「天聖経」の中に次のようなみ言がある。
「…このような話を、お金を払って聞くことができますか。自分の家を売り、財産を売って、千年、万年、祭祀を捧げても教えてくれる人はいません。統一教会の文先生以外にはいません。これは宇宙の秘密です。聖書にもこのような内容はないでしょう? 聖書では、「善悪の実を取って食べて堕落した」と言っています。善悪の実とは何かの果実ですか。そのような幼稚園児にも及ばない実力をもって博士学位を検証し、博士学位の総会長になった文総裁を「異端である」と言うことができますか。「異端」という言葉は、端が異なっているということではなく、端が見えないという意味です。私の言っていることは正しいですか、正しくないですか。正しいのです。」[天聖経、第3章 人間堕落と復帰、1節人間堕落の内的意味、3.悪魔サタンは淫乱によって堕落した]

「講論」の「堕落論」に次のような個所がある。
「多くのキリスト教信徒たちは今日に至るまで、アダムとエバが取って食べて堕落したという善悪を知る木の果が、文字どおり何かの木の果実であると信じてきた。しかし、そうであるなら、人間の父母としていまし給う神が、何故その子女たちが取って食べて堕落する可能性のある果実を、このように「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好まし」くおつくりになり(創三・6)、彼らがたやすく取って食べられる所に置かれたのであろうか。」

キリスト教徒以外の人は、この「講論」の主張は、もっともな主張と考えることができるだろう。
神が人間の父母ならば、失敗したら死んでしまうような試練を与えない。
これは当然だ。
しかし、キリスト教信徒はそのように考えて来なかったのである。
キリスト教は多くの教派に分かれて、意見は決して一つに集約できないが、
人間に、「自由」の尊さを悟らせるために、神は堕落を予定されたのだという人もいる。
神は人間に「自由」を与えた。しかし、「自由」を与えられた人間は、その尊さが分からない。
それを分からせるために、堕落することを予定されたというのである。
そして、できた世界がこの堕落世界であり、綴ってきた歴史が罪悪と悲しみに満ちた歴史であった。
それでも、これは神の予定であるという
彼らは結局、神を人間の父母と見ていないのである。
「天の父よ」とは呼びかけはするが、それが自分の父母以上に私を愛してくれているお方であるとは知らないのである。

神は人類の真の父母である
これは霊界で霊人たちを集めて開催された原理セミナーのタイトルであったらしい。
神は人類の真の父母である」との宣言は、驚くべきことであったのである。
神は人類の真の父母である」、これを受け入れれば、「統一原理」の内容を素直に理解できるようになるのである。
何故なら、「統一原理」は「神は人類の真の父母である」ことを基点に論理展開されている体系であるからだ。

「講論」の「堕落論」から、もう一ヶ所抜き出してみる。
「なぜなら遺伝は、ただその血統を通じてのみなされるからである。ゆえに、ある一人の人間が、何か物を食べたなどということによって、その結果が子孫代々にまで遺伝されるはずはない。ある信徒たちは、神がそのみ言に対して人間が従順であるかどうかを試すために善悪を知る木の果を創造し、それを食べてはならぬと命令されたのであると信じている。しかし、全き愛の方であられる神が、人間に死を伴うような方法でもって、かくも無慈悲な試みをされたとは到底考えることができない。」

「講論」は、それ自体で画期的な内容を含んでいるのだ。
たとえ、「原理本体論」の内容を含んでいないにしてもである。

神の復帰摂理の最小単位は「家庭」である。
何故なら、父が信仰基台を復帰し、長子と次子で実体基台を復帰してはじめて、
「メシヤのための基台」を造成することができるからである。

神の復帰摂理は、その最小単位の「家庭」からはじめられた。それが「アダム家庭」を中心とする復帰摂理である。

「アダム家庭」が失敗した後は、「帰一数」である「十数」を蕩減復帰してこそ、神の側に再帰一できるのであった。
「アダム家庭」が一代として、十代目が「ノア家庭」であった。

「ノア家庭」が失敗した後は、再度、「十数」を蕩減復帰して、神の側に再帰一しなければならない。
それが「アブラハム家庭」である。
ただ、ノアを一代として数えたら、アブラハムは「十一代目」であることを知識として知っていなければならない。
アブラハムはその長子セムを一代として数えて、「十代目」である。

