナー報告書」で「弥勒」が「地上の仏者」に対して語られたという次の言葉…
「正しい道でなければ、行ってはなりません。
正しい道ならば、いくら険しい渓谷であろうと、必ず行かなければなりません。」
■霊界の李相軒先生が、地上にいるご自身の子女に対して
語ったという次の言葉…
「子どもたちよ!この父が夜を明かして記録しても、表現することができない。これからおまえたちは、どんな人生を生きるのか、一度聞いてみよう。地上でどれほど生きるのか、地上での暮らしの焦点をどこに置いて暮らすか、各自聞いてみたい。父として、親として、頼みたいことがある。父が残した統一思想を見て、文鮮明先生が書かれた「原理」の本を精読して決定しなさい。皆読んだ後、それよりももっと大きな経典や先生の教えがあるなら、その道に行きなさい。しかし、それよりもっと大きな思想がないと思うなら、渾身の力を尽くして、み旨のために働きなさい。それ以上の頼みはない。」[「霊界の実相と地上生活」P22~23]
■行伝に記されているガマリエルの言葉…
使徒行伝5:12~
「そのころ、多くのしるしと奇跡とが、次々に使徒たちの手により人々の中で行われた。そして、一同は心を一つにして、ソロモンの廊に集まっていた。ほかの者たちは、だれひとり、その交わりに入ろうとはしなかったが、民衆は彼らを尊敬していた。しかし、主を信じて仲間に加わる者が、男女とも、ますます多くなってきた。ついには、病人を大通りに運び出し、寝台や寝床の上に置いて、ペテロが通るとき、彼の影なりと、そのうちのだれかにかかるようにしたほどであった。またエルサレム附近の町々からも、大ぜいの人が、病人や汚れた霊に苦しめられている人たちを引き連れて、集まってきたが、その全部の者が、ひとり残らずいやされた。
そこで、大祭司とその仲間の者、すなわち、サドカイ派の人たちが、みな嫉妬の念に満たされて立ちあがり、使徒たちに手をかけて捕え、公共の留置場に入れた。ところが夜、主の使が獄の戸を開き、彼らを連れ出して言った、「さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」。彼らはこれを聞き、夜明けごろ宮にはいって教えはじめた。
一方では、大祭司とその仲間の者とが、集まってきて、議会とイスラエル人の長老一同とを召集し、使徒たちを引き出してこさせるために、人を獄につかわした。そこで、下役どもが行って見ると、使徒たちが獄にいないので、引き返して報告した、「獄には、しっかりと錠がかけてあり、戸口には、番人が立っていました。ところが、あけて見たら、中にはだれもいませんでした」。 宮守がしらと祭司長たちとは、この報告を聞いて、これは、いったい、どんな事になるのだろうと、あわて惑っていた。
そこへ、ある人がきて知らせた、「行ってごらんなさい。あなたがたが獄に入れたあの人たちが、宮の庭に立って、民衆を教えています」。そこで宮守がしらが、下役どもと一緒に出かけて行って、使徒たちを連れてきた。しかし、人々に石で打ち殺されるのを恐れて、手荒なことはせず、彼らを連れてきて、議会の中に立たせた。
すると、大祭司が問うて言った、「あの名を使って教えてはならないと、きびしく命じておいたではないか。それだのに、なんという事だ。エルサレム中にあなたがたの教を、はんらんさせている。あなたがたは確かに、あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいるのだ」。
これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、 そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」。これを聞いた者たちは、激しい怒りのあまり、使徒たちを殺そうと思った。
ところが、国民全体に尊敬されていた律法学者ガマリエルというパリサイ人が、議会で立って、使徒たちをしばらくのあいだ外に出すように要求してから、一同にむかって言った、
「イスラエルの諸君、あの人たちをどう扱うか、よく気をつけるがよい。先ごろ、チゥダが起って、自分を何か偉い者のように言いふらしたため、彼に従った男の数が、四百人ほどもあったが、結局、彼は殺されてしまい、従った者もみな四散して、全く跡方もなくなっている。そののち、人口調査の時に、ガリラヤ人ユダが民衆を率いて反乱を起したが、この人も滅び、従った者もみな散らされてしまった。そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。」