松山市はなみずき通り近くの漢方専門薬局・針灸院 春日漢方

松山市はなみずき通り近くの漢方専門薬局・針灸院 春日漢方

体質に合った漢方薬・針灸治療 更年期障害・生理痛・頭痛・めまい・冷え性・のぼせ・不眠症・イライラ・気うつ、肩こり・腰痛・五十肩に穏やかな効き目





















春日漢方 薬局・針灸院









































































































松山の南、はなみずき通り近くの










































漢方専門薬局・針灸院です。











































syunsukeのブログ-正面




















    syunsukeのブログ-入口










































syunsukeのブログ-調剤室




















    syunsukeのブログ-治療室






















































































漢方専門の薬局・針灸院を開業して、










































もう20年になります。その間に積んだ










































知識と経験から、東洋医学ならではの










































健康情報をおつたえしましょう。
































































松山市古川北3-13-22  
















TEL 089-957-0686
















089-957-4460 (夜間)




























































漢方薬は 煎じ薬 1日分 ¥500  粉薬 ¥400














































   最初は1週間分ずつお出しします。














































針灸治療は 1回 ¥3500  松山市国保は ¥2500


















  














メール takaisyunsuke@yahoo.co.jp





























































































































 






































































































































































 



















































































趣味は中国

 

私の仕事は、漢方屋ですから、中国から輸入した生薬を、中国古代の医学書に書いてある処方に基づいて、患者さんにお出しするの、を、日々のなりわいとしています。

 

そもそも、漢方医学、言い方は中国医学でもいいんですけど、それは、現代に生きている、「古代の医学」です。

 

どの民族、どの文明にも、「医学」というものは、ありました。

古代ギリシャ、アラビア、インド、チベットなど、高度の文明のあるところ、必ず、体系的な、生理・病理学、診断学の理論に基づいた、古代の医学が存在していました。

 

しかし、そこに、「客観的」で「実証的」な、現代的な「科学」が入ってくると、古代の医学の「理論」は、「迷信」として否定され、かろうじて生き残るのが、「有効成分」の探索をするための「生薬学」だけです。

 

それなのに、漢方医学は、古代の医学大系のまま、現代まで生き延びてきました。

生き延びて来られた大きな理由の一端は、漢字という「象形文字」を使う、言語体系にあったと思います。

 

そういうわけで、漢字そのものにも、ずっと興味がありましたし、漢和辞典も、その文字の本来の意味を知るために、よく引きました。

 

 

漢方の勉強は、そういう古代の中国人の書いた医学書を、書き写すことに尽きます。

中国人のものの考え方に、古ければ古いほど、ありがたい!というのがあります。

そういう考えに基づけば、もっともありがたい漢方医学の本が5種あります。

 

左上から、『黄帝内経 素問』『黄帝内経 霊枢』『八十一難経』『傷寒雑病論』『神農本草経』 の小曾戸丈夫先生による和訳本

 

黄帝とか神農とか、伝説上の半神半人の皇帝の名前を冠していますが、この五種の医学書は、いつ書かれたのか、誰が書いたのかも不明。

中国医学の基原をたぐっていくと、深い闇の中から、この五種の書物が半身を現わしてくるのです。

私の感じでは、古い所は紀元前1~2世紀に書かれ、その後、紀元後1~2世紀くらいにまとめられたのではないかと思います。

漢の時代の図書館の目録が残っていて、それによると、もっと多くの医学書が有ったようですが、結局、今日まで残ったのは、この五種の書物でした。

それは、印刷術の始まる前、手書きの写本しかない時代だから、元から評価が高くて、多くの写本が作られたものが、今日まで残ったということでしょう。

 

これ以降のすべての中国医学の書物は、この5種の書物を引用し、その解釈から、新たな理論を拡張することで、出来あがっていったのです。

 

そういう私の商売柄、いつも「中国」に興味があります。

いまの「中国」にも、「中国人」や「中国料理」「中国経済」、そして「中国の歴史」にも興味があります。

 

さいきん、中国のある時代の歴史の本をいくつか、まとめて読むことがありました。

 

今年の初めころ読んだのが、『三国志 Ⅰ』

『三国志』といえば、諸葛亮孔明が、超人的な活躍をするのは、ずっとあとに出来た小説仕立ての『三国志演義』

こちらは、3世紀に書かれた正式な歴史書

そのⅠは、曹操から始まる魏の歴史書ですが、文字が小さいのと、内容がプロ仕様というか、編年体の歴史だから、何年、何月、どこそこに出兵、敵の誰それを破る、などという、素っ気ない記述がずっと続いています。