さて、「アブラハム家庭」を中心としての復帰摂理は、これまた失敗した。
しかし、アブラハムの子であるイサクの家庭で勝利した。
「アブラハム家庭」を中心として復帰摂理を始めたが、結局、「イサク家庭」にまで延長して勝利したということ。
だから、「講論」では、その教訓のところに、「アブラハムの家庭を中心とする」ではなく、
アブラハムを中心とする復帰摂理が我々に見せてくれた教訓」
と記されている。
「アブラハム家庭」と「イサク家庭」はひとくくりにするのである。

アブラハムが神から召命を受けたのは、彼が75歳のときである。
そのときから、アブラハムの孫であるヤコブがエジプト入りするまでは、215年の時間の流れがある。
代数としてはアブラハム、イサク、ヤコブの三代である。
しかし、復帰摂理から見て、その三代215年はひとくくりにする。
この「アブラハムを中心とする復帰摂理」によって、アダムからはじまった「復帰基台摂理時代」は勝利的に終えた。
それ故に、アブラハムから三代、215年が、次の「民族」を単位とする「復帰摂理時代」(=旧約時代)の基点となったのであった。
「講論」の「第三節 復帰摂理時代を形成する各時代とその年数」の「(三)統一王国時代一二〇年」に、
「アブラハムは、復帰基台摂理時代の終結者であると同時に、復帰摂理時代の出発者であった」
と記されているとおりである。

「講論」では、「復帰基台摂理時代」は、1600年+400年=2000年であるとしているが、
正確には、
アダム出生からノアの洪水までが1656年、
ノアの洪水からイサク出生までが392年、
合計は2048年である。
その後、イサクが60歳のときに、エサウとヤコブが生まれ、
ヤコブが130歳のときにエジプト入りをしたので、
結局、イサク出生からヤコブのエジプト入りまでは、
60年+130年=190年
の時が流れている。
その間に、ヤコブが、イサクを通して神から祝福を受け、エサウとの対立期間を経てハランに向かい、ハランで20年間の苦役期間を経て、カナンに帰り、エサウと一体化を実現したのであった。

よって、アダム出生からヤコブのエジプト入りまでは、聖書歴史では、
2048年+190年=2238年
である。そのことを知っておこう。

我々はこの聖書に記された年齢は、歴史的な事実でなく、「象徴的な数字」であると考えるのであった。
しかし、その聖書に記された数字をもとにして計算しておくとどうなるかを知っておこう。

(答)アダムからノアは十代目、ではノアからアブラハムは「十一」代目
劉正玉先生は、自らの著書である「天一国時代の生活原理講解」のなかで、
キリスト教の綱領の中で、一番重要な内容がキリスト論です。キリスト論は、神様とイエス様の関係、すなわち三位一体を中心に扱っている、キリスト教の核心内容です」
と語られておられる。

「キリスト論」、これは「一番重要な内容」として認識されている。
従って、「講論」の「キリスト論」は、キリスト教の素養がある人が「講論」を読もうとする時に、彼らは重大な関心をもって読む部分である。

では、「講論」の「キリスト論」が主張するところは何か。
イエスは神ご自身ではない」ということである。
これは、「三位一体説」が正しいとしてきたキリスト教アタナシウス派から見れば、完全に異端である。

それでも、私たち統一教会信徒は、「統一原理」が正しいと主張できるだけの論拠を持っている。
「原理講論」にあらわされた「統一原理」の力は大きいのである。

レピデムで立てることができた「磐石の水の基台」。
「韓国語版原理講論」を直訳すれば「磐石の湧き水の基盤」である。

この「基台」(基盤)が、神の摂理進展にとって、善の条件とされたときが、
「講論」には三回あったと指摘している。

〔1〕第二次民族的カナン復帰路程のなかの「幕屋を中心とする復帰摂理」において、
石板を受け、契約の箱、幕屋をつくることができるようになったというところ。

〔2〕しかし、その後、イスラエルの民が不信に陥ったが故に、「幕屋のための基台」にサタンが侵犯したが、
40日カナン偵察を信仰をもって実行していたら、第三次の「幕屋のための基台」を蕩減復帰するようになっていたというところ。

