これは、福岡の鶏と卵の物語でもある!

3月14日「ホワイト・デー」の物語は、織田信長の時代から始まる!

 

時代(とき)は、織田信長安土城を築城した頃・・・

(滋賀県 安土城考古博物館 UR安土城より)

安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、長崎平戸に入港していたポルトガル商船が、日本に初めて南蛮菓子を紹介した。 金平糖(コンペイトウ)、ボーロ(マルボーロ)など・・・その中にポルトガル語で「Fios de Ovos(フィオス・デ・オーヴォス)」と言う菓子があった。 Fios は糸、Ovos は卵=卵の糸・・・後に博多銘菓となる「鶏卵素麺」だった。 「金平糖(コンペイトウ)」は織田信長が食べた記録が残っているとのことなので・・・「卵の糸=鶏卵素麺」についても、安土城天守閣から琵琶湖を眺めながら、「旨い!」と言って食べたのだろう。

(信長が食べた当時のポルトガルの金平糖  安土城考古博物館)

 

江戸時代初期、寛永10年(1633年)、長崎に出島が完成・・・キリスト教を布教するポルトガル船が排除され、中国とオランダの貿易船のみ入港が許可された。 この時から幕末まで、半鎖国体制が続く。  両国の貿易船から、南蛮・中国の品々や、新しい文化が入って来た。 それらの中に、当時としては貴重な砂糖があった。 砂糖は長崎街道を小倉まで陸路、そして船で大阪・江戸に運ばれた。  小倉までの長崎街道は別名「砂糖(シュガー)街道」と呼ばれた。 何故かは解らないが、佐賀や飯塚など途中の宿場町にも砂糖が供給されていて、後には、独自の菓子文化が育って行った。

 

(出島 長崎歴史文化博物館蔵)

 

福岡藩は佐賀藩と隔年で、長崎港の警備を幕府から命じられていた。 「長崎御番」と言う。  警備費の負担は大きいが、西洋の文化・情報・知識は、どの藩よりも早く入手することが出来る利点も大きい。 「長崎御番」の準備・物資運搬・移動の取り扱いは、大賀家など藩の大手御用商人が請け負っていた。 ある年、大賀家の食糧番随行員として、松屋利右衛門という者が長崎に同行した。 そこで、利右衛門は「卵の糸鶏卵素麺」の存在を知り、製法を学んだ。 博多に戻り、大賀家ルートで入手した高価な砂糖と卵の黄身を原料に試行錯誤を繰り返し、遂に「鶏卵素麺」を完成させた。  大賀家を通して、三代藩主・黒田光之公に献上したところ、その美味しさを喜ばれ、「松屋」の屋号で藩の御用菓子商に認められた。  

(現在の元祖鶏卵素麺 松屋 より)

享保17年(1732年)、西日本を襲った飢饉を「享保の大飢饉」と言う。  福岡藩でも異常気象や疫病の流行が重なり、犠牲者が増えた。 藩は荒戸(西公園)の浜や各所でで米を炊き、「お救い米」を配ったが、領民に行き渡らず、多くの人々が飢えで亡くなった。 福岡市内には中洲など、この時の犠牲者を供養する「飢人地蔵尊」が幾つかある。

(中洲 飢人地蔵尊)   

 

六代藩主・黒田継高は、この享保の大飢饉を教訓に、二つの改革に取り組んだ。 一つは食料の常備確保・・・中洲中島町の南側堆積地や領内に新田を開発し、米以外にも甘藷(サツマイモ)の栽培を奨励した。 二つ目は藩財政を強化するために、藩内での特定産物の生産に力を注いだ。 

(福岡藩六代藩主 黒田継高 公)

ローソクの 原料となる(はぜ)、石炭、そして鶏卵。  卵を産み終えた親鳥は食料にもなるため、農村では特に養鶏卵が強く奨励された。 この福岡藩に於ける「鶏卵」の取り組み開始が、現代の「ホワイト・デー」に繋がって行く。  どう繋がるかって?  話はまだまだ長い。

 

これらは、その後、福岡藩の特産物として育っていった。 寛政8年(1796年)、黒田藩はこれらの特産物に専売制を敷いて、保護すると同時に藩財政改革の要とした。 櫨実蝋(はぜみろう仕組石炭仕組製塩仕組鶏卵仕組などの専売仕組(公社)が設けられた。  鶏は農村の大掛かりな農民でなくとも、数羽単位で庭でも飼えるので、下級武士や庶民にも養鶏が勧められた。  これが本当の「にわとり=庭鶏」だ。 鶏卵仕組は玉子(卵)仕組とも呼ばれ、京都・大阪方面への輸出が始まると、「筑前卵」のブランド銘で人気が高まり、福岡藩の主特産品の一つに育っていった。 

 

