なんか
クリント・イーストウッドって
凄いな って思いました
改めて
この映画を
硫黄島からの手紙
と合わせて
公開してるってのも
凄い
冒頭で出てくる
戦争は
単純な
善と悪じゃない
って
そのことが
しみじみと伝わる作品だと思う
戦争って
立場を変えれば
違う見方があって
それぞれが
それぞれの
善を信じてたりして
善ってなんだ?
ってことになる
結局は
みんな
愛する人が
幸せであってほしい
その思いで
戦っているはずで
でも
相手にも
愛する人がいることや
相手も
愛する人のために戦ってるってことを
考えないようにして
戦わなくちゃいけなくて
お互いの立場から
描いているというのは
戦争の
なんで戦ってるの?
を改めて
考えさせるのに
大切なことだ
どちらか一方の視点で
描いてしまうと
被害者
加害者
善
悪
可哀想な人間
極悪非道の人間
になってしまいかねなくて
そうなると
時を飛び越えて
なんて酷いことを・・・
そんな思いを
生んでしまうことにもなりかねないから
映画に出てくる
当事国のものとして
見るときに
心をどこに置くべきなのか
難しいことがあって
それは
難しくあって然るべきなのだ
とも思うけれども
なんかそういう映画とは
ちょっと違うというか
当時の語られてこなかった事実を描く
それは
この映画もしているのだけど
歴史的な事実の解明に集中している場合や
撮影技術でどこまで戦争の残忍さを再現できるか
特撮技術ばかりに集中している場合もあって
見てる側も
話しの内容に対して
果たして
それが正しいか
間違ってるのか
このシーンはどうやって撮られたのか
そんなことに集中してしまって
話しが分からなくなってしまったり
一人の主人公に集中しすぎてて
その人だけの戦争になっていたり
だけど
この作品は
そのあたりのバランスがうまく取れていて
そういうことがあったのかという
事実を明かし
もちろん撮影技術もすごいのだけど
それだけに終わらないし
ヒーローとされた3人の話だけど
3人にとどまらず
戦地に赴いた兵士の多くの思いを
代弁しているように思うに
戦争とはなんなのか
これからどうすれば良いのかという
戦争に対して考えさせる作品ではないかと思う
きっと今は 第二次世界大戦の時とは違って
最新兵器も出てきてるから
戦地と兵士達の国の温度差って
それ以上のはずで
ゲーム感覚でリセットボタンを押せば
人も簡単に生き返るような感覚で
あっさりと人を殺してしまうような事件が起きる中で
相手の立場を想像するってことがなければ
戦争だって
簡単に起きてしまう
戦争は今も起きていて
表向きには日本は戦争に参加していないわけだけど
今
きちんと戦争について
考えないと
取り返しがつかない時代になってしまうかも知れない
硫黄島からの手紙は
ちょっと前に見たのだけど
この2本は
続けて・・・とは言わないけれど
まだ1本の作品が頭に残ってるうちに
もう1本を見ると
1本ずつ見るのとは違うメッセージを
きっと受け取れるのだろうなぁと
思う
硫黄島でのシーンは
白黒
正確には
炎とかは色がついていたので
完全な白黒ではないけど
まぁ白黒で描かれていることに
はっと突然気づいて
あれ?初めから白黒だった?とか
色の使い方が
目立たないようにというか
そこに気づかせないように
色を変えていて
色の使い方と
その色に対する人間の脳の処理というか
白黒なのに
白黒としてみてないというか
色を想像しながら見ている感じに
拍手
私の場合
外国の映画の場合
日本の映画よりも
顔と名前の一致に時間が必要なので
顔が見えない状態で
名前が出てくると
誰のことなんだろう・・・
となってしまう
特殊メイクで同一人物が演じる場合を除いて
子ども時代や
歳をとってからの姿を
別人が演じてしまうと
同じ現象が起きるので
このおじいさんは
誰?
となっていたので
しばらくの間は
混乱していたので
もう一度見ると
その辺がスッキリするかもですね
私が見聞きして思っている当時の日本の暮らしぶりと
この作品で出てくるアメリカの違いに
驚く・・・
国債買ってねのパーティとか式典が
当時の日本の状況と違いすぎて
えっ
何、何、この野球選手達・・・
スタジアム?えっ?
パーティ?えっ?
となってしまって
映画でよく描かれる
アメリカ兵がくれるチョコレートに群がる
日本の子どもたちの図が浮かんできて
そりゃ
こんな暮らしから来た人には
なんかペコペコしちゃうよな・・・なんて
思ってしまった
映画の最後に
実際の人物の写真が紹介されるけれど
レイニーと
演じたジェシーが似ていて
驚いた