〔3〕第三次民族的カナン復帰路程のなかの「モーセを中心とする実体基台」のところで、
モーセは磐石を二打してしまうが、レピデムで立てた「基台」(基盤)の故に、水を出して飲むことができるというところ。

このレピデムにおいて「岩」の湧き水を飲んだことが、その後の摂理に大いに関係していたことを誰が知ることができたか。
果たして、磐石の湧き水を飲んだことが基盤となっていたのかどうか、このことを私たちは確かめるすべはない。
そのように教示していただいて、我々は受け入れるのみである。
このようなところが「原理講論」のいたるところにある。

一体、どこの誰が、この「原理講論」を自力で著すことができようか。
天から来られたお方が、神の啓示を基点としてはじめて解明できた体系こそ、「統一原理」である。
私たちはその背後に、どこまでも神を見なければならない。
神秘性を感じなければならない。

そして、私たちの中の一体だれが完全に「内的知」に至っているというのであろうか。
自分は今なお「内的無知」にあるという現実を自覚して、
謙虚にならなければならない。


モーセがホレブ山で召命されてから、出エジプトまでに行なわれた奇蹟は
「十三」ではなく、「十二」である。

<ホレブ山にて>
出エ4章
〔1〕杖を蛇に変える (4:1~4)
〔2〕手がらい病 になる (4:6~7)
〔3〕水が血になるだろう (4:9) … この奇蹟はこのときは実演されていない

<エジプトにて>
出エ7章
〔1〕杖を蛇に変える (7:10~12)
再度実施。今度は、パロの前で実施
モーセがアロンに杖を投げさせると、それが蛇になった
エジプトの魔術師らも杖を投げると、蛇になった
「アロンの杖」は「魔術師たちの杖」を飲みつくした

〔3〕 水を血に変える (7:14~25)…①
モーセとアロンは、杖をあげてナイル川を打つと、血に変わった
直前の「杖を蛇に変える」奇蹟(=第一の奇蹟)は「災害」はもたらさないが、
この奇蹟が「災害をもたらす奇蹟」のうち最初の奇蹟

出エ8章~12章
■蛙を放つ (8:1~15)…②
■ぶよを放つ (8:16~19)…③
■虻を放つ (8:20~32)…④
■疫病を流行らせる (9:1~7)…⑤
■腫れ物 を生じさせる (9:8~12)…⑥
■雹を降らせる (9:13~35)…⑦
■蝗を放つ (10:1~20…⑧
■暗闇でエジプトを覆う (10:21~29)…⑨
■長子を皆殺しする (11章、12:29~33)…⑩
この奇蹟が「災害をもたらす奇蹟」のうち最後の奇蹟


「水を血に変える」奇蹟は、「三大奇蹟」と「十災禍の奇蹟」の両方に
数えられている。
だから、「三大奇蹟」と「十災禍の奇蹟」は、奇蹟の数としてはあわせて「十二」である。
ここで、「原理」の鋭いところは、この「十二」の奇蹟から、
「水を血に変える」奇蹟を「三大奇蹟」と「十災禍の奇蹟」のどちらにも入れたことである。

「三大奇蹟」として命名した
〔1〕杖を蛇に変える
〔2〕手がらい病になる
〔3〕水が血に変える
は、この三つの奇蹟は、この三つで、
「サタンに奪われた創造本然の四位基台を復帰することができる象徴的蕩減条件」
を立てることになるからである。
この三つの奇蹟を通して、
「イスラエル民族の前に、将来イエスと聖霊とが、人類の真の父母として来られ、全人類を子女として復帰」
することが象徴的に表示されていたというのである。

そして、「講論」は、
「ヤコブがハランにおいて、二十一年間の苦役をするとき、ラバンは当然ヤコブに与えなければならない報酬を与えないで、十回も彼を欺いた(創三一・7)。それゆえに、ヤコブの路程を歩むモーセの路程においても、パロがイスラエル民族を、限度を越えて苦役させたばかりでなく、十回も彼らを解放すると言いながら、そのつど彼らを欺いたので、その蕩減として十回の災禍を下し、パロを打つことができたのである。」
と説明して、
災害をもたらす奇蹟」として①~⑩の十の奇蹟を「十災禍の奇蹟」としたのであった。