そのシンプルな記事を、頭の中で組み立てて理解できない素人には、面白そうな物語性に欠けるもので、これは、ちと歯が立ちませんでした。

 

その中で、諸葛亮孔明は、蜀に仕え、その兄、諸葛瑾は、呉に仕えて弟とも協力した。その従弟の諸葛誕は魏に仕えた。

「蜀はその龍を得、呉はその虎を得、魏はその狗を得た」と、でてきました。

これは上手いことを言うなあ、と感心しましたが、この評語は、『世説新語』という書物に出ているというので、それを読んでみることに。

 

『世説新語』は、6世紀、南北朝時代にまとめられた、有名人たちのエピソード集。

この時代は、政治・軍事・文化に関する、人物評が盛んに行われ、官僚の登用も、世間の人望が評価のポイントだった。

それで、こういうエピソード集も作られました。

 

面白かったのは、たとえばこんなお話し。

宰相の謝安は、弟の謝万の横柄、傲慢な性格を知っていて、この度の戦に、万が総大将に任命されたとき、こりゃ必ず失敗するとみて、心配してついて行った。

兄いわく、しばしば宴会を開いて、諸将軍のご機嫌を取らないと。

弟は、宴会ではなんの挨拶もなく、指揮棒をふるって、諸君は皆、強い兵士たちだ、と。

諸将軍はこの一言で、すっかり機嫌を損ねてしまった。

兄は、これはまずいと、各方面に謝って回った。

案の定、戦に大敗すると、軍人たちは、負け戦のついでに、謝万をやっちまおうかと言い始めたが、中に、あのあんちゃんに免じて、こらえてやろうじゃないかと取りなすものがいて、謝万は命拾いした。

 

この本の中には、王敦、謝安、恒温など、何度も出てくる人物がいるので、スマホで調べると、ウィキペディアなどですぐに教えてくれますが、しかし、この時代の歴史自体を知らないで、当時の文化人、政治家、軍人の断片的な評判をいくら読んでも、仕方のない話。

 

それで、『魏晋南北朝』という本を読んでみました。

時代は、三国志の次の時代。 三国を魏が統一したのもつかの間、家来の司馬氏に乗っ取られて晋となり、その晋も、遊牧民族に南に追いやられる。

南半分では、晋から数百年間で、宋・斉・梁・陳の4つの王朝が交代し、いっぽう北では、五胡十六国といって、5つの異民族による、16の国がつぎつぎ乱立、消長をくり返した。

 

こういう、ややこしい時代の歴史を、著者の川勝義雄という人は、実にバランスよく軍事に政治、文化面のエピソードを配しつつ、自分の学説から筋道を立てて、この時代の全体的な流れを、説明していました。

その筆さばきの見事さに、感心しました。

 

巻末の他の人の解説によると、川勝氏は、六十代のはじめに、ガンで亡くなっている。

だから、彼の著書をネットで調べても、数千円する専門書は別として、私らみたいな素人向けの一般書は二冊ほど。

 

 

そのもう1冊が、『中国人の歴史意識』 

しかし、この本は、彼が一般人のために書いたものではなくて、1970年代に、学会誌などに発表した論文を集めたもので、私には少し難しい本でした。

 

この2冊の、あとがきによると、川勝氏と「二人研究会」を開いて、独自の学説を鍛え上げていった相手として出てくるのが、谷川道雄氏です。

『世界帝国の形成』と、大きなタイトルがついていますが、扱った時代は、『魏晋南北朝』とほぼ同じ時代です。

南北朝、5百年間の混乱を経て、まず隋が統一を果たし、すぐに唐に取って代わられて、唐は数百年間の安定した時代を作りました。

これを、世界帝国の形成といったのでしょう。

 

『交感する中世』は、中国史の谷川氏と、日本中世史の網野善彦氏の対談。

この本で、谷川氏と川勝氏が、当時の中国史学会で、提唱した独自の考えが何なのか、少し分かりました。

私の理解できた範囲でいうと、腕力がいちばん強いヤツが、最高の権力者になれるわけではない、ということ。

人々の承認を得られる「権威」がないと、人々の支配はできない。

中国の南北朝時代なら、人々の「人望」が備わっていないと、権力者になれない。それは上流貴族の家名でもあるし、個人の器量として、発揮されるもの。

 

