仏教とヒンドゥー教の悟りの違いは何でしょう?
明確に論理的に答えなさい。
(スピリチュアル、ワンネスはほぼ、
ヒンドゥーのワンネスの不二一元論と同じです)
ヨーガの先生は当然わかってるよね(•‿•)v
ヨーガクラスで、【仏陀の気付きの瞑想】
を教えてる先生は、
勿論、明確に論理的に知ってますよね。
まさか、知らないって言わないよね。
答えるには、両方の哲学の肝を
明確に知っている必要がありますが、、、。
実は、少しヨーガを学んで、マインドフルネスも学んで、、とやってると、必ずこの問に行き当たるんです。
きびしーーーい!
ヒンドゥー哲学と仏教哲学の違い
ヒンドゥー哲学と仏教哲学の違いは、
【私・自己】の扱いである。
ヒンドゥーの悟りは、梵我一如
ヒンドゥー教の場合は、
究極の自己=真我アートマンと言う、
全ての存在のはじまりであるTHE ONE
との合一を目指して修行をします。
アドヴァイタ・ヴェーダーンタの聖者シャンカラ(शङ्कर Śaṅkara)は、アートマンとブラフマンの完全な同一性を主張しました。シャンカラによれば、個別的なアートマンの存在は無知(अविद्या avidyā)による見かけ上のものであり、真の知識(विद्या vidyā)によってこの錯覚が取り除かれると、アートマンとブラフマンの本質的な同一性が顕現するとされます。
ヨーガ哲学の【私】と言う概念は、認識主体であり、プルシャ=真我と呼ばれます。プルシャ=真我は、永遠不滅の実在原理です。見ている目、それ自体てす。
プルシャ真我との合一は、唯我独尊=カイバリヤと呼ばれます。心を消滅させると、プラクリティと呼ばれる認識される全ての世界は消えて、宇宙主宰神=イシュヴァラ神と合一します。ヨーガの場合は、このイシュヴァラが、ザ、ワンです。
無限に広がる、この世界は、
不滅の一者パラブラフマンと言う、ワンからはじまる。それ故、ワンネスと言います。
この世の全てを作り出す究極の自己つまりTHE ONEに成るのがヒンドゥーの悟りである。
ヒンドゥー哲学は、この世を肯定する道である。
現代のスピリチュアルワンネスも、コレです!
ヒンドゥーの悟りは、
ワンネス 1〜∞です。
Hinduism is the enlightenment of oneness, the one!
vs.
Buddhism is the emptiness,
the enlightenment of zero!
仏教の悟りは、我が無い、ゼロの悟り
諸行無常、一切皆苦、諸法無我、涅槃寂静
仏教は、基本的に、検証出来ない宗教的アプリオリを認めません。ですので、決して証明出来ない、
宗教的定義の、アートマン、魂、の存在を認めません。
【有るなら、出して見せてみなさい。】
と言うわけです。
物理的世界のどこを探しても、心の世界のどこを探しても、アートマン、魂、我、は見つかりません。
ですので、仏教は、私が無いことを発見する為に、
観察瞑想、ヴィパッサナー瞑想をします。
それが、瞑想で発見できれば、第一段階の悟り、
予流果と言われています。
仏教の【私】と言う概念は、【無我】です。
大乗仏教と言うと必ず出てくる言葉は、空ですね~。
さて、どういう意味でしょうか?
大乗仏教で言う空とは、無ではないと言われます。
無とは、有と言う概念があって、
はじめて成立する概念です。相反する2つの概念が有ってはじめて其々の意味をなす、相対的な概念です。
空とは、有無を包摂する概念と言われます。
空>有無
大乗仏教では、私とは、名前だけつけられた中身の定まらない、中身が常に流転している状態、本質的に中身の空っぽの存在である。といいます。
私とは、空である。です。
しかし、これは大乗仏教のナーガルジュナの哲学に基づいた言葉であり、仏陀の言葉ではありません。
仏陀は、空とは、言わずに、諸行無常、諸法無我と言う言葉で、空に当たる概念を説明しました。
空という言葉を使わなかったのには、非常に重要な理由がありました。
諸法無我とは?→大乗仏教の空とは?