鶏卵仕組による専売事業として飼料なども改良され、卵の品質は徐々に向上し、生産量も拡大した。 品質の高い豊富な卵によって改良生産された「鶏卵素麺」は、御用菓子商としての「松屋」の評判を更に高め、営業を安定させて行った。 福岡藩は徳川将軍家にも献上したところ、これまた喜ばれた。 その後、「松屋」の「鶏卵素麺」は、江戸では、金沢の「長生殿」、長岡の「越乃雪」と共に、日本三大銘菓とまで呼ばれるようになって行く。  

 

福岡藩は若い藩士を長崎に留学させていた。 また、「長崎御番」による長崎遠征を通じて、福岡藩には鶏肉の西洋・中華料理による調理法についても伝わって来ていたようだ。  「親子(鶏・卵)どんぶり」については、起源が不明とされているが、うっちゃんに言わせると、中華料理の流れで、鶏・卵が豊富な博多で産まれたと思う。 江戸時代後期、福岡藩は長崎で学ばせた若い技術者・職人を中洲に建てた精錬所に集め、武器・工具・時計・ガラス・薬などを製造・販売している。 その精錬所近くの「メシ屋」で「親子どんぶり」のようなものが食べられていたと考えても不思議ではない。  江戸時代後期に「親子どんぶり」が考案される条件が整った藩は、「長崎御番」と「鶏卵仕組」が絡む福岡藩以外にないのだから。

 

卵を産み終えた親鳥を食料として、その調理法に考えが及ぶのは、「親子どんぶり」のように当然のことだろう。 江戸時代初期に、タイから賭博の闘鶏用に軍鶏(シャモ)が輸入された。  軍鶏(シャモ)は食味が良いので食用として飼育され、江戸や大阪で「シャモすき焼」として食されるようになった。  福岡藩では、当然、卵を産み終えた親鳥を「鶏すき焼」として食した・・・宗像市・福津市・古賀市周辺地域では、郷土料理として「鶏すき焼」の文化が残っている。 すき焼料理に「溶き卵」を付ける食文化も福岡が起源ではないかと思っている。 

 

明治時代中期以降からは、よりも鶏肉用の品種改良も進んだ。 「水炊き」も長崎から伝わった中華料理系(広東系スープ料理?)の鶏料理だ。 その他、「がめ煮」、「かしわめし弁当」、「焼き鳥」、「唐揚げ」、「手羽焼き」などなど・・・「享保の大飢饉」から始まった養鶏文化は、現在、人口10万人当たりの鶏料理店・焼き鳥店・唐揚げ店の軒数で主要都市中1位、と言う鶏大好きの県民性に繋がっている。

(水炊き  水月)

(がめ煮   ヤマサ醤油H/Pより)

(かしわめし弁当  折尾東筑軒)

                                                     

 

さて、話は少し・・・どころか、 かなり横道に逸れて、なかなか「ホワイト・デー」に行き着かないが、もう少し先が長い。 

明治時代になっても福岡県の鶏卵文化は質を高めて行った。 以後、長崎街道の佐賀・筑豊では、砂糖菓子で基盤をつくった千鳥屋吉野堂さかえ屋などの初期創業者が老舗菓子店への道を歩み始めていた。

                     (千鳥屋 千鳥饅頭)                         

(吉野堂 ひよ子)   

 

博多では、幾つかの事業者が「鶏卵素麺」の製造・販売を開始したようだ。 明治38年(1905年)、28歳の石村善太郎が対馬小路で「石村萬盛堂」を創業し、「鶏卵素麺」の製造・販売を開始している。 当時に、特許権や商標登録が、しっかりとあったのかどうかは知らないが・・・うっちゃんは思う・・・博多には「祇園山笠」という男の共同体がある。 競合同業者でも大切な仲間として接する気持ちを大切にする。 同業者同士で競い合いながらも、互いに切磋琢磨して良い商品を世に送り出す。 そこに商標登録なんてケチなものは存在しないのであろう。 「ふくや」の創業者・川原俊夫氏は「辛子明太子」の製造方法を特許登録しないで、皆に開放した。 結果、全国に認められる福岡の名産品に育った。  博多には、そんな気風がある・・・。

                                       

石村善太郎が対馬小路に開いた店は、「オッペケペー」で有名な川上音二郎の実家だった。 当時、音二郎は妻の貞奴(さだやっこ)と共に、世界的に人気を得ていた歌舞伎役者だった。  

川上音二郎 像   川端商店街入り口)

公演で、パリなど世界各国を回っていたので、実家には不在・・・音二郎は人間的に気に入っていた石村善太郎を何かにつけ応援していたこともあり、気軽に実家を開放した。 真面目な善太郎は「松屋」からも製法の指導を受けつつ、一所懸命に「鶏卵素麺」を作り続けた。  そして、「石村萬盛堂の鶏卵素麺」を世に出し、菓子店舗としての一歩を踏み出したのだった。

