洗礼ヨハネはイエスに洗礼を授けた後も、洗礼運動を展開したのであるが、
その際、「天国は近づいた」と語ったかどうか、それは分からない。
しかし、集まってきた群衆に向かって、悔い改めを迫ることは継続したのであろう。
では、その洗礼運動はだれのためにあったのか。
イエスの道を真っ直ぐにするために神から命じられて活動してきたのではなかったか。
更に言えば、彼の使命は彼の父ザカリヤが聖霊に満たされて預言したように
「生涯、イエスに仕える」ことであった。
<ルカ1:67~79>
「生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださるのである。幼な子よ、
あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう。主のみまえに先だって行き、その道を備え、罪のゆるしによる救をその民に知らせるのであるから」
彼の人生がイエスのためにあったのである。
父ザカリヤの預言から、このことを知ることができるし、
また、ヨハネ自身、次のように語っていた。
<ヨハネ1:31>
「このかたがイスラエルに現われてくださるそのことのために、
わたしはきて、水でバプテスマをさずけているのである」
父ザカリヤの預言の言葉がなかったとしても、
洗礼ヨハネがイエスに付いて行かなかったことは考えられないことであった。
ヨハネは、あれほど自分よりはるかにすぐれたお方が来ると語りつつ、洗礼運動をしてきたのであったのである。
そして、イエスがまさに、自分が待って来た、その方であると悟ったのである。
もし、私たちが洗礼ヨハネの立場にあったなら、私たちはイエスに対してどんな行動をとるだろうか。
想像してみよう。
それは、イエスに付いて行く。
それは、ほぼ100%の人が、イエスに付いて行く。
これである。
ところが、彼はそうしなかった。
彼はそうすることができる立場であったにもかかわらず、そうしなかったのである。
イエスと別行動をとって、どんなに「悔い改めよ…」と善のみ言を語っても、
あるいは、不倫は許されないと権力者にむかって敢然と言い放っても、
彼がイエスに付いて行くことをしなかったという一点で、
「天国で最も小さい者よりも、彼よりは大きい」とイエスから
審判を受けるほど落ちてしまったのである。
イエスに「侍る」ことができる位置にいながら、そして、それが願われているのにもかかわらず、
そうしなかった者の価値は最低になるのである。
文先生を再臨の主と認め、そして、そのお方に侍ることができる位置におり、
そして、そうすることを願われていながらも、もし、そうしない者がいたならば、
どんなに口から善の言葉を語っても、神の、その人に対する判断は、厳しいものになるに違いない。
「侍った」か、「侍らなかった」か。これが分岐点ではないか。
その際、「天国は近づいた」と語ったかどうか、それは分からない。
しかし、集まってきた群衆に向かって、悔い改めを迫ることは継続したのであろう。
では、その洗礼運動はだれのためにあったのか。
イエスの道を真っ直ぐにするために神から命じられて活動してきたのではなかったか。
更に言えば、彼の使命は彼の父ザカリヤが聖霊に満たされて預言したように
「生涯、イエスに仕える」ことであった。
<ルカ1:67~79>
「生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださるのである。幼な子よ、
あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう。主のみまえに先だって行き、その道を備え、罪のゆるしによる救をその民に知らせるのであるから」
彼の人生がイエスのためにあったのである。
父ザカリヤの預言から、このことを知ることができるし、
また、ヨハネ自身、次のように語っていた。
<ヨハネ1:31>
「このかたがイスラエルに現われてくださるそのことのために、
わたしはきて、水でバプテスマをさずけているのである」
父ザカリヤの預言の言葉がなかったとしても、
洗礼ヨハネがイエスに付いて行かなかったことは考えられないことであった。
ヨハネは、あれほど自分よりはるかにすぐれたお方が来ると語りつつ、洗礼運動をしてきたのであったのである。
そして、イエスがまさに、自分が待って来た、その方であると悟ったのである。
もし、私たちが洗礼ヨハネの立場にあったなら、私たちはイエスに対してどんな行動をとるだろうか。
想像してみよう。
それは、イエスに付いて行く。
それは、ほぼ100%の人が、イエスに付いて行く。
これである。
ところが、彼はそうしなかった。
彼はそうすることができる立場であったにもかかわらず、そうしなかったのである。
イエスと別行動をとって、どんなに「悔い改めよ…」と善のみ言を語っても、
あるいは、不倫は許されないと権力者にむかって敢然と言い放っても、
彼がイエスに付いて行くことをしなかったという一点で、
「天国で最も小さい者よりも、彼よりは大きい」とイエスから
審判を受けるほど落ちてしまったのである。
イエスに「侍る」ことができる位置にいながら、そして、それが願われているのにもかかわらず、
そうしなかった者の価値は最低になるのである。
文先生を再臨の主と認め、そして、そのお方に侍ることができる位置におり、
そして、そうすることを願われていながらも、もし、そうしない者がいたならば、
どんなに口から善の言葉を語っても、神の、その人に対する判断は、厳しいものになるに違いない。
「侍った」か、「侍らなかった」か。これが分岐点ではないか。