名盤と私67:T.Rex/ Electric Warrior(1971) | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

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 当ブログでは「T・レックスはこの40年間で評価を下げたことがない」とよく書くのですが、それはザ・パワー・ステーションがGet It Onをカヴァー・ヒットさせた1985年を起点にした見方です。マーク・ボランが存命中の評価の波についてはわかりません。
 たとえば、グラム・ロックのブームが下火になったらしい1970年代後半のアルバムにはマークが試行錯誤した形跡が残されているし、彼らの全盛期にあたる1971年から1973年頃に日本でどう受け止められていたのか、当時まだ幼稚園児だった私には具体的に掴めないのです。マークはアイドル性も高かったから、あの派手なグラム・ファッションとあわせて、全面的には歓迎できなかったロック・ファンがいてもおかしくないでしょう。
 ただ、これは断言できます。T・レックスのロックは、もう本当にユニーク。ストレンジで、ポップで、可愛くて、カッコいい。あれだけ音が人工的でありながら、基盤は天然です。音楽というよりは、世にも珍しい生き物のような印象を個人的には持っています。

 世界でたった一人にしか使えない魔法を持ったシンガー──私はマーク・ボランについてそう書いたことがあります。
 いわゆる”巧い”歌手ではないです。気持ち悪いとの声を聞くこともあります。でもあのイビツに震わせる声が表出する世界観は強力にファンタジックでエロティックで、しかもガキ大将になった妄想で遊ぶヒヨワな男の子みたいに、寸足らずのワンパクさが愛くるしい。夢見がちというか夢見すぎな世界観なのだけど、マークがあの声で歌い出すと魔法が効きだして、幻想が現実を侵食していきます。
 そのマジックが最高度に発揮された名盤が『電気の武者』(1971年)と『ザ・スライダー』(1972年)です。それらの前後にもT・レックスの良作はありますが、やはり極めつけはその2枚。別格です。

 だいたい、人はどんなふうにT・レックスと出会うのか。マークの生前に間に合わなかったファンはとくに、世代によって出会ったきっかけも異なるでしょう。大半の人は、どこかでGet It On(もしくはそのカヴァー・ヴァージョン)を耳にして、T・レックスに興味を持つはずです。私もそうで、先述したパワー・ステーションのカヴァーが興味に火をつけました。1985年、高校3年生でした。
 その曲のオリジナルが『電気の武者』なるLPに入っているとわかって、京都駅の地下街にあった十字屋に買いに行きました。と、そこで目を惹いたのが『ザ・スライダー』のジャケットです。『電気の武者』よりも頽廃的な感じがして、私はデカダンな雰囲気に弱い若者だったので、そちらを選んだのでした。私にとってT・レックスのアルバム体験は『電気の武者』のオープニングを飾るMumbo Sunではなく、『ザ・スライダー』のMetal Guruによって封を切られたわけです。

 で、そのアルバムが良かった。当時の私は『ザ・スライダー』とロキシー・ミュージックの『ストランデッド』にドップリと浸っていました。そうなると、次は『電気の武者』が欲しくなります。再び京都駅の地下街へと出かけました。
 ところが、ついこの間まで『ザ・スライダー』と一緒に置いてあった『電気の武者』が売り切れていたんです。たぶん私と同様にパワー・ステーション経由でT・レックスに興味を持った若者がいたのでしょう。その人は素直に『電気の武者』を入手したのです。1985年には、そんなことが起きてもおかしくない、T・レックス再評価の気運が高まっていました。
 1週間して入荷の電話を受け、近鉄電車に乗って受け取りに行きました。店を出てレコード袋の口から覗いてみると、ヒプノシスがデザインしたジャケットが見えます。ステージでのマークの写真を加工したデザイン。それを目にしただけでワクワクしました。そうして家に帰り、盤に針をのせてMumbo Sunの最初の音を待っていると。
 Metal Guruみたいにドッパ~ン!マーク・ボランご一行様のお通りだい!と始まらない。それどころか、まるでスコップで土を掘るように不穏なベースとドラムとパーカッションで始まって、マークも「ウォ~ウォ~ウォ~イェ~~~イ!!」とシャウトせず、内緒ばなしでもするみたいに抑えて歌い出します。
 大々的にゲートが開くMetal Guruとは違って、感情の低いバーを小揺すりされる格好になりました。B面1曲目のGet It Onも、ゲート・リヴァーブの風圧高いパワー・ステーションのヴァージョンとは異なる、低い小揺すり。

