原理講論和訳研究43

「イエス路程」の「第三次 世界的カナン復帰路程、1.イエスを中心とした霊的カナン復帰路程」の「(1)霊的な信仰の基台」のところで、

「イスラエルをはじめとする全人類を救うことができる条件を立て得るようになられた。」

という訳文がある。
ここの「条件を立て得るようになられた」は、可能の意味が込められている。
しかし、原文は可能の意味が込められていない。以下に、原文と直訳文を書いておく。

이스라엘을 비롯한 전 인류를 구원할 수 있는 조건을 세우시게 되었다.
「イスラエルをはじめとする全人類を救援することができる条件をお立てになるようになった」

である。原文に忠実に訳していいのではないかと思う。
オモニムはオモニム一人ではないという見方を統一食口はしている。
アボニムと一体である。そして、「真の父母」なのである。
さらには、統一食口は、その「真のご父母」は神と一体なのだという信仰を持っているのである。
「縦的真の父母」である神と、「横的真の父母」である文総裁ご夫妻は、一体であるという信仰。
無形の神は、有形の体を求めて宇宙の創造をしたというみ言を私たちは信じる。
そして、神の体になる方は、ただ一組の男女だけである。
夫婦となった、その一組の男女だけ神の体であるのである。
その一組の男女は、人間の「始祖」である。人間始祖のみが神の体となる。
では、「人間始祖」とは、アダムとエバのことか。
確かに、アダムとエバは「人間始祖」である。
しかし、神の体になることができるのは、「善の人間始祖」である。
「原理講論」には、この「善の人間始祖」という言葉は一回しか出てこない。
それは、「予定論」の「第三節 人間に対する予定」のところである。

「アダムとエバが、善悪を知る果を取って食べるなと言われた神のみ言を守り、自分たちの責任分担を果たしたならば、善の人間始祖となることができたのであった。」

統一食口は、「真の父母」は神と一体となられたお方であると信じている。
これを信じている者こそ、「統一食口」だと言えよう。

では、そのようなお方を人間的に見ることは、「統一原理」を「新しい真理」であるという信仰を捨てている者である。
「原理講論」は神の啓示を基点として解明されたものであるという視点を捨てている
「真の父母」は「善の人間始祖」として立たれたただ唯一の夫婦であるという観点を捨てている
オモニムはアボニムと一体であり、その父母様と天地創造主は一体であるという信念を捨てている

果たしてそれでいいのか。
問題は、「統一原理」は「新しい真理」「最終的真理」「天宙的理念」ではないのか。
それを信じるか否かによって、統一食口か否かの分岐点である。
もし、「統一原理」は「成約のみ言」であるとの信仰を持つ者は、「真の父母」に侍るであろう。
従って、「真の父母」に「侍る」か否かこそ、統一食口か否かの分岐点である。
それは洗礼ヨハネにも適用された視点であった。
洗礼ヨハネは、願われた使命をことごとく成し遂げて行った。
既に投稿済みのブログ記事で、便宜的に五つの使命に分類してみた。
ところが最後の使命は果たせなかった。
彼はイエスに「侍る」べきであった。
イエスに「侍る」とき、どういう行動を取るか。それはイエスに「付いて行く」である。
「付いて行く」か、付いて行くことなく「別行動をとる」か、これが洗礼ヨハネにとっての善悪の分岐点であった。
彼は、彼自身に従う弟子をイエスに渡すことを拒否したのであった。
彼は、自分自身がヨハネ教団のトップである位置を失いたくなかった。
彼は、トップの位置からイエスの一弟子になることを拒否したのである。
彼は、イエスに比べて価値的には奴隷より小さい価値しかもっていないとことを宣言していた。
ならば、イエスがあらわれ、ヨハネもそのイエスが「わたしよりあとからくる方」であると認めたので、
彼は当然、イエスに「付いて行く」べきであった。
そのお方こそ、「善の人間始祖」になるべきお方であるからだ。
そして、ヨハネはイエスを新郎を迎える新婦のように慕い、一番近しい関係に至ろうと努力すべきであった。

以上より
真のお母様に「侍る」者は、そのお方からの指示に「従う」者である。
原理講論和訳研究43
「摂理的同時性から見た復帰摂理時代と復帰摂理延長時代」の「統一王国時代とキリスト教王国時代」で、

「イスラエル民族が、エジプトから解放されてのちのモーセの幕屋理想は、統一王国に至って初めて、国王を中心とする神殿理想として現れ、王国をつくったのであるが、これは、将来イエスが、実体神殿として来られて王の王となられ、王国を建設するということに対応する形象的路程であった(イザヤ九・6)。」