このような観点で、この13の奇蹟を説明した人は一人もいない。
このことは隠されてきたのである。
それを明らかにしたのが、「原理講論」である。

これらのことよりももっと根本的なこととして、人類歴史は「復帰」の歴史であり、「復帰」は無条件になされるのではないということを、はっきりと理論立てて説明した人はいるのか。
神の力の一方的な力で「救い」は成就できないのであり、
「救いの成就」には、人間が「蕩減条件」を立てることが必要不可欠である。
何故神は一度に人間を救うことなさらないのかとの疑問を持った人は多いであろう。
しかし、納得のいく回答を提示した人は一人もいない。

「原理講論」こそ、「啓示の書」である。
進化論vsID理論 20年戦争

 ダーウィン進化論をはじめとする唯物論科学の代替理論として注目されているインテリジェント・デザイン(ID)理論。米国で同理論による科学革命運動(ID運動)がスタートして今年夏で20年の節目を迎える。進化論側との闘いは依然熾烈だが、ID運動は着実に成果を上げてきている。
(編集委員・原田 正)
ID支持の技術者を差別 NASAの研究所 13.3.13
「ID支持」知った後 激変 JPLの上司の態度 13.3.14
和解金払うケース増加 裁判闘争での進化論陣営 13.3.15
優れた説明力と合理性 ID派が武装した理論 13.3.16
検閲、抑圧、そして追放 進化論側がとった戦術 13.3.17
ID理論支持率52%にも ダーウィンイヤーの悪夢 13.3.18
進化論側最後の砦が崩壊 ジャンクDNAの機能 続々解明 13.3.19
「偶然の過程」の限界指摘 人類の起源に関するID派の本 13.3.20
出エジプト記4章には、ホレブ山にいたモーセは奇蹟を見せられたことが記されている。
出エ4:1~4…杖を蛇に変えた
出エ4:6~7…手がらい病になった
そして、
出エ4:9…水が血になるだろう(この奇蹟は、このときは実施はしていない)
と語られた。

この三つの奇蹟は
「サタンに奪われた創造本然の四位基台を復帰することができる象徴的蕩減条件」
を立てるためであったとのこと。
この三つの奇蹟を通して、
「イスラエル民族の前に、将来イエスと聖霊とが、人類の真の父母として来られ、全人類を子女として復帰」
することが象徴的に表示されていたというのである。

だから、この三つの奇蹟を「三大奇蹟」と命名しているのである。
この三つの奇蹟をことさら取り上げて、更に「三大奇蹟」と命名した人はいない。
原理独自の表現であることを認識せよ。
ここにも「統一原理」の独自性がある。
「三位一体説」とは、

神には三つの位格(ペルソナ)があり、
その神の三つの位格とは「神」、「キリスト」、「聖霊」である
一実体、三位格で表される
この三者に優劣の差別はない
同一の本質を持ちつつも互いに混同し得ない、区別されない

などというものである。
「神をどうみるか」「キリストをどうみるか」に係わってくるものである。
「キリスト論」は、「イエス・キリストをどう理解するか、イエス・キリストはどのような存在であるか」の定義を扱う。
「講論」の「キリスト論」もこの問題を扱っている。

AD325年、ニケーア公会議(コンスタンティヌス大帝によって招集)で、「三位一体論争」があった。
神とイエスは「同質」だという「アタナシウス派」と、「類似」だという「アリウス派」との論争であった。
「同質」だという「アタナシウス派」においては、イエスは神である。創造主であるという意味である。
「類似」だという「アリウス派」においては、イエスは被造物である。子なるイエスは無から生じたのであり、存在しなかったときがあると主張した。

この会議で「アリウス派」は異端とされた(AD381年)

「三位一体説」、それは「イエスは創造主である」との主張である。
イエスがこの世界を創造されたのである。
「主イエス・キリスト」と言う時の「主」は、「創造主」の意味である。

この「三位一体説」は、「キリスト教の根本教義の一つ」である。
〈一実体、三位格〉で表される神観をキリスト教は持っている。
この神観こそ正統であると過去の会議において決定したのであった。

