福岡出身の新派劇界のスーパースター川上音二郎!

新型コロナとの共生も、そろそろ当たり前の話題になって来た。 勿論、今後も感染対策が大切だ。「博多ガイドの会」が企画した「川上音二郎の生誕から終焉までのゆかりの地を訪ねる」まち歩きに参加してきた。 妻の貞奴(さだやっこ)と共に欧米公演を大成功させたスーパースター音二郎ゆかりの地を、ブログ2回に分けて報告したいと思う。

 

 川端商店街明治通り側入り口に、扇子を広げて「オッペケペー節」を演じている「音二郎」の像が立っているので、多くの市民は知っている。「オッペケペー」については、後に触れる。

 何でこの場所に? それは音二郎が見つめている建物に関係する。 それは、後ほど・・・。

 

 「音二郎まち歩き」の集合場所は、石村萬盛堂本店前・・・「博多ガイドの会」のスタッフや参加者が集まっていた。 この萬盛堂本店も、音二郎ゆかりの地につながっているのだが、これも後ほど・・・。

萬盛堂の建物が新ビルになったが、「追い山笠廻り止」の場所なので、知らない人はいない。

 

 さて、今回の「川上音二郎 ゆかりの地を訪れる」まち歩きコース(石村萬盛堂承天寺)を確認する。

                                        地図はマピオン利用

 

が昭和通りに面した「石村萬盛堂本店」。 ここから北に数十mのところに、沖浜稲荷神社」が鎮座している。 

 

■ 沖浜稲荷神社

福岡市の博多部は、昭和通りを境に、古代より形成されていた「博多浜」と那珂川が運んで来た堆積物によって平安時代以降に形成された「沖浜」に分けられる。

小さな境内の入り口左側に「川上音二郎生誕の地碑」があり、音二郎(1864年~1911年)と妻の貞奴(さだやっこ 1871年~1946年)を簡単に紹介した案内板が立っている。

正直に言うと、音二郎の顔(写真)を見るのは初めてだった。 ちょっと強面の感じ・・・。貞奴夫人は、本で紹介されているとおりの美人だ。 日本に於ける近代女優第一号ですから・・・。

 

 境内の右側に「新派俳優 水谷八重子」と彫られた記念碑が立っている。

 

明治時代初期までの演劇とは、歌舞伎浄瑠璃を言う。 自由民権運動家(壮士)だった川上音二郎らが、政府の弾圧をかわしながら主張を訴えた「壮士劇」が世に広まり、明治末期には「新派劇」として人々の評価を得た。 歌舞伎は「旧派劇」と呼ばれた。 初代 水谷八重子 は、明治時代に「新派」の女優として活躍した。 上の記念碑は二代目 水谷八重子の訪問記念碑とのこと。

 

 境内には、もう一つ「旧対馬小路(つましょうじ)」の石碑がある。

江戸時代初期、ここ一等地に対馬藩の屋敷と倉庫が置かれた。 文禄・慶長の役によって悪化した李氏朝鮮との関係を回復するに当たり、努力した対馬藩宗氏を徳川幕府は大切にした。 朝鮮半島との交易権利を与え、黒田藩に命じて博多港の一等地を対馬藩に与えた。 

 

以後、明治になっても「対馬小路町」は商人の町として賑わった。 川上音二郎は明治維新4年前の文久4年(1864年)に、ここ対馬小路の大きな「藍染め問屋」の次男に生まれた。 産みの母が早く亡くなり、継母とは折り合いが上手く行かずに、14歳(明治10年)の時に家を出てしまった。 

 

 実際の生家は数十m北西(地図)の角だった。

 

通りを挟んだ前の(駐車場)に父が営む藍染め問屋の店があった。 後に、その角の店は経営が傾き、音二郎は父を東京に引き取った。 家屋は成功を収めた音二郎の所有になったが、海外公演などで福岡に帰って来ることは殆ど無い。  音二郎は、幼馴染で彼が役者として成功した後も親交が深かった対馬小路の石村善太郎に、この店を開放した。 

                            (石村萬盛堂ホームページより)

鶴乃子」の製造・販売で成功した「石村萬盛堂」の初代本店だ。 本店は、後に、昭和通りに面した現在の位置(追い山笠廻り止)に移動したのだった。

 もし宜しければ覗いて下さい ➡「石村萬盛堂のホワイト・デー物語

 

音二郎まち歩き」は明治通りの「博多座前に来た。 この大提灯を作ったのは・・・?

博多座は、東公園に前身があった」、と「博多ガイドの会」の説明を聞いた。 明治後期から大正時代にかけて、博多には「明治座」、「大博劇場」、「博多座」など幾つかの劇場が建てられた。 その博多座は、新派劇で成功した音二郎が建設計画に係わり、杮落とし(こけらおとし)をしたそうだ。

              東公園内の博多座 (ホームページ 福岡県の都市公園より)

 

その博多座の建物が廃墟と化した最後を、僕は知っている。 僕が三年間通った福岡中学校(現在は馬出小学校)は東公園内の動物園跡に建てられていて、運動場や校舎から南東の方角に荒れた大きな建築物が見えていた。 現在の「日蓮さん像」から少し北側の辺りだ。 その頃は、キャバレーの跡だと聞いていたが、これが明治43年(1910年)に音二郎が係わった「博多座」だった。 2階建て、収容人数1,000人の大劇場で、終戦後の一時期に米軍用のキャバレーとして使用されていたようだ。

 

川端商店街明治通り入り口の「音二郎像」前に来た。

 「オッペケペー節」を演じる彼の眼は・・・そう、博多座を見つめているそうです。

 

 像の台座に「像建設期成会会長」の門田敏郎氏の名前が刻まれている。

 

 川端商店街を抜けて櫛田神社へ向かう途中、右側に「門田提灯店」がある。

明治28年創業で、博多の町にはなくてはならない老舗提灯店。 博多座入り口に掛けられた大きな提灯は、この店で制作された。 また、「川上音二郎像」を建設した亡き門田敏郎氏は、三代目店主だった。 氏は、「門田提灯店」の店主よりも、中国陶磁器研究家の方が有名だ。 

                    川端商店街

川端商店街の中は平日の午後だったが、賑わいも徐々に戻ってきた感がする。 商店街は賑やかでないと様にならない。 アーケード天井から下がった長谷川法世さんの「博多弁漫画」を見上げながら「お櫛田さん」に向かう。

 

次回では、音二郎の自由民権運動とオッペケペー節(壮士劇)とスパイ活動?に触れたい。

川上音二郎のゆかりの地を訪ねるー2」に続く。

 

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