この訳文の「統一王国に至って初めて」を問題にする。原文は「統一王国時代に至って初めて」である。

それから、ここの「王の王」の原文直訳は「万王の王」である。
天地の創造主である神と一つになった真の父母こそ、
善の中心」「真理の中心」「本心の中心」である。

そのお方からの指示こそ、「善」と「真理」と「本心」の中心である。
その指示から外れる心は、「善」と「真理」と「本心」の中心から外れているのである。

(キリスト教でいう「三位一体」とは、端的に言えば、「イエスは天地創造の主である」という信仰である。
我々が信じる「神とアボニムとオモニムは一体である」という意味での「三位一体」とは意味が違う)

<講論のレジュメ>
「アダムとエバが完成された夫婦として一体となったその位置」は、
〔1〕神と人間が一体化して創造目的を完成した「善の中心」 (=神の永遠なる愛の対象)→神は永遠に刺激的な喜びを感ずるようになる
〔2〕神がはじめて人間に臨在される→永遠に安息される
〔3〕神のみ言が実体として完成 →「真理の中心」
〔4〕すべての人間をして 創造目的を指向するように導いてくれる「本心の中心」

最後に
<「原理講論」の「創造原理」から>
その「第二節 万有原力と授受作用および四位基台」の
「(三)正分合作用による三対象目的を完成した四位基台、(4) 四位基台の存在様相」
には、次にようにある。

 「このように、アダムとエバが完成された夫婦として一体となったその位置が、正に愛の主体であられる神と、美の対象である人間とが一体化して、創造目的を完成した善の中心となる位置なのである。ここにおいて、初めて父母なる神は、子女として完成された人間に臨在されて、永遠に安息されるようになるのである。このときこの中心は、神の永遠なる愛の対象であるために、これによって、神は永遠に刺激的な喜びを感ずるようになる。また、ここにおいて初めて、神のみ言が実体として完成するので、これが正に真理の中心となり、すべての人間をして創造目的を指向するように導いてくれる本心の中心ともなるのである。それゆえに、被造世界は、このように人間が完成されて、神を中心として夫婦となることによってつくられる四位基台を中心に、合目的的な球形運動をするようになる。しかるに、被造世界は人間の堕落によってこの中心を失ったので、万物も実に切なる思いで、神の子たち、すなわち創造本性を復帰した人間たちが出現して、その中心となってくれる日を待ち望んでいるのである(ロマ八・19~22)。」

生殖器」という言葉について
<み言より>
□「…愛の器官である生殖器です。それは何かというと、生命を植える器官です。それは何と良い名前でしょうか 生殖器ではないですか。「愛の器官」と言うよりも実感がわくのです」[宇宙の根本より]

□「生殖器といえば、「生きるものを植えることができる器だ(生器)」だというのです。生命の生殖です。生命を植えることができる器だというのです」[宇宙の根本より]

□「生殖器は、生じるの「生」の字に、食事の「食」の字でも、植えるの「植」の字でも良いのです。生命を植える器だというのです。その次には、繁殖するの「殖」の字でもかまいません。生殖器生植器だというのです」[宇宙の根本より]

まとめると 「生殖器」の「殖」の字は → 「食」でも「植」でもよい → 「生食器」「生植器

<み言より>
□「神様がアダムとエバ、二人の男性と女性を造って成熟し結婚させようとされる時、その結婚式を中心として関係が結ばれる生殖器が絶対的な器官になっていて、その器官が絶対的な生命絶対的な愛絶対的な血統植えるための本部だったということを知らなければなりません」[宇宙の根本より]

□「皆さん、
おじいさん生殖器の専門家になれなかったために痛哭が起きるのです。
おばあさん生殖器の専門家になれなかったために家庭が破綻するのです。
父母専門家になれなかったために家庭がめちゃくちゃになって
夫婦がその専門家なれなかったためにめちゃくちゃになるのです。
専門家になれば、天地をそのポケットにすべて入れることができるというのです。」
[宇宙の根本より]

     ↓
よって、
私たちは「生殖器の専門家」にならなければならない。

洗礼ヨハネは義の人であった。
彼のもとに集まってきた者たちの中に、
パリサイ派の宗教指導者、サドカイ派の宗教指導者が大勢いたとしても、
彼は義の言葉で彼らに悔い改めをせまった。

