オモニムはオモニム一人ではないという見方を統一食口はしている。
アボニムと一体である。そして、「真の父母」なのである。
さらには、統一食口は、その「真のご父母」は神と一体なのだという信仰を持っているのである。
「縦的真の父母」である神と、「横的真の父母」である文総裁ご夫妻は、一体であるという信仰。
無形の神は、有形の体を求めて宇宙の創造をしたというみ言を私たちは信じる。
そして、神の体になる方は、ただ一組の男女だけである。
夫婦となった、その一組の男女だけが神の体であるのである。
その一組の男女は、人間の「始祖」である。人間始祖のみが神の体となる。
では、「人間始祖」とは、アダムとエバのことか。
確かに、アダムとエバは「人間始祖」である。
しかし、神の体になることができるのは、「善の人間始祖」である。
「原理講論」には、この「善の人間始祖」という言葉は一回しか出てこない。
それは、「予定論」の「第三節 人間に対する予定」のところである。
「アダムとエバが、善悪を知る果を取って食べるなと言われた神のみ言を守り、自分たちの責任分担を果たしたならば、善の人間始祖となることができたのであった。」
統一食口は、「真の父母」は神と一体となられたお方であると信じている。
これを信じている者こそ、「統一食口」だと言えよう。
では、そのようなお方を人間的に見ることは、「統一原理」を「新しい真理」であるという信仰を捨てている者である。
「原理講論」は神の啓示を基点として解明されたものであるという視点を捨てている。
「真の父母」は「善の人間始祖」として立たれたただ唯一の夫婦であるという観点を捨てている。
オモニムはアボニムと一体であり、その父母様と天地創造主は一体であるという信念を捨てている。
果たしてそれでいいのか。
問題は、「統一原理」は「新しい真理」「最終的真理」「天宙的理念」ではないのか。
それを信じるか否かによって、統一食口か否かの分岐点である。
もし、「統一原理」は「成約のみ言」であるとの信仰を持つ者は、「真の父母」に侍るであろう。
従って、「真の父母」に「侍る」か否かこそ、統一食口か否かの分岐点である。
それは洗礼ヨハネにも適用された視点であった。
洗礼ヨハネは、願われた使命をことごとく成し遂げて行った。
既に投稿済みのブログ記事で、便宜的に五つの使命に分類してみた。
ところが最後の使命は果たせなかった。
彼はイエスに「侍る」べきであった。
イエスに「侍る」とき、どういう行動を取るか。それはイエスに「付いて行く」である。
「付いて行く」か、付いて行くことなく「別行動をとる」か、これが洗礼ヨハネにとっての善悪の分岐点であった。
彼は、彼自身に従う弟子をイエスに渡すことを拒否したのであった。
彼は、自分自身がヨハネ教団のトップである位置を失いたくなかった。
彼は、トップの位置からイエスの一弟子になることを拒否したのである。
彼は、イエスに比べて価値的には奴隷より小さい価値しかもっていないとことを宣言していた。
ならば、イエスがあらわれ、ヨハネもそのイエスが「わたしよりあとからくる方」であると認めたので、
彼は当然、イエスに「付いて行く」べきであった。
そのお方こそ、「善の人間始祖」になるべきお方であるからだ。
そして、ヨハネはイエスを新郎を迎える新婦のように慕い、一番近しい関係に至ろうと努力すべきであった。
以上より
真のお母様に「侍る」者は、そのお方からの指示に「従う」者である。