足この記事は以前noteに書いたものの再録になります。ブログの引っ越しに伴い、こちらに移しました。




 いや唸りました。


 漫画原作の映像化のお手本のような映画です。


日頃、漫画の実写化で「ここが駄目」と思うようなポイントを、ことごとくクリアしてきます。


 ①原作のモノローグや台詞を極力削って、言葉で説明しすぎない。 

②原作の印象的なシーンであっても、映画に必要なければ容赦なくカットする。 

③キャスティングが的確。


 原作はもはやBLの教典ともいうべき作品ですので、原作ファンの中には「あの名台詞がない!」「好きなシーンがカットされてた」という不満を持つ方もいると思います。しかし原作の窮鼠は、実はあのまま映像化するのは非常に難しい作品なんです。


 画力の問題もあるのですが、水城せとなはいわゆる絵で魅せるタイプの漫画家ではありません。特に窮鼠は、洪水のような台詞でページが埋め尽くされ、ひたすら恭一と今ヶ瀬が言葉と思考によって対峙し続けることで、物語が成立しています。


普通の漫画なら一冊に一言あるかないかの名言が、数ページごとに惜しげもなく披露され、今ヶ瀬が語る恋愛の心理に読者が頷き、打ちのめされながら読む作品です。 


一番駄目な漫画の実写化のパターンとして、登場人物に台詞やモノローグで、漫画や小説の地の文を延々と言わせてしまうのがあります。これは本当に雑なやり方で、原作を映像にまったく変換できていません。しかし、さすがに原作モノを撮り慣れている行定監督だけあって、見事にあの文字だらけの漫画を映像作品へと昇華しています。下手な監督がやれば、会話劇にして終わりですよ、この作品。


 それでは、以下、本編について詳しく語っていきます。 (下差し原作&映画のネタバレあり) 


このリアルさは何なのか。 


日頃、映画やドラマを見終えて、現実にいる自分の世界に戻った時、フィクションの中の登場人物たちの息吹が今も続いているとは考えません。比喩としてそうした表現を使うことがあったとしても、実際には違います。彼らの人生は映画の中で完結している。


 けれども、この映画に限っては、東京のどこかにいる同性カップルの営みや熱を一瞬だけ垣間見たような、ぼうっとした高揚感がありました。冒頭の脅迫から始まる関係は、まさにBL漫画的であるにもかかわらず。


 誰に対しても優しく、その実、誰も愛していない男、恭一。大学時代から彼を一途に思い続ける後輩、今ヶ瀬。探偵をしている今ヶ瀬は、恭一の妻からの依頼を受けて、彼の身辺調査をし、浮気をネタに関係を迫る。 


映画に漂う、不自然なほどの静けさ。寿司を頬張っている時の咀嚼音、大事なことを言う前の唾液を飲み込む音、舌を絡め合うキスのリップ音、性器をしゃぶる音。


劇中音楽を極力排した静寂の中で、こうした人間が立てる音を執拗に拾い上げることによって、観客は息を潜めてこの二人の生活を盗み見ているかのような、奇妙な感覚に陥っていきます。映画を鑑賞しているというより、観察している感じ。


 個人的には、漫画の実写化成功に必要な要素は、いかに説得力を持たせて漫画のキャラクターを演じられるかだと思っています。大事なのは、見た目を似せることよりも、体現できる演技。


映画化発表当時、よく聞かれたのは「今ヶ瀬役が成田凌なのは違う」というものでした。原作の今ヶ瀬は超美形なので、もう少しわかりやすい美形俳優を期待した人が多かったのかも(成田凌も十分イケメンですが)。 


しかしながら、蓋を開けてみれば、成田凌が演じた今ヶ瀬渉は、圧倒的に説得力のある今ヶ瀬渉でした。 ノンケで既婚者の恭一が、多少見た目が良かろうと、男の後輩に迫られて身体を許すかどうか。本来なら答えはNOです。しかし恭一は落ちる。幾度となく身体を弄られることを許し、快楽に身を委ね、いつのまにか家に居ついてしまった今ヶ瀬との同棲生活を受け入れます。


このBL漫画的な展開、いわゆる嘘を、成田凌は化け物じみた演技力で易々と飛び越えていきます。 じっとりと濡れた眼差しで常に恭一を追い、わずかに動かした指先や口元で、感情の機微を自在に表現する。ぺたぺた、するすると恭一の身体に手を這わせる、そのしなやかでねっとりとした質感。180cm越えのひょろっとした大男で、クズをやらせたら右に出る者はいない、あの無精髭の成田凌が、今作では恭一の前に次々と現れるタイプの違った美女たちを、女以上の、しかし女には出せない色気と可愛さでぶん殴っていく様は爽快です。 


こんな男に言い寄られたら、ノンケだって落ちる。 有無を言わせぬ、圧倒的な説得力。 どんな俳優にもありますよね。この作品はこの人の一番美しい時期を撮ったという一作が。成田凌にとって窮鼠は、おそらくそういう映画になるのではないかと思います。 


一方で、恭一を演じる大倉くんは、技巧ではなく佇まいで魅せるタイプの俳優でして。職場で、オフィス街の歩道で、周囲から浮かび上がるような麗しい美中年なので、浮気性のクズでも、女にモテるのが納得できてしまう。ボサボサ頭に無精髭&眼鏡のスウェット姿すらイケ散らかしていて、もう降参というか。


 終始湿度の高い存在感を見せる今ヶ瀬とは対象的に、恭一は体温のない乾いた空気感を漂わせており、そうした枯れ木の隙間に今ヶ瀬の水気がじわじわと染み入んでいき、やがて離れがたくなる。例えるなら、二人はそんな関係です。


