「三位一体説」とは、

神には三つの位格(ペルソナ)があり、
その神の三つの位格とは「神」、「キリスト」、「聖霊」である
一実体、三位格で表される
この三者に優劣の差別はない
同一の本質を持ちつつも互いに混同し得ない、区別されない

などというものである。
「神をどうみるか」「キリストをどうみるか」に係わってくるものである。
「キリスト論」は、「イエス・キリストをどう理解するか、イエス・キリストはどのような存在であるか」の定義を扱う。
「講論」の「キリスト論」もこの問題を扱っている。

AD325年、ニケーア公会議(コンスタンティヌス大帝によって招集)で、「三位一体論争」があった。
神とイエスは「同質」だという「アタナシウス派」と、「類似」だという「アリウス派」との論争であった。
「同質」だという「アタナシウス派」においては、イエスは神である。創造主であるという意味である。
「類似」だという「アリウス派」においては、イエスは被造物である。子なるイエスは無から生じたのであり、存在しなかったときがあると主張した。

この会議で「アリウス派」は異端とされた(AD381年)

「三位一体説」、それは「イエスは創造主である」との主張である。
イエスがこの世界を創造されたのである。
「主イエス・キリスト」と言う時の「主」は、「創造主」の意味である。

この「三位一体説」は、「キリスト教の根本教義の一つ」である。
〈一実体、三位格〉で表される神観をキリスト教は持っている。
この神観こそ正統であると過去の会議において決定したのであった。

しかし、三位一体のわけは、「人間の知恵を超える真理だから、これを悟ることができない」とし、
三位一体は“信仰の神秘(奥義、秘儀)”である(カトリック要理p59)とされている。
“信仰の神秘(奥義、秘儀)”とは、人間の知能では悟ることができなくても、神が啓示されたものであるから信じる真理のことである。

では、「統一原理」の立場はどうなのか。
それは、「講論」の「キリスト論」において、この「キリスト教の根本教義の一つ」である「三位一体説」を否定している。
「講論」の「キリスト論」は、「イエスは創造主ではない、イエスは神によって造られたもの」と主張している。

この「講論」の「キリスト論」は、爆弾的な主張をしているのである。
自らを正統としているキリスト教、それはキリスト教アタナシウス派のことである。
2000年の歴史を持つ、そのキリスト教アタナシウス派に対して、異端宣告をしているのである。
神において、「統一原理」が異端か、それとも「キリスト教アタナシウス派」が異端か。

私たちは統一食口は、文先生によって解明された、この「統一原理」全体を根拠として、
「イエスは創造主ではない、被造物である」との立場に立っている。

この「統一原理」は過激である。
よって、何が真理なのか、どこまでもその真理性を追究する姿勢が欠かせない。
そして、真理であると認めるなら、統一運動において、自分の知能では悟ることができないことがあっても、
その背後の神がおられるのであるからという観点に立って、信仰によって受け入れることが必要なのである。