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第四章「大人にできること」

標準家庭・標準家族―その(3)

離婚した家庭では、母親の男性関係に反発する子どももいる。中学1年生で同級生から20万円を超える額のお金を恐喝で巻き上げ、タクシーに乗って繁華街に遊びに出る、という男子生徒がいた。「生徒同士のできごとに警察を入れるべきではない。」という意見を強く持つ先輩教師もいたが、それはおかしい。これはもう犯罪なのだから、警察を入れざるを得ない。警察からの指導も教育なのだと、今でも思う。

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その子の家を訪ね、母親と何度か話し合う。男の子二人を養うために、昼も夜も働いている。しかし一方では、「付き合っている男性がいて、外で会うのは時間的にも経済的にももったいないから、同居するようになった。」という。2LDKくらいのアパートの一室に、その母親より10歳も若い男性が一緒に住んでいる。多感な中学生の男の子は、どう感じるのか。理屈でも感覚でも、子どもの心が受け容れることは難しいだろう。母親がその男性と別れ、男の子が大人になってからは、母と子は仲良くやっている。

きちんと言っておかねばならないが、離婚が悪いわけではない。母子家庭・父子家庭が良くない、というわけではない。見た目にはごくフツーに見える家庭でも、「機能不全家族」がたくさんある。両親がいながら、親の機能や役割を果たしていない家庭を「機能不全家庭」という。大人は、子どものことを第一に考えて、もっと上手に、しっかりした人生を子どもに見せ行動できないか、と願うのである。


コーヒーショップで本を読んでいたら、大根やネギの入った袋を持った男性が入ってきた。数日前に、小学校の研究発表会の受付をやっていた人だ。「これから子どもの夕食を作らなければならないんだけど、その前にちょっと一服と思ってね。」となんだか申し訳なさそうな様子で椅子に座る。父子家庭の父親である。子どもの面倒を見ながらPTAの役員をやってくれている。コーヒー一杯の休息ぐらい、申し訳なさそうにしないでよ、と言いたい。こんなすばらしい父親もいるのだ。

親一人子一人でもいい。継母・継父でもいい。かつての「標準」でない家庭が増える中、それぞれのスタイルでそれぞれの子どもへの関心を大切にし、いろいろな「家族」を、周囲も認め合う必要がある時代となっている。

中学校家庭科には、「家族と家庭生活」の領域がある。「自分の赤ちゃんのころの写真を持ってくるように」と指示を出し、その写真をスライドに写し出して「さぁ、これは誰でしょう?」などと問いかけながら、教室をドッと沸かせる授業をして満足している教師がいた。なんとも「平和な」単純思考の持ち主である。

「標準家族」に縛られてしまっていて、教師がその「標準」の形で育ったから、みんな写真は持っているはずだ、という思い込みの前提に立っている。「赤ちゃんのころの写真」が無い生徒がいたら、どうするつもりだったのか?そういう子どもが増えてきていることに、思いを至すことができないのだろう。実は私自身も、「赤ちゃんのころの写真」は一枚も無い。

「モンスターペアレント」などという言葉がマスコミに取り上げられ、一人歩きしてしまっている。(私はこの言葉が嫌いである。正当な意見を含んでいても、なんでもかんでもいっしょくたにして「モンスター」で片づけてしまう教師や親がいるからである。)

確かに「とんでもない親」「理不尽なことを言う親」は増殖しているが、前述の「赤ちゃんの写真」などという内容の授業に、猛然と抗議した親がいたとしたら、それはけっしてモンスターではなく、親として当然の発言である。「欠損家庭」という言葉もそうだ。現代において、そんな表現を教師がしたとしたら、親は抗議する権限を有するはずである。

多くの人は自分の育った環境を「フツー」と思っている。そうではない。「普通」や「標準」などないのである。大人はそのような前提で子どもを見たり接したりするべきと思う。

小学校1年生の時から養護施設で育った少年がいる。冬休み・春休み・夏休みには毎年我が家で生活していた子だ。その少年は見事に公立大学に合格し、一人で自活を始めた。アルバイトで貯めた80万円のみを自己資金として、あとはラーメン店のアルバイトと奨学金という名のローン=借金で生活している。学内のサークルにも所属して活動し、「フツー」の大学生活を楽しんでいる。普通とは何か、標準とは何か?「自分の環境が基準」と考えがちな大人の意識も転換されなければならない。

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