谷川道雄氏は、熊本の水俣市出身。

兄弟に、戦後もっともラディカルな左翼運動を追求した谷川雁と、民俗学者の谷川健一がいます。

この本は、「日本の古本屋」というサイトを通じて、熊本市の舒文堂という古本屋で入手しました。

上通りにあるその古本屋は、学生時代によく立ち寄っていました。

代替わりはしたでしょうが、40年後に同じ古本屋が続いていたので、驚きでした。

 

幾つかの本を読んでの、個人の感想ですが、「君主制」はダメだな、ということ。

いくつもの王朝が出来ますが、初代の王様は、前の時代の軍人あがりで、兵隊たちや平民どもの気持ちを掴んで、仲間を集めて反乱を起こし、前の王朝を倒したから、人民各層の心の機微や、世の中の暗黙の仕組みは、よーく分かっている。

 

ところが、2代目以降になると、生まれた時から王様だから、自分が偉いから、王様になった。

何故、私は偉いのか? それは、私が王様だから。

そういう考えしか出来ない人間が、最高権力者になります。

親父の代から仕えている、口うるさい大臣たちと、閣議で面倒な話をするのは、さっさと早く切り上げて、3千人の美女の待っている後宮で、宦官どもにチヤホヤされたい。

かくして国家運営の実権は、寵愛する姫の実家と、宦官が争うことに。

 

王朝の2代目以降のやることは、美女収集か、贅を極めた宮殿造営など、これは国の財政が傾くだけで、害は少ない。

すこし困るのは、気に入らない家来を、片っ端から首をはねる暴君。

もっと困るのは、戦争趣味。

家来だけでなく、大勢の男が兵隊に狩りだされ、食料が挑発されて飢饉にもなるし、よその国も迷惑する。

そのようにして、五胡十六国などは、多くは3代目で潰れます。

 

国の方針を決める権力が、王様ひとりに集中しているから、王様がバカなら、国ごと滅びます。

あちこちに権力が分散していれば、別の選択肢を考えることも出来るでしょう。

 

最後は現代の物で、『豚と会話のできたころ』 楊威理

楊氏は、戦前の台湾生まれだから、当時の国籍は日本でした。

成績優秀で、東北大学に進学、後に東大に進むが、日本の敗戦で、台湾に帰り、さらに大陸に渡って、共産党員となります。

 

ここでも、成績優秀だから、、共産党の出版宣伝部の図書館部門で、それなりの出世を遂げていきます。

彼は、台湾の福建語、日本語、北京語が自由に話せて、他に英語、ロシア語、独仏語が読み書きできたようです。

 

そんなインテリ人生を大きく狂わせたのは、文化大革命。

彼は、文革の初めには、人々の尻馬に乗って、気に入らない上司を吊し上げたりしますが、そのうち批判が中堅幹部の自分にも及んで、遠くの農村で、養豚業をさせられます。

「豚と会話」していたのは、そのころのこと。

 

文革騒動が10年後に終わって、鄧小平の改革開放時代が来ると、元のインテリ幹部に戻れますが、「中国」は、彼に再び大きな決断を迫りました。

1984年の天安門事件です。

言論や政治的な自由を求める学生たちの動きに、新たな中国の未来を夢見ていた楊氏ですが、軍隊が北京市内に進軍してきたその日に、全財産と「中国」を見捨てて、妻と娘を連れて、ロンドンに脱出。

 

いまは、東北大学時代の友人のつてで、日本の大学に職を得て、いくつかの日本語の書物を出しています。

この本で、文化大革命が、どんなモノだったのかについて、ある程度のことは分かりますが、何故、当時の中国人は、そんなことをしたのか?

そして、また同じことをする可能性があるのか?

 

それは、私たち日本人が、80年前、アラ人神を信じて、全土が焼け野が原になるまで、アメリカとの戦争を続けたのと、同じではないか?

