第二章「親の態度で子どもも変わる」
「教育熱心」とは何かーその(2)
またある父親は、昔風の頑固一徹タイプである。息子とキャッチボールもしたことがない。働きながら夜間の工学部で勉強するなど苦学の末に、一代で50人を雇う工場を立ち上げた自負と自信がある。息子にはそれ以上のものを期待し、勉学を押しつける。母親は息子を溺愛する。周囲から見ればこれも「教育熱心」だろう。
大学までは「順風満帆」に思えた。だが、息子は父母の期待に応えようとしていわゆる一流企業を目指したにも関わらず、就職試験に落ちてしまう。そこから不幸が始まった。息子は自分が価値のない人間に思え、恨みの矛先は親に向かったのである。父親の命を狙おうとするほど、家庭は修羅場となった。その意味では、「父親への反抗」から家に火を放った奈良の高校生と似ている。男の子は長じて父親を憎むようになるとするフロイトの「エディプスコンプレックス」とは、こんな出来事にもあてはまるのだろうか。
常人から見れば「どうしてそんな?別の人生があるじゃないか。」と思えるだろうが、親子の確執は、他人からは見えないのである。その家庭でのみ植えつけられた価値観もある。このケースでもう一つ不幸だったのは、父親が息子を自分の会社の取締役に据えて、何もしない息子に役員報酬と称するお金を与え続けたことである。親として、ここでも大きな過ちを犯したと言えるだろう。その息子は、何十年もの煩悶ののち自分の腹に刃物を突きたて、自死という形で人生に決着をつけた。50歳を過ぎてからであった。その年齢と長い年月に、暗然とさせられる。
私が教えている大学は、決して「一流」とは言えない。しかしここでも「最近ウチの息子の帰りが遅い。サークルだとかボランティアだとか言っているが、大学はいったいどうなっているのか。」とういう抗議が、父親から届くという。若者の成長のための体験を、親が止めようとしてしまっているわけだ。なんとも嘆かわしい事態である。学生諸君は、活発にさまざまなことに挑戦し、その中から学んだことも多く、折り目正しい態度を保っているのにである。
ただしここでも誤解のないように付け加えておけば、大学とは勉学をするところである。友人である母親が自分の娘の悩みの相談に来て、「大学って楽しいから行くんでしょ?」と私に言う。思わず「とんでもない!」と反応してしまったが、友人であるその母親は、確かに「楽しいから」大学に入ったようだ。本人の動機や意志を否定するつもりはない。
だがその娘さんは、結局大学に通う意義を見出せないまま、中途退学となってしまった。「楽しいから」という理由だけで入学したなら、それはいずれ行き詰まる。学校は学ぶことが中心であり、それを基礎としたいろいろな体験を積むことが大切なのである。
親しくさせてもらっている工務店の社長が、「一流と言われる大学出身の連中には、知識はあるけど知恵がない。」と嘆く。細かく尋ねてみると、「その場の判断ができず、すぐに他人の意見を求める。母親と相談してから決めるなどという、とんでもないヤツがいる。」「電話の応対や挨拶が満足にできない。」「お客さんと食事をしたときに、お箸の持ち方がヘンで恥をかいたこともある。」等々、なかなか辛辣で的確なところを突いてくる。
これらはみんな、家庭や学校での教育を基本とした社会的活動によって得られるのではないか。「勉強」だけが「教育」ではない。教育の根幹は、まさに文部科学省が力説する「生きる力」を育むことである。生きていくための知恵や知識や、自立するに必要な心の有りようを含めた「教育」でなければならない。時には人生上の「壁」にぶち当たる体験をさせるのも「教育熱心」と言えるだろう。

