渡辺直美が「ブタ」を演じることに関する考察 | 戦略PRプロデューサー・片岡英彦【公式】ブログ

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日本人のひとつの特徴として「和」(共感)を重視する。言い換えれば、絶対的「善」(カント的、一神教的)を追求しない。時と場合(同調圧力、その時の空気、他者との関係性)によって、個人の「意見」(振る舞い、感情)は変わる。
 
分かりやすい例は・・・
 
戦前の「鬼畜米英」→戦中の「原爆・空襲・沖縄」→戦後の「ギブ・ミー・チョコレート」
 
「お宮参り」「初詣」→「ウェディングドレス」→「御霊前・ご仏前」
 
世代を跨いで時代とともに意識が変化するのではない。「同じ人」の感情が「時と場合」によって“柔軟“に変わる。
 
私自身は「絶対的な価値感」を持たない文化(空気に従う)と国民性は嫌いではない。日本人のルーツとしての「八百万神」なども絡んでくるのだろう。一方で、「日本人の言うことは信用できない」と海外からは思われることも出てくるのもわからなくもない。日本人の言動には、海外の人が客観的に理解できるような、「思考の基準」があるようでないのだ。
 
こうして自分自身が周囲に嫌われないように、浮かないように、「利己的でありながら、周囲と強調していく」のが日本文化のひとつの大きな特徴なのだと思う。
 
「(この人が言うのだから)まあいいか」「(あの人がするのは)許せない」「(みんながOKみたいだから)私もOK」←誰の心にも(もちろん私の中にも)こうした「利己」と「強調」のバランス感覚はある。
 
今から9年前(2012年)には事実として、身体の大きな女性(渡辺直美)はブタの役を演じていた。
 
 
他の芸人とともに「ピッグ☆レディ」というブタの役を演じパフォーマンスを繰り広げている。
 
この地上波コンテンツへの批判は、私の知る限り当時はなかった。しかし、2021年3月には、LINEでの非公開のブレストで60代の代理店関係者が、同じタレントがブタの役を演じるアイデアが元で辞任となる。
 
この前者(ピッグ☆レディ)と後者(五輪のブレスト)の間の9年間に何があったのか?
 
①日本人のにとっての「ブタ」のイメージが変化した → これはさすがにないだろう(想像)。
 
②「渡辺直美」の社会的ステイタスが変わった →当時は注目されていなかった。今は日本を代表するタレントである。だから、社会への(世界への)影響力が当時と異なる。ゆえに、ブタの役はふさわしくない。侮辱にあたる。 → これは多少はあるんじゃないだろうか。渡辺直美でなく「女性エキストラ」の役作りの話しだったら、「LINEでのブレスト」がここまで拡散することはなかった気がする。(想像)
 
③ ルッキズムに対する社会意識の変化 → これは大きいだろう(想像)。「身体の大きいタレントに“ブタ“の役を演じさせるのは侮辱だ。」という意識が今回の批判としては最も大きかった印象だ。
 
ただし、もしも本質が「ルッキズム」にあるのであれば、伊集院光さん、松村邦洋さん、石橋英彦さん、上島竜兵さん、内山信二さんなど、渡辺直美と同様に「身体が大きい」と一般的に思われているタレントが、コンテンツないで「ブタ」の役を演じることも全てNGとなる。そうでなければ、逆に「男女差別」になる。
 
さらに
 
「身体の大きい人」が「ブタ」を演じる=NG
 
であれば、
 
「身体の細い人」が「白鳥」を演じる→ NG
 
というロジックになる。あるいは後者がNGでないんもであれば、
 
「身体が大きい」→ブタ 
 
「身体が細い」→白鳥
 
この前者はNGで後者はOKである理由として、ブタ及び身体が大きいことはネガティブでな印象であるから。白鳥及び身体が細いことはネガティブではないから。という理由となる。「ポジ・ネガ」判断は「空気」によよるものなのだろうか?
 
「小悪魔的女優」→ キツネ
 
これは「ポジ・ネガ」の判断としてどうなるのだろう?身体的とは言えない(表情・仕草・声)であれば、ルッキズムとは言えず問題ないのだろうか?
 