日本人の感覚だと、もう二度とあんなバカなことはしない、ですが、豊かになった中国人も、習近平がいくら望んでも、もうあんなことは、ゴメンだ、と言うのではないでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

除湿器 活躍

 

6月の20日過ぎに、四国も梅雨入りしたら、先週から昨日(7月2日)まで、大雨、小雨のときはあれど、1日も晴れ間のない日が続きました。

 

 

まず困るのは、洗濯物の乾かないこと。

うちは、ふだんの洗濯物のほか、針灸治療で使った、大きなバスタオルなどもあって、そういう木綿製品がなかなか乾きません。

 

雨の日の洗濯物は、扇風機の風を、強にして当て続けると、4時間くらいで、なんとか、しっとりくらいの乾き方にはなります。

どうも、テレビの生活番組によれば、最初の1時間が勝負だとか。

 

洗濯物はともかく、漢方屋では、商売物の生薬は、元は生ものだったのを、刻んで乾燥させたものだから、自然と湿気を吸うように出来てます。

湿っけたままにしておくと、いずれカビが生えたり、虫が湧いたりします。

 

20年くらい前、冷夏で米の取れない年がありました。

つまり、秋まで梅雨が続いた年でしたが、その年は、いろんな生薬から虫が湧いたように思います。

 

生薬の中でも、大棗=ナツメの実、竜眼肉=ロンガンの実、などは、レーズンのように、果物を乾燥させたものだから、特に湿気を呼びやすい。

また、根っこのものでも、地黄や天門冬、麦門冬は、ネチネチして、元から水分含量が高いので、湿気を吸うと、ベタベタとくっついて固まろうとします。

 

そんな梅雨の季節に活躍するのが、これ。

 

 

調剤室にエアコンがあれば良いのですが、うちは最低限の坪数しかないし、調剤室でそう長い時間を過ごさないだろうということで、エアコンを付けなかった。

エアコンの除湿の代わりに活躍するのが、専用の除湿機。

 

 

店を閉めるころに、流しの排水口に蓋をして、濡れたゴミを片付け、扉を閉めてから、この除湿器を一晩、作動させます。

 

 

除湿器の上に置いてあるのが、水のタンク。

 

 

狭い調剤室の空間から、1晩で、このタンクいっぱい、2リットルの水が取り出せます。

朝には、タンクがいっぱいになって、自動で止まっています。

 

 

空気中の水を、2リットル抜くと、朝、調剤室に入ると、ほんのり温かく、しかも空気がとても軽く、息をするのが楽に感じられます。

 

 

取れた水は、流しに捨てれば良いのですが、そのまま捨てるのが、もったいなくて、鉢植えにやることに。

 

 

これは針灸の治療室で、除湿器を使っています。

梅雨の始めの限られた時期にだけあることですが、雨が続いて、湿気がひどいが、気温はまだ低くて、25度にもなっていない、という段階で使います。

 

エアコンには、除湿機能がありますが、部屋の温度は下がっていきます。

鍼灸治療で、薄着になってもらいますから、治療中は、28度くらいにしておきたい。

エアコンの除湿をかけると、部屋の湿気は取れて、気持ちは良いのですが、治療室としては冷え過ぎになる。

 

そこで、除湿器を使うと、温度は下げないで、むしろ少し温度は上がります。

しかし、作動させるとけっこう大きな音がするし、ベッドの脇にあると邪魔なので、患者さんが来るまで作動させて、部屋の空気を爽やかにしておきます。

梅雨の始めの、雨は続いて、まだ肌寒いという天気のときにだけ使うやり方です。

 

 

ピンクの花は、ヤナギバルイラ草

ふつうは、青ムラサキの花しか見ないのですが、近所では、ここだけピンクの花を付けています。

ヤナギバルイラ草は、その名から分かるように、中南米から、ここ10年くらいで、進出してきた花です。

見てのとおり、塀と道路の隙間に根を張って、とにかく丈夫な花。

アルミの側溝の蓋の中、河川敷、土手など、あちこちでよく繁茂して、今ころから秋の終わりまで、花を咲かせています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

        膀胱炎は  「肝」?

    <はじめに 虚弱体質>

長らくよく来られる患者さんが、急に膀胱炎のような症状となって、少し苦労した経験です。

この患者さんは、それなりに休息をとって、まともな生活をしておれば、本来の体質は、胃腸が弱めで、「肝・胆」に熱が多くなる「肝実証」という状態です。
漢方処方なら、「小柴胡湯」のような処方にアレンジして対処できます。


        黄精=ナルコユリの花


しかしこの方は、たいがいは仕事が忙しすぎて、睡眠時間を削って長時間労働。
また、持って生まれた性格なのか、あちこちから相談事を持ち込まれ、余計なストレスを増やしてしまう。

子どものころの話をうかがうと、小学校まではひどい虚弱児で、風邪を引いても、お腹を壊しても、下痢が続いて、そのうち血便が出て、入院して絶食、点滴することになっていたそうです。

