2025年の芸能界は、相変わらずスキャンダルの嵐だ。女優の私生活が週刊誌やネットで取り沙汰され、彼女たちのイメージが一夜にして変わってしまう。そんな報道を見るたび、日本の映画やテレビが女優に求める「清純さ」について考えさせられる。
なぜ女優は不倫を避けなければならないのか?
答えは、彼女たちのキャリアを支える観客の信頼と、映像文化との独特な構造にあるのだと思う。日本の映画やテレビは、清純派女優の“輝き”で彩られてきた。だが、不倫というスキャンダルは、その“輝き”を一瞬で曇らせてしまう。過去の女優たちの物語から、彼女たちが背負う“現実”を考えてみたい。
清純派のイメージとスキャンダルの代償
1960年代、若尾文子は清純さと妖艶さを兼ね備えた銀幕の大スターだった。だが、1967年に既婚の映画監督との関係が報じられると、清純なイメージに大きく傷ついた。主演のオファーは減り、70年代以降は脇役や舞台での活動が増えた。それでも、彼女の才能は完全には色褪せず、晩年も一定の評価を得ていた。不倫の報道は確かにキャリアに影を落としたが、彼女を完全に葬り去ることにはならなかった。
佐久間良子も似た道をたどった。国民的ヒロインとして愛されていたが、1976年の離婚騒動と不倫の噂で清純なイメージは揺らいだ。テレビドラマの主演は減り、80年代以降は脇役が中心となった。スキャンダルは彼女のキャリアに大きな影響を与えたが、芸能界からの完全な引退には至らなかった。
一方で、スキャンダルを避け、長く愛された女優たちもいる。
吉永小百合は今でも“清純派”の代名詞だ。若手時代は人気さ故のハードなスケジュールと衆人環視下にありながらも、私生活をメディアから徹底的に守り抜いた。晩年には反核運動などの社会活動にも力を入れ、特に団塊世代には「サユリスト」と呼ばれる熱狂的ファンを生んだ。倍賞千恵子も『男はつらいよ』の妹役として国民に愛され続けた中、家族のトラブルがあっても誠実な姿勢を崩さなかった。岩下志麻は小津安二郎作品で知的な魅力を発揮した。篠田正浩との結婚生活を送りながらも女優活動を優先した。酒井和歌子、浅丘ルリ子、松坂慶子、多岐川裕美もまた、プロ意識と節度ある生き方で長年に渡る“ノースキャンダル”のキャリアを築いている。
女優に課せられる「純潔」の呪縛
日本の映像文化では、女優と男性俳優に求められるものが大きく異なる。女優の役柄は「母」「妻」「娘」など、“純潔性”や“献身”を表現するケースが現在においても多い。不倫はこれらの役柄と真っ向から矛盾し、イメージを壊す。一方、男性俳優は「悪党」や「浮気者」の“アウトロー”な役でも主役を張り、むしろ「男らしさ」として許容されることがある。この非対称性は、女優にとって不倫が特に大きな打撃となる理由なのだと思っている。
また、女優は単なる演技者ではない。女性視聴者にとっての「憧れの対象」でもある。彼女たちの髪型や話し方など一挙手一投足が流行を生む。彼女らのライフスタイルが憧れとなり理想とされる。不倫は「家庭を脅かす存在」を連想させる。憧れの価値を損なう。これとは対照的に、男性俳優の不倫は「ダメンズキャラ」として笑いものになることも多く、キャリアへの影響は軽い。これは視聴者の消費構造の違いに根ざしているからだと私は思う。
例えば、「清純派」というカテゴリーは、女優のキャリアを規定する。キャスティングからCM契約、ファン層の構築まで、全ての面で清純なイメージが基盤となる。(アイドルグループの「恋愛禁止ルール」なも“根”はここにつながる)まして、不倫はこの枠組みを一瞬で崩し、てしまう。そして、代替イメージの再構築は実に難しい。
朝ドラと大河:理想の女性像の重圧
NHKの朝ドラや大河ドラマは、単なるエンターテイメントを超えた存在だ。朝ドラは「純粋な心で夢を追う少女」を、大河ドラマは「歴史に翻弄されつつ誠実さを貫く女性」を描き、日本社会の“理想の女性像”を提示する。これらの番組に不倫イメージの女優を起用することは、番組の文化的役割と大きく矛盾してしまう。
朝ドラは家族で視聴される番組でもある。親子で朝の食卓を囲みながら見ることを前提に作られている。不倫イメージの女優は親が子どもに説明しにくい状況を生む。このため、過去60年の朝ドラヒロインに、不倫スキャンダル後の主演例は皆無である。これはNHKのイメージ重視の方針を反映しているものと考える。
