原理講論和訳研究47
「第一章 摂理歴史の各時代とその年数の形成」の「第二節 復帰基台摂理時代の代数とその年数の形成、(六)縦からなる横的蕩減復帰」において、

「アブラハムを中心とする復帰摂理において、彼がハランから出発したのち、ヤコブがパンとレンズ豆のあつもので、エサウから長子の嗣業を得るまでの一二〇年、そのときからヤコブがイサクから長子の嗣業を受け継ぐ祝福を受けて、ハランへ行く途中、神の祝福を受けるまで(創二八・10~14)の四十年、また、そのときからハランにおける苦役を終えて、妻子と財物を得てカナンへ帰ってくるまでの二十一年(創三一・41)、ヤコブがカナンに帰ったのち、売られていったヨセフを訪ねて、エジプトへ入るまでの四十年などは、みな「信仰基台」を復帰するための縦からなる横的蕩減期間である。」

とある。この「得るまでの」という訳文の原文直訳文は「奪うときまでの」である。
原理講論和訳研究46

「イエス路程」の「第三次 世界的カナン復帰路程」「1.イエスを中心とした霊的カナン復帰路程」の「(1)霊的な信仰の基台」のところで、

「「サタンは、自己の最大の実権を行使して、イエスを十字架で殺害することによって、彼が四〇〇〇年の歴史路程を通じて、その目的としてきたところのものを、達成したことになったのである。このように、イエスをサタンに引き渡された神は、その代償として、イスラエルをはじめとする全人類を救うことができる条件を立て得るようになられた。それでは神は、どのようなやり方で罪悪人間たちを救うことができたのであろうか。サタンが、既にその最大の実権を行使してイエスを殺害したので、蕩減復帰の原則により、神にも最大の実権を行使し得る条件が成立したのである。ところで、サタンの最大の実権行使は、人間を殺すことにあるのであるが、これに対して神の最大実権行使は、あくまでも死んだ人間を、再び生かすところにある。」

において、「あくまでも死んだ人間を、再び生かすところにある」という訳文を問題にする。「あくまでも」という語句が記されているが、原文にはない。誇張表現であることを知っておこう。

原理講論和訳研究45
「第二章 モーセとイエスを中心とする復帰摂理」の第一節は、
     サタン屈伏の典型的路程
である。
この「典型的路程」と訳している「韓国語版原理講論」の原文の表現では
본보기 노정」である。

この「본보기」の意味は「標本、見本、例」である。
だから、直訳すれば「標本路程」などとなるのであろう。
まとめると、
直訳すれば「標本路程」となるところを「典型的路程」と意訳しているということ。

逆に、日本語で「典型的路程」と表現されたところを、そのまま韓国語に翻訳すると
どうなるだろうか。
전형적인 노정」とするのであり、誰も「본보기 노정」とはしないであろう。
四大属性」を持たれる神は、人間にも四大属性」を持つことを願われるに違いないとのことである。

<み言より>
■「神様を中心として真のすべての被造世界の本質的愛の、理想の愛をもっているので、絶対夫婦、絶対子女、絶対兄弟、絶対父母を中心とした家庭にならなければなりません。これが第二ジャルジン宣言です。絶対信仰、絶対愛、絶対服従、神様の属性とは何かというと絶対属性、唯一属性、不変属性、永遠属性です。そのような属性をもっているので、その属性は四つの必要とするすべての全体相対を願われるに違いないのです。自分よりも良いものを願われるがゆえに、より絶対、より唯一、より永遠、より不変、このようなものを願われるのです」
[成約人への道、三 ジャルジン七大宣言と新エデン創建、2.第二宣言:絶対、唯一、不変、永遠の理想家庭]

■「神様は絶対、唯一、永遠、不変であられます。
私たちは神様の子女であるので、神様の属性に似て、
絶対子女、唯一子女、永遠子女、不変の子女にならなければならないし、
絶対夫婦、唯一夫婦、永遠夫婦、不変の夫婦として生きなければならないし、
絶対父母、唯一父母、永遠父母、不変の父母にならなければならないし、
絶対家庭、唯一家庭、永遠家庭、不変の家庭として完成しなければなりません。
(九八年八月七日、ジャルジン、新希望農場)」
[成約人への道、三 ジャルジン七大宣言と新エデン創建、2.第二宣言:絶対、唯一、不変、永遠の理想家庭]