その虚弱体質のせいで、今でも仕事が忙しい時には、すぐに下痢してぐったり、食べられなくなります。
そんな時には、胃腸を温めて元気にする「人参湯」に、全身を強く温める「附子」を加えたものが必要になります。

だから普段は、両方の状況に対応すべく、「小柴胡湯」と「人参湯+附子」を3日分ずつ持って帰っています。

さらに難しいのは、この人は元来お腹が弱いので、使える漢方薬が限られることです。
「小柴胡湯」でも、腸の熱を取る「黄芩」は除けて、お腹を温める「乾姜」を入れないと下痢します。
何が使えるか、慎重に薬を選ばないといけません。

    <膀胱炎の始まり>

それがある時、仕事のイヤなゴタゴタが続いたことがあって、普段とは違う症状が出てきました。

きっかけは風邪を引いたらしく、咽喉の奥が痛くなるところから始まりました。
これも、この方にはよくある事なので、咽喉の痛みに効く「桔梗」を小分けして渡しました。

 

            キキョウの花
「桔梗」は、咽喉の痛いときに、「人参湯」にも「小柴胡湯」にも加えて、無難に使える生薬です。

「桔梗」を足したことで、当面の咽喉の痛みは収まりましたが、次の日の夜、寝ていたら、胸の奥がキューっと痛くなりました。
胸の奥が痛いなんて、イヤなものですが、大したことないないと自分を納得させて、そのまま眠りました。

胸の痛みとどう繋がるのか分かりませんが、次の日の朝、トイレに行くと、局部に劇痛が走って、尿が少しずつしか出せません。

尿を出そうと、下腹に力を入れると、太ももの内側から痛みが駆け上がって、胸から腕の内側に痺れと痛みが走ります。

下腹部に痛みがするたびに、少しずつ、尿漏れもします。

すぐに近所の泌尿器科に行って、尿検査をすると、確かにバイ菌が繁殖して膀胱炎になっていると。

もらった抗生剤を飲んで、強い排尿痛は減りましたが、もともとお腹が弱いので、抗生剤も続けられません。

    <診察 問診から>

その時点でうちに来られました。
いくつかお尋ねしたことは、まず尿検査で尿の色はどうでしたか?
ひどく色が濃いとか、濁ってるとか、普段と変わったことはない。

次に、お口は乾きますか? いいえ。

この二つの質問で、膀胱炎の症状は派手だけど、内部には、そんなにキツイ熱がこもっては、無さそうだと見当がつきます。

    <腹診から>

下腹の不快感をさかんに訴えるので、お腹を押さえてみると、
左右の鼠径部の上部を横断して、下腹部ぜんたいが、軽く押さえても身を捩るほどの圧痛があります。
また、臍の左下にも圧痛。



小川新先生の腹証の本から、もっとも近そうな図を選ぶと、これでしょう。
この鼠径部の圧痛は、何を意味しているか?
それには、前回のブログでふれた「経脈」というもので、説明しないといけません。

   <下腹部と肝経・胆経>


             足の厥陰肝経


この図では、体表面にある「ツボ」をつないだ線だけが描いてありますが、漢方の理論では、「経脈」は体表上の線だけでなく、体内の各種の臓器・器官、また他の「経脈」とも繋がって、生理的な機能を営んでいます。

「厥陰肝経」は、その名のとおり、最後は体内の「肝」に繋がりますが、大腿の内側から腹部に上がるときに、「血の道」と関係の深い、子宮や生殖器・泌尿器・肛門とも繋がります。


              足の少陽胆経


こちらは、「肝」とペアの「胆」の経脈の図
「少陽胆経」は、足の外側を上がって、腰の外側に線が描いてありますが、鼠径部の上部で、「肝経」と「胆経」は連絡しあって生殖器などと繋がっています。

「肝経」と「胆経」は、お腹の側だけでなく、背中側、仙骨部でも交差連絡しています。
「肝経」「胆経」は、腰の周りで、お腹側と仙骨側で交差・連絡して、「血の道系」の生殖器・泌尿器を働かせています。