 話題になっている濡れ場ですが、日本で、男同士で、そしてこれほどメジャーな俳優を使って、あそこまで直接的な表現で濡れ場をやってのけたのは、間違いなく日本の同性愛映画の一つの転換点となるかと思います。


 「性の劇薬」「ポルノグラファー」とラブシーンの過激さが話題になった二作は、公開時、俳優がさほど知名度が高くなかったからやれた部分があります。しかし、ジャニーズのアイドルと今をときめく人気俳優を使えばどうか。どうせぬるいキスと朝チュンでごまかすんでしょ?と思われていた時期がもはや懐かしくすらある、遠いところに来てしまった感…。もう全部やってますからね。 


大倉くんと成田凌が、ごまかしのきかないアングルで、局部以外は全てさらけ出した状態で、ローションに挿入、ピストン運動まできっちり演じたことは、大きな意味があると思います。 今後BLでベッドシーンをやるときに、間違いなく、この映画は一つの基準になってくるのではないでしょうか。


 そして、二人の体格差も完璧なんですよ。 適度に筋肉と脂肪のついた、大人の成熟みを感じさせる大倉くんに対して、まだ少年の匂いを残す、若々しく華奢な成田凌の裸体。身体の厚みや腕の太さの違いが一目瞭然で、後半、SEXにおける攻守が入れ替わり、今ヶ瀬が恭一を受け入れる側になったとき、後ろから攻められて弱々しく喘ぐ今ヶ瀬はどこか痛々しく、息を呑むほどに美しい。


 恭一と婚約までいきながら、最後の最後で振られてしまうたまきを、可哀想だという人は多いでしょう。でも、私は彼女をあまり哀れには思えませんでした。たまきは恭一の中に、前の恋人への想いが残っているのを知りながら、交際していました。恭一と結婚するためには、ただただ彼女は、今ヶ瀬よりも魅力的な女として、その価値を認められる必要がありました。しかし、捨てられた。


 結局のところ、恋愛におけるデッドヒートで、たまきは今ヶ瀬に負けたに過ぎません。彼女はただのか弱い女の子ではなく、父親である常務の葬式で、わざわざ会場の入り口で泣いて恭一に声をかけられるのを待っているような、無自覚なしたたかさがあります(少し意地悪な見方ですが)。 今ヶ瀬と同じように、恭一に「二番目でいい」という意味のことを懇願するシーンは、妾だった母親から継いだ負の遺伝子を感じさせ、物悲しくなります。たまき、それでは幸せになれないよ、と。


 このたまきに対して、恭一がサイコレベルでひどい裏切りをするシーンが、この映画で一番の見所でした。 たまきが泊まらないとわかるやいなや、皿洗いをしている水を止めて、暗に帰るように促す恭一。バスに乗った彼女を何食わぬ顔で見送り、そのあとすぐさま車で待つ今ヶ瀬を家に連れ込み、やるシーンは、唖然とするほど残酷でした。たまきとのSEXにいかに満足していないか、丸わかり。心と身体の両方が、もうとっくに男の愛人を貪欲に求めているのです。


 激しく求め合ったあと、妻にするには申し分のない、愛らしく心優しい女を捨てる決意をし、恭一は今ヶ瀬を選びます。


 「一緒に暮らそう」


 けれども、目覚めると、今ヶ瀬は消えていました。 


ここに辿り着くまでに〝If”ルートはあったのか? 


恋愛ドラマには、大抵 Ifルートがあります。 このとき待ち合わせに間に合っていたら。恋敵があそこで泣かなかったら。もっと自分に素直になれていたら。 


カップルがすれ違うポイントが必ずいくつか用意されていて、そのとき選択を間違えていなければ、結末までのルートがショートカットされたり、あるいは別ルートに進むことができます。


 けれども、恭一と今ヶ瀬には、その”If”がありませんでした。 夏生とラブホテルに行ったとき、きちんとSEXできていたら。たまきとあのまま結婚していたら。恭一が今ヶ瀬に、「愛している」と言葉に出して伝えていたら、どうだったか?結末は変わったのだろうか?


 何も変わらなかったと、私は思います。 夏生と再び付き合い始めたとしても、今ヶ瀬は諦めずにストーキングを続けたでしょうし、たまきと結婚までいったところで、恭一は今ヶ瀬を愛人にして抱いたでしょう。恭一がどんなに真摯に愛の言葉を告げようと、今ヶ瀬の不安は消えることはなく、幸せな日々は続かずに、ある日突然、姿を消したと思います。 まさに堂々巡り。でもこれが、二人の関係なんです。 


原作と映画、異なるエンディングは、見せ方の違いだけで、実は同じに見えました。原作のハッピーエンドは終わりの始まり。別れを前提とした、苦い幸福エンド。映画のラストで消えた今ヶ瀬は、おそらくはまた戻ってきて、あの部屋に居つくでしょう。そうやって、別れと復縁を繰り返す。あまりに辛く、行き場のない愛。


 どこか冷めた心と熱い身体で繋がり切った、この恋人たちは一体どこへ向かうのか。ラストの余韻が凄まじいのは、行き止まりを繰り返しながらも、互いの手を離すことができない、恭一と今ヶ瀬の苦しい恋路が、この先もずっと続くと観客が知っているから。


 幸せになれなくたっていい。そこにあなたがいるなら。 


2020年、まぎれもなく心揺さぶる名演を見せた成田凌と、「ジャニーズがR指定のBLなんて」という世間のつまらぬ雑音をぶっ飛ばして、俳優としての覚悟と野心を持って大伴恭一役を演じたであろう大倉忠義に、心の底よりの拍手を送りたい。 日本BL、この映画が今、一つの臨界点。 



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