(つづく)
原理講論和訳研究44

「イエス路程」の「(三)第三次世界的カナン復帰路程、(1)イエスを中心とする霊的カナン復帰路程、①霊的な信仰基台」において、

「サタンは、自己の最大の実権を行使して、イエスを十字架で殺害することによって、彼が四〇〇〇年の歴史路程を通じて、その目的としてきたところのものを、達成したことになったのである。このように、イエスをサタンに引き渡された神は、その代償として、イスラエルをはじめとする全人類を救うことができる条件を立て得るようになられた。それでは神は、どのようなやり方で罪悪人間たちを救うことができたのであろうか。サタンが、既にその最大の実権を行使してイエスを殺害したので、蕩減復帰の原則により、神にも最大の実権を行使し得る条件が成立したのである。ところで、サタンの最大の実権行使は、人間を殺すことにあるのであるが、これに対して神の最大実権行使は、あくまでも死んだ人間を、再び生かすところにある。」

とある。その中の「条件が成立した」を問題にする。原文直訳は「立場が成立した」である。
私たちが神と呼んでいる存在は、「宇宙の第一原因」をさしている。
神が「宇宙の第一原因」であるならば、他と並ぶものがないし、他との比較・対立を絶しているので、「絶対」者である。
その「絶対」者である神は、「一つだけで他にない存在」であるので、「唯一」の存在である。
時間さえも創造されたお方は、その時間を超越しているので、「永遠」である。
そして、「不変」でもある。

この「絶対唯一不変永遠」を神の「四大属性」という。

ここで、言葉の意味を書いておく。
「属性」:「偶然的な性質とは区別され、物がそれなしには考えられないような本質的な性質」(広辞苑)
絶対」: 「他に並ぶもののないこと。他との比較・対立を絶していること。一切他から制限・拘束されないこと」
(広辞苑)
「相対」: 「〔哲〕他に対して在るもの。他との関係において在るもの。一定の関係、一定の状況においてだけ
妥当するもの。自己同一性をもたないもの。相対者。⇔絶対」(広辞苑)
絶対的」:「何物とも比較したり置き換えたりできず、また、他からどんな制約もうけないさま「―な権力」⇔相対
的」(広辞苑)
「相対的」:「物事が他との比較において、そうであるさま。⇔絶対的」
絶対者」:「〔哲〕絶対的なもの。宇宙の根底として無条件・無制約・純粋・完全で、自ら独立に存在する唯一の最高存在。形而上学的にはおおむね神の観念と同一。無制約者」(広辞苑)
「形而上学」:「現象を超越し、その背後に在るものの真の本質、存在の根本原理、存在そのものを純粋思惟に
より或いは直観によって探究しようとする学問。神・世界・霊魂などがその主要問題」(広辞苑)
「唯一」:「一つだけで他にないこと。それだけ。ただ一つ」(広辞苑)
「永遠」:「初めもなく終りのなく果てしなくながく続くこと。永久」(広辞苑)
「不変」:「かわらないこと」(広辞苑)

ここで、
<み言より>
■「…左側で勝利したことを、すべて右側に返して、すべてが何にも引っ掛かることなく容易に行くことのできる道を行き、父母様が来ることのできる道を開くことによって祝福家庭たちは絶対信仰、絶対愛、絶対服従の四大属性を中心とした、絶対唯一不変永遠なる、父母、息子、夫婦、兄弟、家庭を基盤とした本郷の道を行くことのできる自由な環境を下さったお父様の前に感謝申し上げ…」
[第四章 成約人への道、二 摂理的総決算と真の御父母様の大宣布、6.総霊界霊人解放式・全体解放統一式の祈祷より]

