DJ レインボー RYO こと、かたりましょうのたかしまりょうです。
あい〜んを語らせたら志村けんさん、
愛〜んだよう〜を語らせたらたかしまりょう(研鑽中)、
というわけで、
今日も(って、いつ以来だ?)、
たかしまりょうの愛についてかたりましょう、
スタートです。
愛は曖昧、I・My・Me。
愛とは?の答えも人の数だけあると思いますが、
今日もまた1つ、プラスしてみましょう。
愛とは、認めること。
そのままありのままを認める。
どのママもアリのママも認める。
それが愛。
認めることで、存在が生まれる。
存在が生まれると、有りになる。
それが存在。
有りのままは存在のまま。
有りのママは存在の母。
一世を風靡した歌がありましたね。
アリの〜ママの〜♪
昔、こんな歌もありましたね。
これもあり♪
あれもあり♪
たぶんあり♪
きっとあり♪
『ありの承認歌』という歌でしたかね〜?(承認か!)
あれもあり、これもあり、と認めることが、
やっぱり愛なんでしょうね。
ちなみに、
小林正観さんはイースター島に行ったとき、
ずっと歌っていたそうです。
これモアイ♪
あれモアイ♪
たぶんモアイ♪
きっとモアイ♪
イースター島はモアイアイランドですが、
モアイのあふれる愛ランドだったんですねー。
モアイは島のあちこちに千体以上あるんですが、
実はさっきの歌は海の中のモアイに向かって歌うのが正式だそうです。
『モアイの水中か!』
ちなみに、
『アリのスイカ中』という歌もあって、こんな感じです。
これあまい♪
アリあまい♪
たぶんあまい♪
きっとあまい♪
愛は曖昧、あまい見ー。
アリはスイカで甘い実ー。
愛もあまいものなんでしょうね。
これもあり♪
とあまく認めてやってください(笑)。
愛とは認めることというのは、
そのままでい〜んだよう〜♪と、
すべてを受け入れ、承認する(あたたかく包む、認めて許す)ことではあるんですが、
もっと根源的にはこうなります。
認めるは、見留める。
認める=見る+留める。
見て、心に留める。
それが愛。
見るものと見られるもの、
私とあれこれ、
私とあなた、
すべてがセット。
そこに、存在が生まれます。
存在が存在として存在できます。
正確に言うと、
存在が存在として存在できるのは、
見るものが見られるものを見て、心に留めた(意識した)とき。
見られるものが見られて、心に留められた(意識された)とき。
見て、意識するとき、
見るものは認識して、
見られて、意識されるとき、
見られるものは認識される。
つまり、認識(認める)が存在を生み出し、有りを生むというわけです。
だから、愛とは認めることなんですね〜。
ちょっと小難しい話になっちゃいましたが、
これが意識の一式です(結構いい式、かな〜?)。
見ても意識しなければ、認識できません。
見ても心に留めなければ、ない(存在しない)と同じです。
「愛の反対(語)は、無関心」とよく言われるのも、
まさにそのこと。
無関心とは心に留めないということですから、
存在しないと同じことになってしまいます。
存在(を生み出すもの)が愛ですから、
存在しない(させない)ものは愛の反対ということですね。
これもない♪
あれもない♪
たぶんない♪
きっとない♪
これはあたたかい歌とは言えないので、タイトルとしては、
『ないの冷し中華』かなー。
正観さんのお話の中に、「2つの死」という話があります。
人には2つの死がある。
1つは「肉体の死」、もう1つは「存在の死」。
誰の話題にも思い出の中にも出なくなったとき、
人は存在の死を迎える。
肉体の死を迎えても、誰かの話題や思い出の中に出てくる間は、
その人は存在の死は迎えない。
という話です。
別の言い方をすると、こうなります。
誰かの話題や思い出の中に出てくる(忘れられていない)間は、
その人は存在として生きている。
つまり、その人のことを見て心に留める人が1人でもいれば、
その人は存在できるということです。
認める=見留める=見て心に留める=見て意識する=認識=存在=愛。
長い式(名が意識?)ですが、
長い文章(名がいい文章?)になりましたが、
歌でも歌いながら認めてやってください。
これ長い♪
あれ長い♪
たぶん名がいい♪
きっと名がいい♪
ふ〜。
これでやっと終わり。
かと思いきや、
終わりじゃないのよ涙は♪母〜ん♪
「続続・愛とは?」に続々とつづく・・・(ゾクゾクしますね〜)