彼に願われた使命は以下のようにまとめることができる。
【1】厳しい修道生活をする
【2】バプテスマ運動を展開する
【3】イエスに洗礼を授ける
【4】イエスを証しする
このように、便宜的に四つに分けた使命を、ヨハネはことごとく成就した。

イエスのバプテスマを授けた後も、彼はバプテスマ運動を継続した。
また、時の権力者ヘロデ・アンティパスの不道徳を断罪した。
洗礼ヨハネはイエスに出会う前も、出会った後も義の人であった。変わらなかった。
イエスに洗礼を授けたあとの時点に立ってのコメントとしてであるが、

彼は昔も今も変わっていない

と言うことができるであろう。

洗礼ヨハネは立派にやったのか。
ヨハネの生き様には何の問題もなかったのか。

私たちは「原理講論」を通して、洗礼ヨハネは失敗したことを知っている。
彼は、最後の使命成就に失敗したのである。
それは、
【5】イエスに一生涯仕える侍る=一人の弟子としてイエスの福音を伝える、自分の弟子をイエスの弟子にする
 (「誰よりもメシヤに近く仕える」、これである)


イエスに洗礼を授けた後に、彼はエルサレムから派遣されてきた人々に対して、証言した。
「自分はエリヤではない」
この証言によって、多くの人々はイエスにつまずくことになった。
彼は「自分はあの預言者でもない」とも証言した。
イエスを「神の子」と証した自分自身の権威を無いもののような発言をしたのである。
彼の罪は大きい。
洗礼ヨハネの霊界での姿は、「天国でもっとも小さい者よりは大きい」のだろう。

今まで、このようなことは明らかにされてこなかった。それを「原理」がはじめて解明したのである。
驚くべき「啓示の書」ではないか。


最後に、イエスが生前語られたみ言を以下に掲載する。
<マルコ9:41~42>
「だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。」



原理講論和訳研究41

「摂理的同時性から見た復帰摂理時代と復帰摂理延長時代」の「第一節 エジプト苦役時代とローマ帝国迫害時代」のところに、

「ノアからアブラハムまでの四〇〇年のサタン分立期間は、アブラハムの献祭の失敗によって、サタンの侵入を受けたので、この四〇〇年期間を再び蕩減復帰する役割を担ったエジプト苦役時代には、ヤコブとその十二子息を中心とした七十人家族がエジプトに入ってきて、それ以来、その子孫たちは四〇〇年間、エジプト人たちによって悲惨な虐待を受けたのであった。この時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰するローマ帝国迫害時代においても、イスラエルの選民たちが、イエスを生きた供え物としてささげる献祭に失敗し、彼を十字架に引き渡すことによって、サタンの侵入を受けるようになったので、メシヤ降臨準備時代四〇〇年のサタン分立期間を蕩減復帰するために、イエスを中心とする十二弟子と七十人の門徒、そうして、キリスト教信徒たちが、ローマ帝国において、四〇〇年の間、惨めな迫害を受けなければならなかったのである。」

とある。ここで、「惨めな」と訳している原文は、直訳すれば「凄惨な」である。
凄惨」の意味は「目をそむけたくなるほどいたましいこと」であるので、
これと「惨めな」とでは少しニュアンスが違ってくる。
(ただし、400年間継続して迫害されたのではなかったが)
洗礼ヨハネはイエスのあとに付いて行くべきであった。
それが当然の行動であった。
これに関しては多くの人が納得してくれるのではないであろうか。

洗礼ヨハネは、自分のあとから来る方は、自分にくらべてあまりにも偉大なお方であると宣言しつつバプテスマ運動をしてきたのであり、そして、自分の人生も、そのお方のために歩んできた人生であったのである。
そして、遂に、そのお方に出会ったのであった。
では、洗礼ヨハネが取るべき行動はどんなものが考えられるかというのである。
それは、誰が考えても、そのお方のあとを「付いて行く」、これではないか。
侍る」と表現した方がいいのであろう。

もし、そのお方と別の行動をするとするならば、そのお方から、そのような指示を受けているときだけではないか。
洗礼ヨハネは、イエスからそのような指示を受けたので、別行動をとったのか?
しかし、イエスから指示を受けて別行動をしたなどということは聖書には書かれていない。

また、洗礼ヨハネの次の発言を通して、彼自身の判断でイエスと別行動をとったと類推できる。
それはこの聖句である。
それは、「花嫁の友人」と自分を位置付けているところである。