その、「四大属性」を持たれる神は、人間にも四大属性」を持つことを願われるに違いないとのことである。
(つづく)
絶対」者である神は「絶対」を願う。

「神からくるところの理念」、
「神が定めされた創造原理」、
「神の喜びの対象」、
「神の予定」、
「神の創造目的」、
「信仰」「愛」「服従」、
そして「」も

神は「絶対」であることを願う。

以下は 「原理講論」よりの引用である。
■「創造原理」の中の「創造本然の価値」より
「それゆえに、絶対者であられる神を基準として、これに対して相対的に決定されるある対象の創造本然の価値もまた絶対的でないはずがない」

■「堕落論」の中の「目的性からみた善と悪」より
絶対者たる神御自身が主権者となり、その神からくるところの理念が立てられるときには、その理念は絶対的なものであるために、それが指向する目的もまた絶対的であり、善の基準も絶対的なものとして立てられるのである」

■「堕落論」の中の「創造原理の絶対性と完全無欠性のために」より
「神は絶対者であり、完全無欠なる創造主であられるがゆえに、神が定められた創造原理も、また絶対的であり、完全無欠でなければならない」

■「終末論」の中の「神の創造目的の完成」より
「永遠なる主体としていまし給う、絶対者たる神の喜びの対象も、永遠性と絶対性をもたなければならない」

■「予定論」より
「なぜならば、絶対者たる神が予定されたことであれば、それもやはり、絶対的であるがゆえに、人間の努力によっては、変更できないからである」

■「予定論」の中の「み旨の対する予定」より
「神は唯一であり、永遠であり、不変であり、絶対者であられるので、神の創造目的もやはりそのようにならざるを得ない。それゆえ、このみ旨に対する予定も、また絶対的であることはいうまでもない(イザ46:11)」

■総序にも「真理は唯一であり、永遠不変にして、絶対的なものである」とある。

そして、神は人間に対しても「絶対」であることを願う。
(詳細には「絶対、唯一、永遠、不変」を願う)
人間に、「信仰」、「愛」、「服従」、そして、「」も「絶対」的であることを願う。
それを、絶対「性」という。
また、「生殖器」も、また「絶対生殖器」であることを願う。


み言より
「皆さんは今、絶対純潔生殖器、唯一生殖器、不変生殖器、永遠生殖器を中心として、これを基盤にして神様を求めていかれるようお願いします。この基盤が真の愛の基盤、真の生命の基盤、真の血統の基盤、真の良心の基盤にならなければならず、ここから真の家庭が真の国家と真の世界に連結することによって、平和世界、理想世界が形成されるでしょう。どこに行かれても、テレビやその他、言論機関を通してレバレンド・ムーンの話を伝えてみてください。そのようにすれば絶対に滅びません」[真の家庭]
我々は、「アブラハムの象徴献祭」の重要性を知っている
「原理講論」の「アブラハム家庭」の
「(一)信仰基台 (2)信仰基台を復帰するための条件物」で説明されているのである。

ところが、2000年のキリスト教歴史において、
この「アブラハムの供え物の失敗」に関しては、重要視されてこなかった
解説されてこなかったといってもいいほどである。
解説されても、説得力がない説明文でしかない。

しかし、「講論」は違う。今まであったキリスト教の書物とは違う。
それは「原理講義」を聴いた者、「原理講論」を読んだ者なら誰もが、そのように思うであろう。

アブラハムが供えた供え物は、五つであった。
「雌牛」「雌やぎ」「雄羊」「山ばと」「家ばと」の五つである。
これを「講論」は三つのグループに分ける。
 
    「雌牛」    「雌やぎ」「雄羊」    「山ばと」「家ばと」

三つである。
しかも、順序を以下のようにかえて、この順に「蘇生」「長成」「完成」ととらえる。

    「山ばと」「家ばと」    「雌やぎ」「雄羊」    「雌牛」

ここらへんの詳細な説明は、野村健二先生の著書「幸福の探求~統一原理とは何か~」に詳しい。

どこの誰が一体、このようなことを思いつくことができるであろうか。
「供え物は何を蕩減復帰するものか」
「鳩を裂かなかったことが罪となった理由」
「供え物を裂くことに意味」
「荒い鳥が降りたことの意味」
「エジプトでの400年苦役の理由」…
これらのすべては、2000年間のキリスト神学は解くことができなかったのである。

