朝ドラ『ばけばけ』の件ですが、、、
熊本編。せっかく舞台が新天地に移ったというのに、一週間近くも「トーストを焼く金網(焼き網)がなくなった!」と大騒ぎする展開でした。私は途中から海外に出てしまったので、しばらく視聴ができなかったのですが、「なぜ今、網一枚でこんなに時間をかけるの?」と首をかしげる視聴者を多くSNSなどで垣間見ておりました。
ただ、私は思うのです。この一見「ドラマの本筋に関係なさそうな小騒動」こそが、実はこのドラマの核心だったのではないか。
■ 「網」が教えた、日本人の不思議な優しさ
ヘブン先生が金網探しを通じて発見したのは、西洋的な「正義」や「真実」とは違う、日本人に特有の「空気」でした。それは、疑われた女中(クマ)を救うために、周囲がこぞって「優しい嘘」をついて場を収めようとしたことです。
ヘブンはそこで初めて、理屈では割り切れない「情」に触れます。この「網」の騒動がなければ、彼は日本を単なる「観察対象」として客観的に俯瞰するだけだったかもしれません。しかし、この騒動で自分が巻き込まれてみて初めて、彼は「この矛盾に満ちた優しい人々の中に、自分も混じって生きたい」と心から願ったような気がするのです。
■ 改名という名の、静かな抹消
ですが、その日本社会に「混じりたい」という願いの前に、厳しい現実が立ちはだかります。それは、親友の錦織によるあの鋭い警告(焚き付け)です。
「日本人になるということは、外国人としてのアイデンティティを捨てることだ」
のんびり・まったりだった日常のコメディが一転しました。「個人の尊厳」を問う重厚なテーマへと踏み込みます。このあたりは『虎に翼』の「憲法14条」ともつながります。さらに、かつて『マッサン』のエリーが、日本に帰化したことで故郷スコットランドとの繋がりを断たれ、戦時下で「どちらの国の人でもない」という孤独な淵に立たされたように、名前や国籍を変えることは、魂の一部を削り取る「代償」にほかなりません。
「なぜ、愛する人と共に生きたい」という思いを貫くために、自分の一部を殺さなければならないのか。この問いは、令和になった現在の私たちも直面している夫婦別姓や国際結婚の課題とも繋がっています。このあたりの現代性の取り込みが、朝ドラチームは本当に上手いです。
■ 守りたかったのは、権利ではなく「朝の匂い」
結局、ヘブンは錦織が指摘するようなリスクを覚悟の上で、「小泉八雲」になる道を選びました。これはなぜか?
脚本家が「金網」という道具にこだわった理由が、ここにあるんじゃないかと思います。彼が自分のアイデンティティを削ってまで守りたかったのは、「戸籍上の権利」といった記号的なものではない。
彼が欲しかったのは、朝の食卓で金網から漂うトーストの匂いであり、女中のクマさんと毎日交わす他愛もない会話であり、何より、妻であるトキちゃんと一緒に「笑い、泣き、歩む」という「ささやかな日常」そのものだったのでしょう。
自分の名前を捨てて新しい姓を名乗る。
彼にとってそれは権利や自由の「喪失」ではなく、愛する人と普通に生きるための「パスポート」を手に入れることだったのかもしれません。
これから最終回に向けて描かれるであろう「怪談」の誕生ストーリーには、こういった二人の血の通った決断が垣間見えるのではないかと思います。130年も前に彼らが守り抜こうとした「当たり前の毎日」の大切さが、世知辛い毎日を送る令和に生きる私たちの心にも刺さる理由かもしれません。
テレビを見ていると、不思議なことに気づく。 お笑いの世界では、誰かの言葉や表現を真似しても、むしろ笑いになることがある。
例えば、明石家さんまがトークの途中で突然「どんだけ〜」と叫んでも、観客は笑うだろう。 モノマネ芸人が歌手の声やしぐさをそっくりに再現して歌うのも、立派な芸として成立している。
どちらも、誰かの表現を借りているという意味ではコピーである。 それでも問題にならないのはなぜだろうか。
理由は、そこに新しい意味が生まれているからである。
モノマネは単なる再現ではない。 観客は「本人ではないのに似ている」というズレを楽しんでいる。
つまり意味は元の表現から生まれるのではなく、 元の表現と現在の状況のあいだのズレから生まれる。
同じ言葉でも、誰が言うか、どこで言うかによって意味は変わる。 モノマネやパロディが成立するのは、その文脈の差が新しい意味を生むからである。
コピーが許されるのは、コピーそのものではなく、 コピーによって新しい意味が生まれているときだ。
では、私が日々関わっている企画の現場ではどうだろうか。
企画とは、ある状況のために体験を設計する仕事である。 そこには必ず「その場にいる人」がいる。
もし前年と同じ内容をそのまま繰り返したらどうなるだろう。 新しい意味は生まれない。 ただ「去年と同じこと」を再現しているだけになる。
モノマネが成立するのは、元の表現と現在の状況のズレが新しい意味を生むからだ。 前年と同じ企画をそのまま繰り返しても、そこにズレは生まれない。 だから、それは企画ではない。
型は共有できる。 しかし作品は共有できない。
形式や手法を参考にすること自体は問題ではない。 問題になるのは、そこから新しい意味が生まれないときだ。
企画とは、目の前の人のために考えるものだからである。
形式は借りられる。だが、意味は借りられない。
りくりゅうの演技を観た。とにかく泣けてきた。
ジブリの物語には、"静かな決意"が流れている。登場人物たちは「世界の大きさ」に怯えながらも、最後は「誰かを信じる」ことで未来へ一歩を踏み出す。その心の揺らぎと覚悟が入り混じる瞬間が、りくが氷上を跳ぶときの、あの何とも言えない表情と重なった。
恐怖は消えない。恐怖を抱えたまま、飛ぶ。
はるか昔、人生のどこかで自分が経験したはずの感覚を思い出す。「誰かに預けた」身の重さ。母親の抱っこ。父親の高い高い。りゅうがりくを受け止める動作には、ジブリの男性キャラクターが持つ"静かな強さ"が重なる。彼は声を荒げない。思いや誓いを語らない。ただ相手の未来を支えるために、そこに立っている。
「支える」とは、ただ相手を「守る」ことではない。相手が自由に飛べるように、手を差し出すことだ。彼は身体でそれを示している。
ジブリの物語では、何も奇跡は起きない。描かれるのは「関係の継続」だ。この「信頼」というものは簡単には完成しないし、永遠に安定することもない。毎日揺らぎ、毎日作り直す。これが繰り返される。実は、ひどく儚いものなのだ。
りくりゅうの演技に私が胸を打たれたのは、彼らがその不安定さを一切隠さず、その不安定さの上に堂々と立っているからだろう。二人の間に流れているのは、技巧を凝らしたスケーティング技術やメダルのために人生を賭けた悲壮感ではなく、彼らが積み重ねてきた時間の密度だからだ。
この二人の一瞬の輝きには、偶然も奇跡もない。あるのは、二人がここに至るまで選び続けてきた必然だけが、ただ積み重なっている。