 もしそこで不満しか覚えていなかったら、私はこうして現在もT・レックスやロックについてブログを書いていないと思います。ある快感のツボを開拓されたのです。不気味で楽しいダンスへの誘い。秘密の部屋への鍵を手渡されたようなものでした。

 この記事を書くにあたって『電気の武者』を聴きなおし、改めて感じたのはフロ&エディの男性二人によるバック・コーラスの異様さでした。いったい何のつもりで、どういう算段で、こんな奇矯なコーラスが付いているのか、わかるけど言葉に出来ません。頭の固いプロデューサーだったら、「フザケるのもほどほどに」と注意するでしょう。
 いや、フザケてる部分はあったはずです。だけどフロ&エディのコーラスに醸し出されるフリークアウト感が、T・レックスにとって筋の通った正解でした。このバック・コーラスが『電気の武者』や『ザ・スライダー』で曲の地平を広げています。どこに向かって広がっているのかは見えませんが、魔法使いに仕える僕(しもべ)の役割をはたしています。
 ストリングスのアレンジ(プロデューサーのトニー・ヴィスコンティ)も変です。フレーズ単位では特異性が薄いのですが、このメロディーのカウンター・パートにそれを入れる?と言いたくなる使い方です。この点では『ザ・スライダー』が徹底されており、『電気の武者』ではまだ試験的な様子も窺えるけれど、なんだか素人に任せたアレンジのようでもあり、それが事あるごとに曲の熱や感傷を変な角度で増大します。
 こうしたバック・コーラスとストリングスの珍味な妙は、Cosmic Dancerでたっぷりと味わえます。アコースティック・ギターを中心にしたスローな曲で、この趣向は先に聴いた『ザ・スライダー』で私に馴染みのある曲調だったとはいえ、もう少し人間臭い哀感が漂っています。

 『電気の武者』は、ティラノザウルス・レックスから改名してのお披露目アルバム『T・レックス』(1970年)の次作です。あれは夜明け前の光を眺めているような麗しい一枚ですが、アート・ロック的なサウンドを引きずってもいて、ボラン・ブギーに振り切れてはいません。
 ストレンジという点で純度が高いのはティラノザウルス・レックス時代のアルバムです。でもそれはアンダーグラウンドの枠内に収まりのよい奇妙さでもあります。『電気の武者』では、そのストレンジな苗をポップの土壌に移して咲かせた花の、あでやかで際だつ色と香りが所在のなさと混ざり合っています。賑やかさに一抹の寂しい陰翳がにじんで見えます。そういうセンスが日本人にも通じやすかったのだろうし、逆に当時のアメリカでブームを巻き起こせなかった理由なのでしょう。

 とは言っても、シングルのGet It Onは(チェイスの同名曲との混同を避けるために)タイトルをBang A Gongに変えてアメリカでも10位のヒットを記録しました。
 『電気の武者』内で、この曲の何がアメリカ人にアピールするほど特別だったのか。一聴してわかるのは、シンプルきわまりないギターのリフと、演奏および録音におけるボトムの安定感です。まあ、実際には安定してないんですけど、ベースのR&B的なフレーズなどに盤石感はあります。さらにリック・ウェイクマンのピアノとイアン・マクドナルドのバリトン/アルト・サックスという、それぞれイエスとキング・クリムゾンから参加した腕利きによるツボを心得た好サポート。これもまたロックンロールの型を輪郭づけます。
 この曲で特徴的なのは、ヌメッとした歯切れを持つギターのリフ(というかアクセント)であり、沼地の生き物のようなマークのヴォーカルであり、フロ&エディが担当した性別不明なバック・コーラスです。それらが風変わりな味をもたらしているのですが、中身の奇妙さと型の強さがユニークな調和を聞かせて、リスナーの聴感をねじりながらもロックンロールの興奮へと導きます。ハッキリと見通せない不明瞭さが解決されないままに、それが謎とスリルの効果をあげ、安定してリスナーに注がれるのです。

