葉佐池古墳と長慶天皇陵 その1 | 松山市はなみずき通り近くの漢方専門薬局・針灸院 春日漢方

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葉佐池古墳と長慶天皇陵 その1

 

昨日は高校時代の友人2人と、松山市近郊の史跡?巡りをしてきました。

しかし、本来は、友人が再来週に山登りをするので、その身体慣らしのために思いついた、散歩のための企画ではあります。

 

          葉佐池古墳の墳丘

その友人が以前から気になっていた、東温市の県道沿いにある「長慶天皇陵」の石碑を見たいという希望と、それなら近所に「葉佐池古墳」があるから、それを組み合わせたら良かろう、という私の思いつきです。

 

          

葉佐池古墳は、松山市東部、東温市との境界、北梅本町にあります。

古墳時代の後期、6世紀の半ばに造られ、7世紀初めまで追葬されていました。

1992年に発見されて、2011年に国の史跡指定されています。

 

           古墳の測量図

 

長径41メートルの長円墳。

真ん中あたりにくびれ目が入っていると、大和王権に関係する前方後円墳と言われるのですが、長円墳だそうです。

 

        1号石室内部

 

この小ぶりな長円墳が、国の史跡になり、資料館まで併設されているかというと、複数の「未盗掘の石室」が見つかったことにあります。

 

日曜、祭日に資料館が開いていて、地元のボランティアガイドの方から、熱心な説明を聞けました。

こちらの頓珍漢な質問にも、すぐに的確な答えをいただきました。

 

上の写真を見ても、素人にはグチャグチャに散らかっているようにしか見えませんが、発掘した専門家は、「未盗掘の石室」という、一生に一度、有るか無いか、宝石箱を開ける気持ちだったでしょう。

 

        1号石室内部の説明

 

1号石室には、1400年くらい前、最初にA さんが葬られた。

それから、数十年後にB さんが葬られた。その際、Aさんの骨は石室の隅に片付けられた。

あまり間を開けないで、C さんが葬られた。

 

       公開されている1号石室の内部

 

このように本物の人骨があったのかと誤解されそうですが、元はこうだったろうという、想定復元のレプリカです。

 

      墳丘上部の石室を建物で覆って内部を見せている 

 

実際は、3つ上の写真のように、素人には何も分からないように、骨は細かく砕けて散らばった状態でした。

それが、一目で、あっ、ここらに骨が散らばってると分かるのが、専門家ですね。

さらに、残っていた歯や、骨盤の破片から、男女や年齢まで想定されています。

また石室内には、木棺の木材の破片、遺体を包んでいただろう布の繊維なども見つかったそうで、日本の古墳で、木や布が見つかることは稀なことらしい。

この当たりの地質の粘土層と、石室を作るときに、積み石の隙間を粘土で丹念に詰めた防水工事のせいかと。

 

           2号石室の内部

こちらは、2号石室の内部。

1号、2号は、発掘を手掛けた順で、2号室の方が、数十年はやく、最初に造られた。

1号と同じように内部は散らかっているように見えますが、ガイドさんのお話しでは、これは意図的に、骨や副葬品が破壊され荒らされて、破片の一部が持ち出されているのだと。

 

1号石室の主こそは、その地方の真の権力者であった。

その死後に、恐るべき権力者の霊が、この世に舞いもどってきて、災いを為さぬように、葬送の後に、骨や副葬品が破壊されたのだと。

初めは、悼まれて丁重に葬られ、後に、恐れられ壊され、封じ込められた。

こういうことは、この時代には当たり前のことだったんでしょうか?

 

 

小高い墳丘の上からは、松山平野がよく見渡せます。

 

    北梅本地区、葉佐池古墳①、周辺の古墳群

 

葉佐池古墳が未盗掘だったことで、考古学上に新たに証明されたことがあります。

それは、「殯(もがり)」という葬送儀礼です。

人が死ぬと、すぐに埋めたり焼いたりしないで、一定期間、死体を棺に入れたまま、どこかに仮に置いておきます。

ある期間ののちに、正式に死体を墓所に葬るという風習です。

 

殯は日本書紀にも書かれているし、そのための施設らしいものが古墳でも見つかりますが、この古墳では、それを実際に行っていたという証明ができました。

 

葉佐池古墳の石室内に、2種のハエのさなぎの殻が見つかる。

1種のハエは、死後、数時間で寄ってきて、卵を産み付ける。

もう1種のハエは、死後、何日もして死体が腐敗し、崩れて体液などが流れると集まってきて、卵を産み付ける。

 

もし殯をしないで、死後すぐに石室に収めたのなら、後者のハエのさなぎ殻は見つからないはず。

しかし、盗掘された石室では、盗掘時にハエが入り込んだ可能性が否定できない。

 

そこで、葉佐池古墳の出番です。

葉佐池古墳は未盗掘ですから、死体を石室に入れた後で、後者のハエが入り込む可能性は無い。

葉佐池古墳の後者のハエのさなぎ殻は、殯の間に産み付けられたものだと言える。

だから、現実に殯という風習が行われていたことの証明となる、ということです。

こういうお話しを、ガイドさんが、熱心に語ってくれました。

 

 

これがこの古墳名の由来の葉佐池なんでしょう。

松山平野は、瀬戸内海性気候の雨の少ない土地柄なので、山の上から見渡すと、いたる所に溜め池があります。

 

思い出したのは、春に訪れた松山市考古館。

常設展示が、葉佐池古墳の出土品と、1号石室のレプリカでした。

その力の入れようから、県内でもトップクラスの発見だったとは分かりました。

しかし、どこかで人骨が出たと聞いてたけど、その人骨がどうなってるのか、私はそればかり気になるけど、その展示をみたり解説を読んでも、いっこうにはっきりしませんでした。

 

それが、昨日、やっと分かったことは、人骨は確かに出てきた。

しかし、細かく砕けて、素人が目で見て分かる状態ではなかった、ということでした。

 

葉佐池古墳で、2時間ほどを費やしたので、次の目的地、「長慶天皇陵」に向かいます。

 

その2に続く。