しかし、三位一体のわけは、「人間の知恵を超える真理だから、これを悟ることができない」とし、
三位一体は“信仰の神秘(奥義、秘儀)”である(カトリック要理p59)とされている。
“信仰の神秘(奥義、秘儀)”とは、人間の知能では悟ることができなくても、神が啓示されたものであるから信じる真理のことである。

では、「統一原理」の立場はどうなのか。
それは、「講論」の「キリスト論」において、この「キリスト教の根本教義の一つ」である「三位一体説」を否定している。
「講論」の「キリスト論」は、「イエスは創造主ではない、イエスは神によって造られたもの」と主張している。

この「講論」の「キリスト論」は、爆弾的な主張をしているのである。
自らを正統としているキリスト教、それはキリスト教アタナシウス派のことである。
2000年の歴史を持つ、そのキリスト教アタナシウス派に対して、異端宣告をしているのである。
神において、「統一原理」が異端か、それとも「キリスト教アタナシウス派」が異端か。

私たちは統一食口は、文先生によって解明された、この「統一原理」全体を根拠として、
「イエスは創造主ではない、被造物である」との立場に立っている。

この「統一原理」は過激である。
よって、何が真理なのか、どこまでもその真理性を追究する姿勢が欠かせない。
そして、真理であると認めるなら、統一運動において、自分の知能では悟ることができないことがあっても、
その背後の神がおられるのであるからという観点に立って、信仰によって受け入れることが必要なのである。

キリスト教とは、
「イエスをキリストと認め、その人格と教えとを中心とする宗教。
旧約・新約聖書が教典。
正義と慈愛とにみちた父なる神、
人類の罪、
キリストによる贖罪  を説く」(広辞苑)

ナザレに生まれたイエスをキリスト、即ち、救い主と信じるのである。
その信仰の表明が、「イエス・キリスト」という言葉である。
そのイエス・キリストが、神の国の福音を説き、そして、罪ある人類を救済するために
自ら十字架にかけられ、その後、復活したものと信じる宗教である。

そのキリスト教の教派の多くは「神は三位一体の神である」ことを根本教義としている。

人間自らでは贖うことができない罪を、神であられるキリストが人となられて、
人類の代わりに、十字架の死を通して、罪を贖われたということ、それを信じる宗教である。

信じる神は、三位一体の神である。
この「三位一体説」は、正統教理であるとされている。
私たちは「宇宙の第一原因」を神という。

現代の標準的宇宙論モデルによれば、時間と空間は永遠の昔からあったのではない。
それらには始まりがあった。「宇宙の第一原因」のみが存在していた世界は時間のない世界であった。
時間がなければ「原因」=「結果」であるので、「宇宙の第一原因」の「原因」もまた、「宇宙の第一原因」それ自体である。だから、「第一原因」という言葉が成立するのである。

さて、現代の標準的宇宙論モデルであるところの「ビッグバン宇宙論」によれば、はじめに「光」があったのである。
その「光」について、その特異性については、既に、考察している。
「光速度不変の原理」がなり立ち、「光」の速度は有限であるが、真空中、どこから観察しても約30万km毎秒であった。相対的ではなく、そして、可変的でもない。
そして、この世で最速である。

この「光」に関しては、「絶対性」「唯一性」「不変性」を持つ点が神に通じるものであると考察した。
また、全生物の命の源泉であるところも神に通じている。

さて、その「光」は、「三原色」があり、適当な割合で混ぜ合わせると、あらゆる光を再現できる。たった「三つ」が「全体」に通じているのであった。
そして、「三つ」を一つにすると、平和を象徴する「白」になるという。
「光」の進み方は、直進、屈折、反射の三通りであった。

その「光」と同時に「時間」、「空間」、「物質」が存在し始めた。
「時間」は、「過去、現在、未来」と認識され、
「空間」は、「縦、横、高さ」の三次元であり、
「物質」は、「固体、液体、気体」の三態がある。二態でもなく、四態でもない。

この「物質」は100種類あまりの元素からなっている。
しかし、その元素はたった「三つ」の要素からなっている。
「陽子」「中性子」「電子」である。
その「陽子」「中性子」は、それぞれクォーク3個から成っている。