 アルバムの全編に、そうした不明瞭さのスリルが効いています。土俗的な弾みを持ったMumbo Sunにしても、ロカビリーっぽい形式に乗ったJeepsterにしても、ヘタウマなブルース・ロックのLean Woman Bluesにしても、小難しくないのに視界がクリアにならない。だけど確実に熱狂や哀感を生みます。
 Cosmic DancerやGirlやLife's A Gasといったフォーキーなバラードには、エキセントリックな表現を取る者の孤独や寄る辺なさが刻まれています。MonolithはそのタイトルをCosmic Dancerのそれと並べるとデヴィッド・ボウイのSpace Odityに線を引けそうで、歌われる悲哀は孤高の誇りや喜びとも結びついています。
 ラストに収められたファンキーで狂騒的なRip-Offは、ラップというよりもマークのヒーローであるボブ・ディラン調。1971年当時おとなしめの歌い方をしていたディランの尻を叩く意図があったんじゃないかと想像してしまいます。ここでは各ヴァースの締めにメジャー・セヴンスのコードが鳴らされて、ミステリアスな空気をかなり強引に加えています。

 つまり、どこを聴いても単純に楽しいとか哀しいとかの形容では割りきれない音楽なんです。
 十代の頃、ボラン・ブギーと称される曲の数々に心躍らせつつも、なんでこんなに寂しい気分がつきまとうのか、私には不思議でした。でもそこに惹かれたのだし、それはパワー・ステーションのGet It Onで味わえない何かでした。ロックというのは、根っから陽気で活発な姿勢も大切な在り方だけど、いろんな感情や経験やイマジネーションが絡み合ってシンプルでアクティヴな形に結晶化する、そういう表現でもあるのだと気づいたアルバムが『電気の武者』や『ザ・スライダー』でした。そしてこの2枚が別格なのは、それを伝える魔法が天然に等しい手つきで生じていることでした。
 その天然の魔法は各曲のメロディーにも表われています。簡潔なフレーズをしつこく繰り返すメロディーが、どうしてここまでマジカルでスペシャルな輝きを得るのかは謎です。ブルースやフォークに由来する要素は指摘できますが、もっと西洋古来の民謡を想起させたりもするし、東洋人の郷愁をくすぐるフレーズも織り込まれています。徒然なるままに作ったメロディーなのでしょうが、マーク・ボランはそのゼロの状態の吸引力が凄かったんだろうなと思います。

 ゼロを何倍してもゼロにしかならない、と言うと否定的に聞こえます。が、T・レックスの場合は最初の状態(ティラノザウルス・レックス)が極端にユニークであったので、ど派手な化粧と衣装を身につけようと、エレクトリック化してブギーのアイドルに生まれ変わろうと、何倍したって元のユニークさが消えなかったのです。だから後期に入って新機軸をプラスすると、それはゼロではなく1や2になってしまいました(あれはあれで味があって佳いのですが)。
 この『電気の武者』と『ザ・スライダー』のすさまじい吸引力は今聴いても衰えていません。人工的なサウンド・メイキングの向こうで、ゼロの巨大な熱と孤独感が渦を巻き、聴く人を飲み込みます。その意味で、本作を代表する曲としてJeepsterとLife's A Gasを挙げたいです。この2曲の狂騒と哀感に触れたら、電気の武者の天然の強さと寂しさに感電します。

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