譬えるなら、台風の目の様に、台風がある時にだけ一時的 に生じているが、実体の無い、中身の空っぽのものです。この様に因縁に依って一時的に現れているものを因縁仮和合と言います。
仏教は、ヒンドゥー哲学の様に究極の存在、至高の一者になるのでは無く、存在と非存在、生と死、有る無しを超越することを目指します。
解脱前の行者は、この現象界に住んでいます。生と死、輪廻転生のある世界です。
解脱した者=阿羅漢は、全てを生み出す究極の存在と言える、唯一の神、不滅の一者をも超越して、1とゼロのない世界へ渡ってしまうのです。तथागत, tathāgataとは、 如く去れる者と言う意味です。大乗仏教の中観派では、それを空、シューニャ、ゼロとして表しました。★現象世界にあっては、ゼロであり、涅槃寂静の世界でもゼロです。
台風の目は、台風が激しく回転している時でも、空っぽの空です。何も無いからゼロです。
台風が消えると、目も消えて空になります。
ですので、涅槃寂静もゼロです。
空とは、迷いの現世でも、
空=ゼロ=シューニャですし、
悟りの世界も、空のゼロ=シューニャです。
仏陀、自身は、諸行無常、諸法無我、と言う言葉で、空と言う形而上の概念を使わないで、空を説いたのです。それは、弟子が、執着の対象を作らないようにと注意深く配慮されてのことでしたが、後世の仏弟子によって、哲学化、形而上学化してしまいました。
サティー・気付きの意識とは?
また、見ている自分は、見られる対象がある時だけ、生じています。熟睡時や、死後、見られる対象がなくなる時、自分は消えてしまいます。
見られる対象は、五蘊です。
五蘊とは、物質的世界と心の世界の全てです。
また、五蘊とは、心の五つの別々の流れです。
喩えるなら、
台風の目を取り巻く5層の雲です。
中心は、台風の目です。台風は、渦巻く雲が消えると、消えてしまいます。私とは、台風の目の様なもので、本来、空っぽの空ですね~。
だから、
空性涅槃であり、涅槃寂静も無我なのです。
5層雲の一番内側の識の内部は更に3層の渦があり、それが、阿頼耶識、末那識、表層意識、と言うイメージで捉えれば良いかもしれません。
あくまで喩えです。
大乗仏教の唯識派の八識は、上座部仏教は、
認めません。
唯識派は、輪廻の主体としてし真我の代替概念の阿頼耶識を認めた為、それ固定された我に執着することで解脱が出来ない。何故なら、仏陀、御本人がそう言ってサーンキャ学派のグルの元を去ったのですから、、。
五蘊無我とは、あなたの見ている世界の何処にも、あなたと言う見ている者は、居ないよ。と言う意味です。
見ている者が、見られる物の中にいる訳がないのです。
ですから、自分で自分を探して、取り出して、検証することは出来ないのです。
仏教は、この様な、証明も検証も出来ない【我】は、相手にしません。
検証出来ない物は、有るとも無いとも断言出来ないので、無視するのです。
しかし、見ている視線があることは、誰でも、知っていますね。見ている視線が無ければ、観察瞑想は、できません。
五蘊のなかの何処にも我は無いと発見する為に観察するのです。
五蘊と言われる、肉体、感受作用、想の概念機能、行の意志、識の知る機能は、全て観察が可能な認識対象です。
これらを観察する視線が、サティー気付きの意識です。
観察する視線、サティーを保つと、
主観という錯覚のメガネを外して客観的に、自分自身の心や、外からの情報を見ることが出来ます。
我々の殆どの苦しみは、主観によって生じます。
主観を外して、物事を観察できれば、主観の作る苦しみを避けることが出来るのです。
観察する視線、サティーで、見ることを正見と言います。
気付きの意識・サティーは、凡夫を悟りの彼岸に連れて行く渡し船です。
仏教哲学は、ヒンドゥー教のワンネスに対して、
空、スンニャ、ゼロの哲学である。
仏教は、この世を苦しみであるとして否定する。
【我】とは、無明であり、六道輪廻転生と、
苦しみの世界を生み出す第一原因であるとする。
その原因とは、執着と渇愛である。
それによって、心は、三毒で回転して、
