葉佐池古墳と長慶天皇陵 その2 | 松山市はなみずき通り近くの漢方専門薬局・針灸院 春日漢方

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葉佐池古墳と長慶天皇陵 その2

 

 

10月15(日)、11時に葉佐池古墳を出て、南に車で10分ほど走って、東温市牛渕の「長慶天皇陵」に向かいます。

近所に車を置くところがないと困るというので、ショッピングモール、フジグラン重信に車を停めて、15分ほど歩いて、「長慶天皇陵」にたどり着きました。

 

松山近辺の方なら、松山市の森松から東温市に向かう、県道松山川内線沿いに、田んぼの中に、写真の看板が突っ立っているのに気づいておられるでしょう。

 

 

天皇のお墓が、何故、こんな所に?

長慶天皇とは、誰? ほんとうに、天皇だったの?

 

一目見て、あまりに簡素な施設に、これはちょっと、怪しいんでないか?、という気がします。

しかし、ふだんは県道を車で通り過ぎるときに、なんで天皇が、四国くんだりまで来て、死ぬかなあ? とか言うだけで、わざわざ見に行こうとは思いませんでした。

 

それが、歴史好き? 天皇好き? それも不遇な運命の天皇好き、の友人の希望で、身体慣らしの散歩の行き先に、この場所を指定したのでした。

私も、以前から、この看板は気にはなっていましたから、その話に乗っかることにしました。

 

今回、すぐそばに来て、看板をよく見たら、下に小さく「推定地」と書いてあった!

 

 

こちらが、御陵の正面。

金の菊の御紋も入って、なかなか立派なものです。

オジサン3人が、ワイワイ言っていると、白い着物に紫のはかまを着た老人が、後ろから声をかけてきた。

 

神聖な御陵を汚す不届き者とか、叱られるのかと思ったら、この御陵に関心を持たれるのは珍しい人たちと、ここを管理されている「浮島神社」の神職の相原さんという方でした。

 

相原さんはすぐに、御陵の扉を開けて中に入れて下さいました。

 

 

平成4年(1992年)、相原さんの父上の代に、この御陵が整備されてこの碑板も建てられた。

 

長慶天皇は、宮内庁などの天皇系図を見ると、南北朝時代に、北朝の足利幕府と対立した後醍醐天皇が、京を離れて奈良県の奥、吉野に立てこもった南朝方、第3代の天皇。

歴史的には、南朝の資料が乏しく、実在が疑われたこともある、と。

 

南北朝時代は、南朝の軍事的な劣勢から、長慶天皇の弟、第4代、後亀山天皇が南北統合に合意して終了。

統合の条件は、以降、南北交互に天皇を出すという約束だったが、統合を主導した将軍、足利義満は、そんな約束を守る気は始めからなく、南朝は4代で途絶えた。

 

しかしこの碑文を見ると、弟に譲位したのちも、長慶天皇は上皇として、各地を転戦して、この四国は伊予の地に渡られ、浮島の宮に僭幸す、と。

 

相原さんのお話しでは、日本中に「長慶天皇陵」と称する遺跡は、およそ100基ほどもあるらしい。

いちばん遠方では、青森県にもあるそうです。

 

 

この五輪塔は、江戸時代?に、最初にこの地に建てられた遺跡です。

土台の四角い枡の中に、5個の小ぶりな石が入れてあります。

 

相原さんによると、これは幕末に、五輪塔の一つの石が破壊されて、こうなったのだと。

何故、そんなことになったのか? その因縁は、我が国の近代史と関わっています。

 

先の南北朝は、14世紀末に、劣勢の南朝が、北朝に統合されて終わりましたが、500年近くのち、水戸光圀(黄門さま)が「大日本史」という歴史書を作るときに、何故か!南北朝は、南朝が正統で、北朝はフェイクだとされた。

 

そうすると困ったことに、その後の天皇、今に至るまでのすべての天皇は、フェイク王朝の末裔ということになりますが、それで良かったのかな?

 

しかしその、南朝こそ正統ということは、単に歴史学上の解釈に終わらなかった。

幕末の尊王攘夷運動に結びつき、尊王の志士たちは、北朝の室町幕府を当時の徳川幕府に見立て、それに抵抗した南朝を、自分たちの尊王倒幕運動の象徴に見立てて、南朝をことさらに宣揚した。

 

ここ長慶天皇陵も、勤王の志士たちが墓参するという形の、思想的なデモンストレーション用のモニュメントとなった。

 

しかし、ここ松山藩は徳川家の親戚、松平家。

自慢ではないが、第2次長州征伐には、ご公儀への義理から松山藩だけが出兵して、悪いことをしています。

 

そんな松山藩ですから、藩内で、倒幕運動のデモなど許すことはできないと、南朝の天皇陵は破壊されました。

 

 

長慶天皇陵を管理している「浮島神社」

神職の相原さんは、白髪の痩せてキリっと引きしまったご老人ですが、

この神社もスッキリした清潔感が好ましい。

 

全国にあまたの「長慶天皇陵」があるのは、自らの正統を守り抜かんと戦った陛下の不屈の御心が、各地に陵の形を取って現れたものと思います、というのが、相原さんの考えでした。

 

 

浮島神社を出て、近所の「隻手薬師」に回ります。

県道を車で走っていると、浮島神社からごく近いように思っていましたが、歩いてみると結構な距離がありました。

 

「隻手薬師」は、正式名は「香積寺」

「隻手薬師」の由来は、お寺の創建当時、腕の悪い人がなかなか仕事ができず、片方の手だけで薬師如来を拝んでいたら、手が治って両手で拝めるようになったという伝承から、その名で呼ばれるようになりました。

古くから、病気の治癒を願う人たちからの信仰を集めてきました。

 

 

2階の本堂に、車いすで上がるために、3段に折れて長いスロープが付けてあります。ここらは、病気の人のことを考えられています。

 

 

1階の寺務所の張り紙。

むやみに人を頼っちゃ、いけない、ということですか。

片手で拝むだけで、その手が治ったりはしませんかね?

 

この後、すぐ近くの伊予鉄・横河原線、田之窪駅から、電車を一駅乗って、牛渕駅で降りて、ラーメン「芯せかい」を目指します。

 

ここらでお昼を食べるなら、ここ、という友人の見立てでですが、かなり歩かされました。

疲れたので、ここらから写真はありません。

 

「芯せかい」の名で、芯のあるような麺なのかと疑ってましたが、そこは歯触りに、微かに芯が感じられる茹で加減。

そこが人気なんでしょう。

しかし、私の趣味は、もうひと押し茹でた方が好いか。

 

こってりしたラーメンスープを残していると、友人、二人は、その汁は飲まないのか?と。

大学生になってからは、余計な塩分を摂らないように、麺類の汁は飲んでないと答えました。

この二人、年齢も私と同じだし、高血圧の薬も飲んでいるのに、ラーメンもうどんも蕎麦も、つゆまで飲み干すタイプです。

 

そこから15分ほど歩いて、ショッピングモールの駐車場に戻って、この日の散歩大会は終わりました。

 

葉佐池古墳に長慶天皇陵。

どちらも、その地に強いこだわりと見識のある方のお話しを聞けて、楽しく有意義な1日でした。