さて、複雑な物体の運動は、ニュートンによって、たったの「三つ」にまとめられた。
それが「運動の三法則」である。「慣性の法則、運動の法則、作用・反作用の法則」である。

自然界は「鉱物」、「植物」、「動物」の三界によって構成されていると見ることができる。
そして、「植物」は「葉、幹、根」の三部分、「動物」は「頭、胴、四肢」の三部分からなり、
「植物」において肥料の三要素といえば、「窒素、リン酸、カリウム」であり、
「動物」において三大栄養素といえば、「タンパク質、炭水化物、脂肪」である。

「熱」の伝わり方には「伝導、対流、輻射」であるが、
宇宙の背景放射は、現在の宇宙の絶対温度は3K(ケルビン)。
ここにも「三数」が顔をのぞかせている。

「音」の性質を決める要因の最も基本的なものは、「高低、強弱、音色」であった。

そして、「人間」にも、「三数」が貫かれている。
人間の心は「知性、感情、意志」の三つに分けるの一般的になされている。
人間の体に関してみれば、顔は「目、鼻、口」の三段階と見ることができる。

そして、耳は「三数」の宝庫であった。

人間は生活の中から多くの「三数」にまつわる諺を持つようになった。

「光」創造から「人間」創造に至るまで、被造物の存在のあり方に「三数」が絡んでいる。
不思議である。

その「三数」は実に神に由来していると考えることができるというのである。
「神ご自身が「三数的存在」である。これが「三数」の出発点であるというのである。

「講論」には次のように書かれている。
「被造世界は神の本性相と本形状とが数理的な原則によって、実体的に展開されたものである。ここにおいて我々は、神は数理性を持っておられるということを推測できる。またさらに、神は絶対者でありながら、相対的な二性性相の中和的存在であられるので、三数的存在である。従って、唯一なる神に似た被造物(創1:27)はその存在様相やその運動、更にまたその成長期間がみな三数過程を通じて現れるようになる。」[原理講論p77]

「絶対・相対・中和」という神の三側面から神様は「三数的存在」だとし、そこに「三数」の出発点をもとめている。
しかし、こんなことは、誰が知り得るであろうか。
また、それがどうして「三数」の出発点であると断言できるのか。
私たちには正しいとも間違っているとも論理実証的には確認できないであろう。
それに関してはそういうものであると受け入れるだけである。

では、まったくなんの根拠もなく信じるのであろうか。
違う。
「総序」からはじまって「創造原理」「堕落論」「終末論」「メシヤ論」…「復帰原理」「再臨論」に至る「統一原理」全体を私たちは学び検討して、これこそ「新しい真理」であると受け入れるとき、この「三数」の根拠は神の「絶対・相対・中和」にあり、神は「三数的存在」であるということを啓示として受け入れることができるのである。
これらのことはただただ神秘である。知性を超えたものであり、「統一原理」は神から来たもの、すなわち、「神来性」を認めなければならないのであろう。
もし、そうするとき、私たちは自分の理解できないものがあるのであると認め、従って、謙虚にならなければならないのである。
そして、その「統一原理」は誰が解明されたかと言えば、そのお方こそ文先生であるという事実。
従って、私たちは文先生を再臨の主として受け入れているのであろう
そのお方の背後に、神が共におられるということ、それも認めているのであろう。
ならば、私たちは、今の韓女史は霊界の文先生と一体となられて私たちを主管されているということ。
そのことを受け入れなければならない。
どこまでも、この「統一原理」が真理であるかどうか、真理は真理でも「新しい真理」であり、「最終的な真理」「天宙的な理念」であること、そのことを受け入れるならば、私たちは日本統一教会公認の教会に主管されて歩まなければならないと思う。

「原理講論」に書かれた「統一原理」の内容は、いたるところに神の啓示が盛り込まれている。
すなわち、「神秘性」を有している。
この「原理講論」は、驚くべき啓示の書であると自分は思う。
しかし、「統一原理」は「原理講論」の内容にとどまらない。
たとえば「血統転換」に関する神の摂理に関しては「講論」は言及していない。
そして、最終的に、「原理本体論」の内容も網羅してこそ、はじめて「統一原理」は全体の姿を現すのであろう。