④ ジェンダー問題 → これはメインではないが多少の影響はあったと思う。(想像)「女性にブタの役をやらすのはヒドい」という意識は少なからず感じられた。この場合、ルッキズムは直接関係ないと仮定するならば、男性タレント(身体が大きいとされる)で有れば「ブタ」を演じても問題ないと思われる。
 
一方で、「男性タレントには許されて、女性タレントは許されない」ということはタレントの表現の幅を狭める。別の意味で女性タレントに不利になる(差別)とも考えられる。「おいしい役」だったとしても「女性」であるという理由で演じられないのだとしたら疑問が残る。
 
④ 「東京五輪の開会式の演出」としてありえない → これも影響はあったの思う(想像)であれな、サムネの過去のテレビ番組は現在でもOKということになる。「子供番組として、普通に可愛い」「日本人向けで有ればむしろイケてる」でも「五輪の開会式という世界的な舞台ではあり得ない」← 日本人独特の「ウチとソト」の概念に近い。「内輪ネタ」としてはありだけど「客人」の前ではやるなという結論になる。
 
⑤ 電通のやることは許せない→ これは影響が大きかったと思う(想像)。多くの日本人にとって「電通」というのは「何をやっているかわからないけど、権力を持ってる腹黒い企業」というイメージがあるのだろう。このイメージは「日本の広告業界をリードしてきたエリート企業」という「ポジ」なイメージと表裏一体のものだ。さらに近年の「ブラックな労働環境」「コロナ禍なのに金儲けする」というイメージが加わって、世間的な印象としてはかなり「アウェー」な状態だ。
 
仮に、このLINEでの発言が他の代理店関係者だったり、フリーランスのクリエーターだったらどうだっただろうか。私はあまり大きな問題にはならなかったと思う(想像)。もっとも、文春が取り上げることもなかったのではないか。
 
⑥ 発言者が60代男性だった。→ この影響も少なからずある。(想像)逆に同じ電通の若い女性クリエーターの発言だったらどいうだろうか?「タラレバ」の話をしてもしょうがないが、また文脈は変わってきたのだろう。「森元首相の発言」から続く「世代間対立」という問題となる。
 
コミュニケーションの問題としては、身体の大きい女性タレントに「ブタ」の役を演じさせることは、避けたほうがいい。これは当然だ。これはビジネス上の常識だと思っている。一方で、今、私が「気持ち悪い」と思うのは、クリエイティブ(表現)の問題として、そこまで(非公開でのブレスト上の発言で辞任しなくてはならない)いけないことなのであれば、これは「絶対悪」になる。つまり「ナチスの鉤十字への敬礼」や「国旗の損壊」に類する「絶対にしてはならない」表現となる。
 
であれば、日本人特有の「時と場合による」ではなく、「検討の余地なく、人の表現活動としてブレストで発言さえしてはいけない」=「絶対悪」として、誰もが理解しておく必要がある。←ここを有耶無耶にするとクリエーターの自由な表現活動が守られないと思うのです。
 
仮に「絶対的善悪(価値)」の問題ではなく、あくまでその時々の「空気」の問題なのであれば、「時と場合」によっては「ブタ」の演出もOKとなる。
 
別の例で言うと、
 
盲目的愛 → これは「視力」の表現ではないので差別的でない。「絶対悪」ではないのでは?(表現の自由?)
 
盲目のピアニスト →これは「視力」に関する表現なので、いかがなものか?(検討の余地あり?)
 
盲目の人の参加お断り →これは差別(侮辱)発言にあたる。(絶対悪)
 
例えが極端かもしれないですが、不要な「言葉狩り」を防ぐためにも、こういう丁寧な議論は必要だと思うのです。
 
<結論>
 
2012年の時点では、渡辺直美(身体が大きいとされる)は地上波で「ブタ」の役を演じていた。(事実)
 
2021年の時点では「スタッフ同士のLINE上でのブレストであっても、発言自体が許されるものではない」とされている。(仮説)
 
とすると、この間にどういう社会変化があったのか?
表現上の(議論の余地さえなき)「絶対悪」の表現にこの9年間でなったのか?
 
あるいは、
 
本件に特有の個別の理由(組織内部の軋轢など)により、大きな問題となっているのか?
 
クリエーターの表現に関する全般的な話ではなく、あくまで個別具体的なアイデアへの批判(当事者の属人性など)なのか?
 
タレントを含む、今後のクリエティブ領域に広く関わってくるテーマなので、少し混乱が落ち着いたら、冷静な議論をしたほうが良いと思いました。