<ヨハネ3:27~30>
「ヨハネは答えて言った、「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない。『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である』と言ったことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である。花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。彼は必ず栄え、わたしは衰える。…」

ヨハネはイエスにとって極めて親密な関係を現す「花嫁」の立場に立たなければならなかったにもかかわらず、自分を新郎イエスにとってその友人の位置に立ったのである。距離をおいたということ。

イエスとペテロなどの弟子たちは、「新郎と新婦」の関係
イエスと洗礼ヨハネは、「新郎と新郎の友人」の関係
だということ。

それは洗礼ヨハネの心を現しているのである。

文鮮明先生の価値を知った者は、そのお方に付いて行きたいと願うであろう。付いて行くことができる立場にいる者は、その道を行くことを願うだろう。ましてや、文先生から、自分に侍りなさいと指示されたなら、喜んで従うであろう。
ところが、もしそうしない人がいたら、その人の心は、文先生から離れているのである
その人の取る行動から、その人の心を知ることができるのである。

洗礼ヨハネのイエスに対して取った行動から、洗礼ヨハネのイエスに対する不信の思いを類推することができる。
逮捕され、獄に入れられ、その獄中から、自分の弟子をイエスに遣わして、「来るべき方はあなたなのですか。それとも他の誰かを待つべきでしょうか」と質問させた。これはイエスに対する不信の表明であるが、その不信は、実に、イエスに洗礼を授けたときから芽生えていたのであり、そのために、洗礼ヨハネは、イエスに洗礼を授けたのちは、イエスと行動をまったくもって共にしなかったのである。

私たちは、文先生に対して、身近に侍ることが許されている者であるにもかかわらず、そして、そのことを願われているにもかかわらず、そうしない人がいるなら、その人は、洗礼ヨハネと同じ道を行っているのである。
洗礼ヨハネは、イエスと別れても洗礼活動を継続し、また、天国が近いから悔い改めよとの素晴らしいみ言を語り続けたのであろう。
しかし、そのヨハネの言動は、正しいものではないかった。どんなに素晴らしい内容の説教をしても、しかし、彼に願われていたことは、イエスに付いて行く、寝食を共にすることであった。

この観点を提示したのは、「原理講論」の中に「第四章 メシヤの降臨と再臨の目的」であるが、本当に、この「講論」は驚くべき「啓示の書」である。
もし、「講論」の「洗礼ヨハネはイエスにあとについていくべきであった、そうしなかったのは、ヨハネがイエスに対して不信の思いを抱いていたからだ」という主張を認めるなら、この観点は、未だ誰も明らかにしなかったので、とても画期的なことであり、そして、それは神からの啓示に違いないと考えることができる。
原理講論和訳研究40

「イエス路程」の「第三次 世界的カナン復帰路程」「1.イエスを中心とした霊的カナン復帰路程」の「(1)霊的な信仰の基台」のところで、

「そこで、サタンがその最大の実権行使をもって、イエスを殺害したことに対する蕩減条件として、神もまた、その最大の実権を行使されて、死んだイエスを復活させ、すべての人類を復活したイエスに接がせ(ロマ一一・24)、彼らを重生させることによって救いを受けられるようにされたのである。」

において、「イエスに接がせ」という訳文を問題にする。直訳は「イエスに接ぎ木をして」である。
ここは、原文直訳して「接ぎ木」ということを明記したほうがいいと思う。
み言より

「生殖器の専門家」
「生殖器解剖学の代表者」

■「南米に行って、十万教徒を率いた教団の道主に、生殖器に対する話を二時間しました。そして、目がこのように回ったと思ったら、結論として「生殖器の専門家ですね」と言いました。皆さん、おじいさん生殖器の専門家になれなかったために痛哭が起きるのです。おばあさん生殖器の専門家になれなかったために家庭が破綻するのです。父母専門家になれなかったために家庭がめちゃくちゃになって、夫婦がその専門家になれなかったためにめちゃくちゃになるのです。専門家になれば、天地をそのポケットにすべて入れることができるというのです。」
[「天聖経」の「宇宙の根本」の「第二章 人間創造と愛の理想の完成、五、生殖器を通して天国と地獄が分かれる」より]

■「気がついてみると、統一教会の文教主が生殖器解剖学の代表者になりました。生殖器ですべて一つになるのです。」
[「天聖経」の「宇宙の根本」の「第二章 人間創造と愛の理想の完成、三、神人一体と愛の理想完成、2.神人愛理想の根本原理、(2) 神人一体の拠点」より]