(萬盛堂本店 明治時代後期  石村萬盛堂H/Pより)

               (写真左、「鶴乃子」旗の横の看板に「鶏卵素麺」の文字が見える)

 

石村萬盛堂」では、「鶏卵素麺」が順調に進みだしたことによって、原材料の卵の仕入れ数も増えた。 そんなある日、善太郎はふっと考えた。  鶏卵素麺卵黄のみを使用する。 大量に残りだした卵の殻と卵白を何かに利用できないのか?  何日も試作を繰り返した。 そして、泡立てた卵白(メレンゲ)に寒天と砂糖を加えて固めた淡雪(あわゆき)で飴を包み、卵の殻に詰めたお菓子を完成させた。 これが第1号の「鶴乃子」だった。 同じ頃に伝来した「マシュマロ」が卵白を原料とすることから、善太郎は直ぐにその技術を取り入れ、和洋折衷の「鶴乃子」(現在の形)を完成させた。  「鶴乃子」を入れる容器にも拘った。 丸みを帯びた卵型が顧客の注目を浴びた。

 

斬新な発想から産まれた「鶴乃子」の販売は順調に伸びた。 大正12年(1923年)、善太郎は本店を現在の須崎町の角に移転した。   本店は須崎問屋街の昭和通りに面していて、隣が博多祇園山笠・追い山の廻り止め(終点)となっているので、福岡市民の誰もが知っている。 (現在改築中)

(須崎町 本店  石村萬盛堂H/Pより)

 

鶏卵素麺」の元祖「松屋」は、羊羹やモナカ等の販売にも力を入れたが、消費者の和菓子離れの影響で徐々に売り上げが落ち込んで行った。  経営が困難となった平成24年(2012年)、自己破産を申請している。 根本的は状況は知る由もないが・・・うっちゃんが考えるに、「鶏卵素麺」は手作りで機械化による大量生産が難しい。 形状・姿からして高級感があり過ぎで・・・逆に言うと、気軽に購入する感じでないし庶民的でない。 手軽な土産としても、他と比較され敬遠されてしまう。 見た目の高級感はあるが、ソーメンの文字が安っぽく感じる。 お饅頭のような食べ方が出来ない・・・などなどかな。 同じ材料・製法でもって、新しい商品(形・コンセプト)を考えることも必要だったのかも・・・。  でも、時には、あのソーメンの形が食べたくなる。 現在は、福岡に進出した薩摩蒸気屋が、「元祖鶏卵素麺 松屋」として生産・販売を引き継いでいる。 また、創業一家が新たに「松屋利右衛門」の名で、主にネットによる販売を開始している。 いずれにしても、「鶏卵素麺」は福岡が誇る銘菓だ。 「松屋」、「萬盛堂」、「蒸気屋」には頑張ってほしい。 

(現在の松屋利右衛門 鶏卵素麺 より)

 

昭和時代初期・戦後にも「鶴乃子」の生産は順調に伸びた。 「鶴乃子」は本業としてスタートした「鶏卵素麺」を追い抜いてしまい、「石村萬盛堂」の顔となると同時に、福岡を代表する銘菓となった。 ただし、和菓子の消費者離れは「石村萬盛堂」も同じだった。 店舗のイメージを取り扱い商品毎に分けた。  「石村萬盛堂」は和菓子、「ボンサンク」は洋菓子、「いしむら」は和洋菓子両方、の三形態でお客様に向き合った。  「石村萬盛堂」は主に駅構内や百貨店に、「ボンサンク」と「いしむら」は主に町中に店舗を構えている。   

 

うっちゃんの地元である香椎宮のクスノキ参道(勅使道)には、「いしむら  勅使道店」があって、近隣の人々から親しまれている。                       

 いしむら 勅使道店

店内

ホワイトデーコーナー」に美味しそうなお菓子が各種並んでいる。

 

 うっちゃんは、時々、ここのイートインを利用して、大好きな「塩豆大福」を食べている。 今年は初めてだ。 

 弾力ある柔らかい餅とこしあんが、赤えんどう豆の塩味と絡み合って、美味しい。 ドリンクのサーヴァーが新しくなって、「抹茶ラテ」は美味しくて、塩豆大福との相性がグー。

 

塩豆大福」を食べながら、そろそろ「ホワイト・デー物語」をまとめようと思う。

 

 福岡市民であれば、「石村萬盛堂」の店内で以下のような掲示を見たことがあると思う。

 

 

石村萬盛堂ホワイト・デーを創出するまでには、それなりの背景と条件が福岡の地に整っていた。 その歴史の背景を江戸時代まで遡って、順次整理して来たのですが・・・

 