統一教会のメッセージは、教訓を語って終わるものではない。
今まで、解明することができなかった秘密を、解き明かしているのである。

キリスト教の統一、そして、高等宗教の統一は、この「原理講論」で十分であろう。
私たちは、「原理」の驚くべきところの数々を常に認識しよう。
そして、「原理講論」を誇ろう。


私たちは常に「統一原理」が真理であることを確認しなければならない。
その偉大性に対して、認識しなければならない。
「講論」の至るところに、原理の鋭さを発見しなければならない。
「総序」から「再臨論」に至るまで、論理が一貫されていることを知らなければならない。

知的に整理することは大切である。
神を求めるには、心霊と知能を通してなされる。
神の「真理」を認識するのにも、知能だけでは限界がある。
心霊と知能を通してなされる。
しかし、「心霊」面からの追求は主観的な要素が多いのである。
だから、より客観的に論じることができる、論理一貫性を中心とする「原理」の驚くべき観点の数々を私たちは強く認識しなければならない。
そして、その数を数えなければならない。

さて、ここでは「天の最大の秘密」とは何かを話題にしよう。
以下のみ言に答えがある。

アダムの結婚式は、神様の結婚式です。これが天の最大の秘密です。気がついてみると、統一教会の文教主が生殖器解剖学の代表者になりました。生殖器ですべて一つになるのです。それなくしては愛が分からないのです。それ以外には、男性の生命と女性の生命が結ばれる場所がありません。そこで女性の血と男性の血が出会います。そこから歴史が連結します。そこから良心が出発します。そのようになっているのです。」
[三、神人一体と愛の理想完成 2.神人愛理想の根本原理 (2) 神人一体の拠点]

このようなことを一体どこの誰が自分の力のみで解明できたか。
解明できないのである。
私たちは、真の父母様から教えられなければ何も分からないのである。

真の父母様は特別なお方であり、神と一体となられているという信仰を食口なら持っている。
神は真の父母様を通して役事されるのである。
このことを信じることができない人は、あらゆる努力をして、
それを信じることができるように、まず自分自身を教育すべきである。
そのひとつの方法が、「原理講論」の偉大性を認識することである。
たとえ、この「講論」に盛り込まれてない重大事項も多い。
しかし、高等宗教の統一をなすだけの力は内包していると思う。
サタンはイエスに対して「三つの試み」をした。
聖書解釈書では、上記のように「三つの試み」のような表現を使うだけである。
しかし、「原理講論」は、それを「三大試練」(直訳「三大試験」)と命名している。
これは独自的なのである。
(単に「三つ」ととらえるのではなく、「三大」ととらえるところが独自的だということ)

創1:28を「三大祝福」と命名しているのも原理独自である。
(こちらは祝福の数として二つではなく、三つととらえ、そして、それを単に「三つ」ととらえるのではなく、「三大」ととらえるところが独自的だということ)

そして、なんと、アダムとエバに対する神の「三大祝福」と、
イエスに対するサタンの「三大試練」が
関連をもっているということを指摘している。
なんという連関性であろうか。

何故、「三大試練」と称したのか。
イエスは「三つの祝福」を復帰すべくその道を歩まれたのであった。
それを阻止すべく、サタンがイエスに試練をしたというのであった。

ところで、「三つの祝福」こそ、神の創造目的そのものであるので、「三大祝福」と命名したのであるので、
その「三大祝福」を復帰、完成するために来られたイエスの行くべき道を阻止する、サタンの「三つの試練」は、
三大試練」としているのである。

この「三大試練」という言葉自体、原理独自のものであることを認識しておこう。
今まで、こんな観点をもってこの「三つの試み」を解釈した人はいない。
このようにとらえることは無理であった。
何故なら、創1:28の聖句を「三つの祝福」と分けることすらできなかったのであり、
更に、人間に対する、その三つの祝福命令こそ、神の創造目的そのものを意味していることを知る者はひとりもいなかったからである。

「原理」の驚くべき点を数えながら、そのような偉大な「原理」を知ることができていることに感謝しよう。
そのような感謝の思いを強くして日々の生活を送りたいものである。
「原理講論」を誇り、
「真の父母」を誇り、
神を誇って
前進する者となりたいものである。