人生に苦しみをもたらす。
仏教は、この世を苦しみの世界であるとして、
否定して、解脱をめざす道である。
この世の苦しみの第一原因となっているのが
【我】である。
そして、 【我】の永遠不滅性を完全に否定する。
【我】とは、感覚に付随して起こる所有意識であり、
生きている間中、不斷に生じるので、 【我】があるという錯覚が生じる。これは人類全てに起こる錯覚であるとする。
錯覚として生じた 【我】を実体と考えるのが、
ヒンドゥー教である。
この錯覚を破る為の瞑想が、観察する瞑想、
仏陀の瞑想、ヴィパッサナー瞑想である。
サーンキャ学派への反論
サーンキャ学派では、認識主体を、永遠不滅の実体、真我プルシャとするが、
認識主体は、客体と共になければ、存在し得ない。
昼は夜が無ければ成立しないように、
生は、死が無ければ、成立しないように、
主体は客体が無ければ成立しない。
故に、真我プルシャは、相対的であり、無常であり
2つの極性により作られたものである。
作られたものである以上、永遠不滅ではあり得ない。
認識主体が作る【我】は、客体が無くなった、
熟睡時には、消える。無常である。
★ヨーガ哲学では、無を認識している★
とするが、これは詭弁である。
熟睡時、客体が全て無くなった時には、
認識が成立しないのだから、無は認識できない
のである。
『認識主体プルシャは、その存在を証明出来んのだから、何とでも、妄想して言えるわけだ!』
【我】とは、究極の自己、プルシャ、アートマンであっても、作られたものであり、属性がある。
ため、永遠不滅の存在ではないのである。
究極の自己の悟りサマディーを得て、
究極の無色界の最高天界の非想非非想天に
登っても、 【我】がある限り、
究極の悟り涅槃寂静ニルヴァーナではない。
それは、最高のワンネスの悟りである。
それに対して、涅槃寂静ニルヴァーナは、
【我】を捨てた時に現れるゼロ、空性涅槃である。
仏教の悟りは、
空性涅槃【0】の悟り
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卍何故、仏陀は、アートマンを否定して、最後にヒンドゥー教のグルの元を後にしたのか?
ゴウタマ菩薩(後の仏陀)は出家直後に道を求めて、まず、グル、アーラーラ・カーラーマのもとを訪れ、彼から空無辺処(無所有処とも)の悟りを教授されました。すると、即座にそのサマディー(三昧)を達成しました。、
それはいまだ真の悟りを得る道ではないと感じ、次に彼は、グル、ウッダカ・ラーマプッタのもとを訪れたました。そこで、ヨーガの最高の境地の非想非非想処の悟り、サマディー(三昧)を達成しました。グル、ウッダカ・ラーマプッタは、ゴウタマ菩薩(後の仏陀)に後継者になる様に言いました。しかし、ゴウタマ菩薩(後の仏陀)は、それを断って言いました。
【アートマンと言う、属性のあるもの、作られたものに至っても、その業が尽きれば、必ず、また、輪廻に引き戻される。この世を肯定する道を、この世を否定する者は、これ以上歩む理由が無い。】
詳しくは、ブッダチャリタをご覧ください。
そして、ウッダカ・ラーマプッタの元を去りました。
その後、 ゴウタマ菩薩(後の仏陀)は、解脱を求めて苦行の道に入りました。・・・続く
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良くある一般的な質問
Q:アートマン=魂=私が、無いならば、
誰が涅槃寂静に至るのか?
A:私とは、二元性の認識の中にのみ生じる意識です。存在と非存在、生と死、有ると無い、
精神原理と物質原理、陰と陽、が二元性の世界です。
私とは、他があるから成立する、二元性の認識です。
★悟り解脱とは、二元性の認識を超越することですので、悟りに至ると二元性の私と他人の概念は成り立ちません。 そういう意味でも、涅槃寂静も無我なのです。そこには、凡夫の二元性の意識の【私】は無いのです。私と他人の境界線が成立しない世界が、涅槃寂静の悟りです。
Q:アートマン=魂が、無いならば、
誰が、輪廻転生するのか?