一方、大河ドラマでは、濃姫や愛加那のような歴史上の「貞淑な妻」を演じる際、女優のプライベートイメージとの整合性が求められる。不倫のイメージは、視聴者の歴史認識と矛盾を生み、キャスティングの信頼性を損なうものと想像される。
CMとブランド価値(不倫の企業イメージへの影響)
不倫スキャンダルは、女優のCM契約に即座に大打撃を与える。女優は「等身大の理想像」として起用されており、特に、化粧品や家電、食品などのイメージと一体化しているからだ。不倫はこの“憧れ”の価値を一瞬にして壊してしまう。だから、家族向け商品のCMなどからは即刻締め出されることとなる。特に30代以上の主婦層は不倫に対して厳しい道徳観を持っている。自分たちのアイデンティティの根幹である、「家庭を脅かす存在」にはとても敏感だ。企業にとって、不倫イメージの女優を起用することは、この主要な顧客層の反感をわざわざ買うリスクを負うことを意味する。
清純なイメージは、女優のCM出演料にプレミアムをもたらす。その反動として、不倫スキャンダルはこの価値を大きく下げるだけでなく、オファー自体を激減させる。家族の絆を訴求する商品—教育、食品、旅行—では、不倫イメージの女優はまず起用されることはないだろう。
不公平な現実と変革の必要性
女優にとって不倫が致命的なのは、彼女らの存在感価値そのものが映像文化の構造に根ざしているからだ。役柄の純潔性、朝ドラや大河のストーリー文脈と文化的使命、CMの憧れイメージ—…これら全てが複合的に作用することで、特に女優にとっての厳しい制約を課すことになる。男性俳優と比べ、女優にとっての不倫の代償はあまりにも大きい。これは単なる世間の偏見だけの問題ではなく、日本のジェンダー意識とメディアの商業構造が作り上げている現実なのである。
この現実はあまりにも不公平だ。女優にのみ純潔性を求める基準は、時代錯誤的でさえあり。そして、一人の女性としての自由を不当に縛る。男性俳優が不倫で許される一方、女優が同じ行為でキャリアを失うのは、明らかなダブルスタンダードなのだ。
日本の映像文化は、女性に伝統的な「良き妻」「良き母」を押し付けることで、本来はもっと複雑な人間性や社会問題を描く余地を狭めている。それでも、斉藤由貴や高岡早紀のように、不倫スキャンダルを経て新たな魅力で再起した女優もいる。斉藤由貴は複数回のスキャンダルを経て、『恋マジ』やサスペンス系ドラマで独特の人物像の怪演により、弱さを逆手に取った人間味で観客を魅了した。高岡は『リカ』で「魔性の女」を演じきることで代替されない独自のポジションを確立するなど、演技力と大胆なイメージ転換で新たなファン層の獲得に至った。
この構造を変えるには、視聴者とメディアの意識改革が何より必要だ。女優を単なる「憧れの偶像」ではなく、もっと多面的な人間として受け入れる土壌(文化的な「大人の社会」と敢えて呼びたい)を育てなければならない。ドラマや映画でも、完璧でない女性像(失敗や葛藤を抱えるヒロイン)をもっと積極的に描くべきだと常々思っている。
NHKや民放は、イメージに縛られず多様な女優を起用する勇気を持つべきだ。NHKや民放は、視聴者クレームやスポンサー圧力を恐れず、海外ドラマのようにスキャンダル後の女優を起用する勇気を持って欲しい。企業も、CMでリアルな女性の魅力を訴求する戦略を模索する必要がある。
女優たち自身も、SNSを通じてもっと強かで柔軟に生きる強い人間性をアピールすることで、ステレオタイプの”女優イメージ“の呪縛から脱皮できるかもしれない。個人的には、川口春奈のSNS上でのチャレンジングなコミュニケーションに興味がある。広瀬すずや今田美桜もまた、飾らない投稿やファンとの対話を通じ、これまでの清純派イメージを超えた親しみやすさと強さを発信している。
これからの女優像へ
もっとも、女優を志す人、現役の女優たちは、厳しい現実を直視しなければならない。清純派のイメージは強力な武器だが、同時に脆い足かせでもある。不倫は、男性俳優よりはるかに大きな代償を現に女優に強いている。だが、この不公平な構造は変えられる。視聴者、メディア、企業、そして女優自身が一歩踏み出し、「多様な女性像」を受け入れる文化を築くとき、女優たちはもっと自由に、輝けるはずだ。