昭和54年(1979年)、三代目・石村僐悟が社長就任。  奥さんも社員として出社していて、商品企画と販売促進を担当していた。 前年の昭和53年のこと、奥さんが商品企画の参考にと、少女雑誌に目を通していた時・・・こんな記事にハッとした。 

女子ばかり、バレンタインでプレゼントするのは変だよね。 私達もお返しが欲しいなあ。 マシュマロなんかだったら嬉しい!」 

 

マシュマロやったら、うちんとこの鶴乃子やろ!」 

奥さんは早速、僐悟に報告した。 僐悟は直ぐに動いた。  「鶴乃子」の白いマシュマロでチョコを包んだ「チョコマシュマロ」を作り、岩田屋(現・岩田屋三越)に企画提案を持ち込んだ。 

バレンタインでチョコをもらった男性の想いを、

君からもらった愛(チョコレート)を、今度は僕の優しさ(マシュマロ)で包んでお返しするよ」とした。

(萬盛堂のチョコマシュマロ)

岩田屋とはコンセプトは一致した。 男性が「チョコ マシュマロ」を送る日は三つの候補で揉めた、

1案=バレンタインの2月14日を、ひっくり返した4月12日。

2案=バレンタインの1週間後の2月21日。

3案=バレンタインの1ヶ月後の3月14日。

1案は、間が空き過ぎる。 2案は、チョコレート販売から1週間でマシュマロ販売の準備が出来ない、との岩田屋の意見があり、3案の3月14日と決まった。 お返しの日は「マシュマロ・デー」の呼び名でスタートしたが、他に参加した商品のこともあって、マシュマロが白いことから、翌年から「ホワイト・デー」とした。  

 

尚、「ホワイト・デー」の発案者である三代目社長・石村僐悟氏は、昨年(2020年)4月8日、心不全によりご逝去されました。 心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 

ホワイト・デー」の起源については幾つかの説があるばってん、本命は、うっちゃんの「ホワイト・デー物語」を信じてもろーたら、いいっちゃないと。  福岡が始まりなので、未だ世界中には伝わっていない。  しかし、近隣の韓国・台湾・中国には「ホワイト・デー」としての習慣が広まった。 贈り物はそれぞれの国によって異なっている。  日本ではカタカナで「ホワイト・デー」だが、中国・台湾では北京語(漢字)で「白色情人節」と表記する。 何となく「情人」に違和感を感じません・・・?  情人=恋人のことだよ。

 

ホワイト・デー物語」について、長々とお付き合い頂きありがとうございました。 うっちゃんが「鶏好き」なのは、個人の嗜好だと思っていたけど、福岡県民の身体に染み付いた文化だと分かった。  他県にも誇れる「華味鳥」、「博多一番どり」、「はかた地どり」、「味宝卵」、「地黄卵」、「天上卵」、「つまんでご卵」・・・まだまだ沢山の鶏・卵銘柄が福岡で生まれ、生産されるようになった。 

(華味鳥  トリセンフーズより)

(つまんでご卵)

 

これらの名産物が、福岡藩の「鶏卵仕組」からスタートしたことを思うと、大いなる浪漫が広がる。 そして、それらを多くの料理店、焼き鳥店、菓子店舗が心を込めて料理・商品として提供してくれる。  生産者・事業者・消費者がつくり上げた「福岡鶏・卵文化」を誇りとして、これからも発展させよう。

 

最後に一言・・・

現在の「福岡鶏・卵文化」の原点は、何度も言いますが、福岡藩の「鶏卵仕組」です。 鶏卵の専売事業を担当することが決まった藩の役人が、真っ先に出向いたのは何処だと思いますか?

それは、専売事業の成功を祈った香椎宮の境内末社、「鶏石神社(けいせきじんじゃ)」です。 創建時期は不明だが、香椎宮と同じで古く、少なくとも関東以西で「」を祀る神社は、この「鶏石神社」一社のみ。 福岡県の鶏卵文化を、昔から見守って来ました。 

毎年9月1日が例祭日(鶏魂供養祭)です。 養鶏関係、鶏卵関係、鶏肉料理店、焼き鳥店、卵を使用する菓子店、に係わる皆さんが集まり、鶏と卵に感謝を捧げます。  ご存知でなかった方は、今年は是非、お参り下さい。  拝殿の前に、鶏の神像(雄雌左右)が建っています。 菓子業者の方は、特に右側の雌(卵を産む)の神像(〇印)に触って、ご利益をいただいてください。  

鶏石神社の卵型絵馬  

修理固成(しゅりこせい=おさめつくりかためなせ)」・・・きっと、新しいお菓子のアイディアが生まれ出て来る、と思います。

 

  2021年10月、「石村萬盛堂」は「ふくや」を中心とする地場企業6社が設立した新会社に事業譲渡している。 商標・商品名は引き継がれる。

 

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