             手の厥陰心包経


すこし漢方の理屈で寄り道しますが、上が「厥陰心包経」の流れです。胸の中から起こって、腕の内側を通って中指に達します。

経脈は、手と足に6本ずつ。各6本は、陰・陽3本ずつに分かれ、
陽の経は、太陽・少陽・陽明。陰の経は、少陰・太陰・厥陰となります。

その中で、足の厥陰経が「肝」、手の厥陰経が「心包」に繋がります。
「心包」とは何かというと、心臓を包んでいる膜のような、漢方独自の仮想の臓器です。

今回、この患者さんが膀胱炎になる前に、強い胸の痛みがあったことと、膀胱炎の下腹の痛みが、胸から腕の内側に走ったことは、同じ「厥陰経」の反応だとみると、「経脈」の理論も、何か実証的な意味があるのかも知れません。

    <脈診から>

次に脈を診てみます。



この人の普段の脈は、「小柴胡湯」のあう体調のとき、つまり「肝」に熱が詰まっているときは、左手の中部が強く打ちます。
それが疲れ切って、胃が冷えて下痢するときは、全体に細く弱く打っているので、区別しています。

それが今回は、左手の「肝」の部の脈が、弱くなっています。
それに反して、左手の下、「腎」部がすこし強くなっているように感じました。

これは、「肝」にストックされている「血」が、足りなくなって、
「血」の不足で出た熱気が、「腎」というか、膀胱や尿道に停滞していることを示しています。

漢方薬を出す前に、鍼灸治療を行います。

    <鍼灸治療>

軽く押しても痛みの強い、下腹部や鼠径上部に、ごく細い針を浅く刺してしばらく置いてから、そこに温灸をします。


 

温灸は粗製のもぐさを丸めて作ります。

これの先端に火をつけ、患者さんが熱く感じたらサッと取ります。

全部焼いたら火傷になりますから。


温灸は、その場所に痛みや腫れ、熱感があるとき、皮膚の表面を温めて、毛穴を開いて、内部の熱気を外に発散させて熱を取ります。
熱を冷ます手段としては、いちばん穏やかで、無難な方法です。

この患者さんは、皮膚の「陽気」の巡りが悪くなりやすいので、温灸で皮膚を温めて、「陽気」を発散させると、気分がサッパリすると、この治療を好んでいます。

鼠径部の圧痛から、いまの体調が「肝経」と深く関わることが分かったので、足の「肝経」のツボを押さえてみると、大腿の内側でも、下腿でも、普段はほとんど無いような、強い圧痛があります。
そこにも温灸をしました。

この温灸療法で、下腹部の痛み・不快感が、しばらく軽くなりました。

次に、背中側では、仙骨部の圧痛の強いツボに、灸頭鍼をしました。
仙骨部は、体表を巡る「肝経」「胆経」が、交差して、下腹部の子宮や泌尿器に繋がっている場所ですから、そこに灸頭鍼をして、停滞している「血」を巡らせて、下腹部の熱気を取ります。

この針灸治療で、下腹部の不快感と痛みが、我慢できるくらいには、軽くなりました。

    <漢方薬は?>

今回の膀胱炎のような症状は、仕事のストレスで悩まされて始まりました。
ストレスで神経をすり減らすと、漢方的には、「肝の血」を浪費することになります。

血が不足して、「厥陰肝経」を弱らせたことが、膀胱炎を起こす原因になったので、治療には「肝の血」を補う「当帰」が必要です。


          当帰


「当帰」の入った膀胱炎・尿道炎の処方といえば、すぐに思いつくのは「当帰貝母苦参丸」です。
「当帰」で「肝の血」を補い、「貝母」「苦参」「滑石」で、厥陰肝経の熱気を冷まします。
冷え性の方の膀胱炎・尿道炎・下腹の不快感に、幅広く使える便利な処方です。


    貝母=アミガサユリの花

                        苦参=クララの花    

しかし何故か、世間の認知度は低く、ツムラの粉もなく、以前にあった既製品の丸薬も、10年前に製造中止に。
仕方なく、自分で丸薬を作っていました。

しかしこの方は、いたってお腹が弱くて、「当帰」は大丈夫でも、「苦参」がひどくイヤらしい苦味がするし、「滑石」もお腹に応えて下痢しそうです。
そこで、ふだん飲んでいる「人参湯」の煎じ薬をベースに、胃腸を温めて守りつつ、そこに少量の「当帰貝母苦参丸」を乗っけて飲んでもらうことにしました。

本来なら「当帰貝母苦参丸」は、1回に3~4グラム、1日3回、飲みますが、まず1.5グラムずつ試しに飲んでもらうと、下腹が温かくなって、緊張感が薄らいできた感じ。
それから、1日に3回ずつ、7日分を、「人参湯」と一緒に続けて飲んでいって、膀胱炎は治りました。