両手を打てば音がする。

ならば片手ではどんな音がするか? 【隻手の声】 


最もわかりやすい、無常の喩え

2つのものが、当たることで、音が生まれるが、

それは、鳴った後消えて無くなる。


この世の全ては、

音のように、関係性で成り立っているが、実体はない。

両手の間にある関係が、片手では、成り立たない。

音も出ない。


音とは、関係性で成り立っているが、実態がない。

モノの良い実例である。


この世での全ての存在は、

この世という相対的な世界、

無常なる世界の中で、

一時的に成り立っているものである。



音のように、2つのものが打つかって、現れ、

消えていく、実体のないものである。


人間も、男女がぶっかって、

生まれ、老い、病み、死ぬ。


はじめから、生まれも死にもしない、

処に、すべての本質がある。

それを空性と大乗仏教ではいう。



片手では、成り立たない。

音も出ない。



白隠禅師は、片手を

相対的ではない世界=悟りの世界に喩えて、

隻手の声と言ったである。



同じことを、

ヨーガでは、アナハタチャクラについて、

言っている。


アナハタチャクラの音について、

【2つのものが、触れる事なく、出る音】

と言われるが、

ヨーガでは、そこに真理、悟りがあると、

示唆しているのである。





 五蘊は無常であるから、存在という現象は、

仮に、生じる。


個我も、そのように仮に生じる。

慈悲を知らなければ、貪瞋癡で動くことが、個我にとっての【あるがまま】である。 


仮に存在し、実体のない個我と生体を守ることの為に一生懸命戦うのが、生存本能=貪瞋癡である。『言われたら言返す』のが、貪瞋癡の【あるがまま】の姿。


 これ、渇愛と執着、に依って、心を貪瞋癡で動かすと、ただ、四苦八苦が生まれるのみ。 


 そこで仏陀は、渇愛と執着における心の方向ではなく、新しい心の回転する方向を示した。

これが慈経であり、慈悲の瞑想である。 


 しかし、慈悲、母が子を想う様な愛しみであっても、相対的現象世界=無常な五蘊があるので、成立する。


 利他の愛や慈悲であっても、ひたすら自己主張する個我であっても、そうである。 


 それらは【隻手の声】にあらず。 


片手は、打とうとしても、打てない。 


これは、相対的な現象世界では、矛盾する言葉であるが、それは、勝義諦、つまり、悟りの世界という非相対的な世界を【片手で出る音=隻手の声】で象徴的に言っているのである。 


 世俗諦、相対的な現象世界、諸行無常の六道輪廻の世界、娑婆世界では、慈悲でも、自我(エゴ)でも相対的なもの、無常である。


 感情、思考、意思を使用して認識している限り、それは自我によって成されるのである。それが、慈悲でも、自我(エゴ)でもである。


 エゴを停止させるには、瞑想して、三昧に入るしかない。思考によって仮の私=自我が、生じるのだから、思考が静まると、仮の私は消える。


しかし、それを体験している自己は消えない。


仏教では、この★自己意識★がある限り、自他の区別があるのだから、【隻手の声】では無いという。


 個我が渇愛と執着のみで、動く我々凡夫は、何時でも、自我の罠=貪瞋癡にハマってもがく猿である。


 芸術も間違いなく、自我に依って成されるのである。


 芸術も大きく分けて、2つの方向性がある。


 一つは、自我の個人的表現のみを重視する方向。


 もう一つは、

 芸術を通して、自我を宇宙と調和させて表現していく方向。同じ楽曲を演奏するにしろ、


同じモチーフを描くにしろ、心一つでどちらにもなる。アーティストでなくても、人は誰でも、心のキャンバスに絵を描いている。 


渇愛と執着という絵筆で貪瞋癡を描くと、四苦八苦が現れる。心のキャンバスにどの様な思いを描くのか、慈悲の瞑想は、その方法を示している。 


 現象世界にあって、自我の罠から脱出する方法を教えるのが、仏教の慈悲の瞑想である。






クンジュビハアリの楽曲