業報は誰が受けるのか?
A:『永遠不滅の魂』の様な固定され動かない不滅の玉の様なものは、ありませんが、生命を作り出す、
無常の心の流れ、五執蘊があります。
ナーガセーナ長老は、変化するものであっても、同一の基体に依拠するものとして1つに統合されていることを指摘する。
無常の心の流れ、五執蘊とは、
喩えると、川のようなものと言えます。
大地の上の川では無いので、川岸はありません。
ジェットストリームに喩えても良いかもしれません。
川には、流れと言う姿はありますが、流れの中身は、常に移り変わり、決して固定されません。
この心の流れが、輪廻を作り出します。
日本の100年前の東京の写真と、現在の東京の写真を
見た場合、全く別の国の様に思えるほど違います。
しかし、日本の歴史の流れによってその変化は作られたのであり、同じ国です。
人間の場合も同じですね。心の流れが、今の私とは全く違う私を未来に生み出します。それは、流れは同じだが、中身はその都度違うから、現れる私は変わるのです。小学生の時の私は今はいませんが、その私が変化して今の私がいるのです。
ある会社の社長が、会社の合宿所をローンで購入しました。その後、別の人が、社長になりました。この社長は、合宿所のローンの支払を拒否しました。
理由は、私が購入したものではないのだから、私には支払い義務は無い。というものでした。
しかし、裁判では、支払を命じられました。
輪廻を作り出す心の流れ、五執蘊は、この喩えの会社に当たります。前の社長は前世の【私】であり、新しい社長は、今世の【私】です。
このように、悪業、善業の結果は、アートマン、魂の様な輪廻する玉が無くても、心の流れによって、
受ける者が生じるのです。
永遠不変不滅の魂が、有るなら現れる私は何故変わるのでしょうか。心も世界も無常だから変化出来るのです。
表層意識の【私】 とは、永遠不滅の実体ではなく、
熟睡時には、消失し、死と共に消失します。
海の波のような物であり、現れると消えて行きます。
私とは、生命を守る為に一時的に生命の機能として、現れます。
熟睡時には、六根が消失するのと同様に
表層意識の【私】も消失します。
しかし、【私】を作り出している意識の流れは、
継続します。
蜜柑の木には、去年と同様、今年も実がなります。
【私】とは、実の様な物で、熟睡時には、実は落ちて木から無くなります。
【私】は、次の日には、起きる時の夢の中で現れ、
そのまま起きると【私】は、継続されます。
蜜柑の幹を心の流れに喩える事が出来るわけです。
また、【私】の熟睡時の消失は、短い時間の消失ですが、死後の【私】に消失は、長い時間の消失です。
しかし、どちらの場合にも【私】を生じさせているのは、幹に例えられる、【心の流れ】です。
最も良い喩えは、
【ミリンダ王の問い】と言う経典をお読みください。
【心の流れ】は、
アートマン、魂と言う輪廻の主体を持ちません。
カルマの種とは、未顕現の意志の雲が、心の中に台風の様に渦巻いている状態です。
コーザル体の概念の様に、固定された壺が有って其処に未顕現のカルマデータがあるのでは無いのです。
阿頼耶識は、コーザル体の概念とほぼ同じです。
これを想定することは、アートマンとは違う、
輪廻の主体となる【我】を認めた事になるのです。
それ故、唯識派は、上座部仏教とは別の流派です
アートマン、魂と誤解されるものは、
台風の目の様な物で、カルマの渦巻きが消えれば、消えてしまいます。
それ故、仏教では【諸法無我】と言います。
法とは、心の中の存在、つまり、概念の事です。
心とは、台風のような、銀河のようなもので、
回転しているとされます。
中心には、台風の目(空)があり、
識、行(意志)、想、受、色(肉体)順番に
流れが回っています。