私たちは、どこまでも「統一原理」の真理性を追究しなければならない。
その論理体系としての「統一原理」全体を問題にするのである。
2000年間のキリスト教神学と比較しなければならない。
そのとき、この「統一原理」が、どれだけ画期的な内容を秘めているか、認識できる。

「洗礼ヨハネの不信」に関しては、既にこのブログに投稿した。
これは洗礼ヨハネがイエスに洗礼を授けた直後に、イエスを不信していたという主張であり、これは驚くべき主張である。今まで誰も指摘してこなかった観点である。
もし、洗礼ヨハネがイエスに侍って、寝食を共にしていたら、イエスは多くのユダヤ人から尊敬の念をもって見られていたであろうという主張は、実に、説得力があるのではなかろうか。
けれども、そのような主張を展開した人はいなのである。

今まで隠されてきた秘密が、この「統一原理」によって明らかにされたのだとみなす。
ましては、「マリヤの不信」などに関しては、更に驚くべきことである。

そして、「原理講論」の「キリスト論」は、イエスは創造主ではない、イエスは被造物であると主張しているが、
これは2000年のキリスト教神学と対峙するものである。
「三位一体論」を否定するからである。
キリスト教神学の根幹である「三位一体論」を否定する「統一原理」、あなたはそれを信じますかということである。
もし、信じるなら、今までのキリスト教神学の誤りを正し、そして、その神学体系に比して、あまりにも高次元の内容を備えている「統一原理」を明らかにされた文先生と韓女史を「善の人間始祖」として受け入れなければならないのではなかろうか。
そして、そのお方は「横的真の父母」だということも受け入れなければならないのはなかろうか。

無形の神は「人類の縦的な真の父母」であり、
文先生と韓女史は「善の人間始祖」であるがゆえに「人類の横的な真の父母」であることを受け入れなければなりません。
そして、それら「人類の縦的な真の父母」と「人類の横的な真の父母」はひとつになられているのだというのである。よって、私たちは、そのお方の指示に従わなければならない。
それほど尊いお方であるからであり、愛と生命と血統と良心の根源であるからである。
また、私たちは教えていただかないと悟り知ることができないからである。

洗礼ヨハネはイエスに侍ることはできなかった。
彼はイエスに洗礼を授けた後、自分はイエスと行動を共にしなかった。
しかし、それでも彼はヨハネ伝では「見よ、神の子羊」と二度証をし、
また、「彼は栄え、私は衰える」との自覚を持っていた。
しかし、これは彼がとるべき行動ではなかったのであり、彼が行くべき道ではなかったのであった。

私たちの歩みは遅遅たるものであっても、それでも、正しい方向に向かっているなら良しとしなければならない。
不満の心になったとき、いつも「統一原理」が真理かどうかに立ち返り、そして、自分が歩むべき方向性を正しく設定しなければならない。

日本統一教会は世界の統一教会に比べて、特異的である。
何故そうなのか、そこに深い意味があり、そして、私たちはまだ知らされていないだけかもしれない。

「原理講論」では、世界次元においての神の摂理は、「男性国家」「女性国家」「中間的国家」などという言葉で説明されている。これが、文先生の観点であり、これはあまりにも特異的である。
地政学的に見ても、半島、地中海、…という見方をされている。
その文先生の摂理的観点は、もちろん神から来るものであろう。

では、「エバ」は神にとってどのような存在であったのか。
それは、神が一番創造したかった存在であるというのが「原理本体論」での教えである。
ここに「エバの特異性」があるのであり、従って、「エバ国家の特異性」もここから導き出すことができるかもしれない。
私たちは、すべてを知ることができないのである。
私たちは、教えていただかないと分からないことが多いのである。
そのことを知って、常に、「統一原理」の真理性を確認し、更に、確認しながら、人生を送るべきではないでしょうか。

<追記>
「講論」には、神について次のように書かれている。
「神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本性的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。」[原理講論p47]

この神の「性形」「陽陰」「主管性」という側面も、被造世界にみられる「三数」の根源的な根拠になっているのかもしれない。
なぜなら、そこから「三大祝福」が導き出されるからである。